第34話:運命の扉

 翌日の放課後。

 俺とユウトは電車を乗り継いで、懐かしい場所へと向かっていた。

 中学一年の時に一度だけ訪れた、あのキックボクシングジムだ。


「しかし、本当に行くんだな。嶋田さん、覚えてるかな」


「さあな。でも、他に頼れる人もいないし」


 俺の頭の中には、昨夜見た木戸健司の分析が、まだこびりついていた。

 予備動作を読む踏み込み。

 急所を的確に打ち抜く肘。

 俺自身も、まだよく分かっていない、俺の力。

 その正体を、知りたい。

 その一心で、俺はここに来ようと決めたのだ。


 ジムの扉を開けると、汗と革の匂いが混じった、独特の熱気が体を包んだ。

 サンドバッグを叩くリズミカルな音。飛び交うトレーナーの檄。

 数年前と、何も変わっていない。


「――あれ? 君たち、もしかして……」


 ミット打ちをしていたトレーナーの一人が、俺たちに気づいて、驚いたように声を上げた。

 人の良さそうな、笑顔が印象的な男性。

 嶋田さんだった。


「ご無沙汰してます。中学の時に一度、体験でお世話になった、春海です」


「春海くん! やっぱり! いやあ、大きくなったな! って、そんなことより見たぞ動画! とんでもないことやったじゃないか!」


 嶋田さんは、ミットを放り出す勢いで、興奮して駆け寄ってきた。

 どうやら、俺のことは覚えていてくれたらしい。


「あの、嶋田さん。今日は、お願いがあって来ました」


 俺は真っ直ぐに嶋田さんの目を見て言った。


「俺、自分の動きが、よく分からないんです。あの動画の解説を見て、初めて知ったことばかりで……。だから教えてほしいんです。俺のこの動きは一体何なんですか」


 俺の真剣な言葉に、嶋田さんの表情が少しずつ変わっていく。

 彼は、しばらく黙って俺の目を見つめた後、ふう、と一つ息をついた。


「……なるほどな。そういうことか」


 彼は、ジムの奥で腕を組みながら、険しい顔で練習を眺めていた、もう一人の男を手招きした。

 日に焼けた肌。剃り上げた頭。

 嶋田さんとは対照的に、冗談が一切通じなそうな、厳しい雰囲気を纏っている。


「真壁さん。ちょっといいですか。例の子が、来ましたよ」


「……ほう」


 真壁と呼ばれた男は、ゆっくりとこちらに歩いてきた。

 その鋭い目が、俺の全身を、値踏みするように見つめる。


「お前が春海悠か。話は嶋田から聞いている。中学の時、お前が体験に来た日のことも、俺は隅から見ていた」


 その声は、低く、そして重かった。


「動画も見た。あの解説者が言っていたことは、概ね正しい。だが、一つだけ違う。あれは、技術じゃない。お前のそれは、もっと根源的な……獣の『本能』に近いもんだ」


 本能。

 その言葉が、胸に突き刺さる。


「理屈で語るだけ無駄だ。もう一度、見せてみろ。お前の『本能』をな」


 真壁さんは、そう言うと、壁にかけてあったミットを手に取った。

 有無を言わさぬ、迫力だった。



 俺はグローブを借り、真壁さんと向き合った。

 ジムの中の誰もが、練習の手を止め、固唾を呑んで俺たちを見つめている。


「構えろ。好きに打ってこい」


 俺は息を吸い、そして吐いた。

 目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、あの日の、広場の光景。

 夏希に振り下ろされる、刃の軌道。


(――遅い)


 目を開いた瞬間、俺の世界から色が消えた。

 真壁さんの構え、重心、呼吸のリズム。

 その全てが、情報として、俺の中に流れ込んでくる。


 左ジャブ。

 いや、フェイントだ。

 本命は、右のボディ。


 俺は真壁さんが動き出すよりも早く、左フックに合わせていた。


 バチンッ!


 ミットが、空気を切り裂くような音を立てる。

 真壁さんの体が、わずかに揺らいだ。

 彼の目に、初めて驚愕の色が浮かぶ。


「……なるほどな」


 だが、俺の動きは止まらない。

 ワンツー、左ミドル、右ハイキック。

 体が勝手に動く。

 一番効率が良く一番威力の出る、最短の軌道を俺の本能が知っている。

 乾いた打撃音が、ジムの中に嵐のように響き渡った。


 数十秒後。

 俺が最後の一撃を打ち終えた時、真壁さんは汗だくのまま、呆然と立ち尽くしていた。


「……やはり、そうか」


 彼は震える手でミットを外すと、俺の肩を強く掴んだ。

 その目は獲物を見つけた狩人のように、ギラギラと輝いていた。


「春海悠。お前はアマチュアのリングにいるべき器じゃない。遊びで終わらせるな。プロに来い。俺が、お前を、世界の頂点に連れて行ってやる」


 それはスカウトというよりも、抗うことのできない運命の宣告のようだった。

 俺は真壁さんの目を見つめ返した。

 不安はない。

 あるのは新しい「面白いこと」が始まる、確かな予感だけだった。


「……はい。お願いします」


 俺の答えに真壁さんは、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。

 新しい物語が、今この瞬間から始まろうとしていた。

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