第31話:全ての序曲
中学校の卒業式から、一週間。
俺たちは、高校入学を目前に控えた、短い春休みを過ごしていた。
「それにしても、お前と同じ高校に行けるとは思わなかったな」
駅前のカフェで、ユウトがストローをかき混ぜながら言った。
向かいの席では、三井夏希が嬉しそうに頷いている。
「本当にね。悠くんが進学校に行くって聞いた時はどうなることかと思ったけど、ユウトも私も合格できて、本当によかった」
「まあ、お前を一人で行かせたら、何をしでかすか分かったもんじゃないからな。俺が監視役だ」
軽口を叩くユウトに、俺は苦笑いを返す。
俺が進学先に選んだ高校は、スポーツでは全くの無名だが、県内トップクラスの進学校だ。
ユウトも夏希も、中学三年生の後半は、必死で勉強していたらしい。
「別に、何もしないよ。ただ、面白そうなことを探すだけだ」
「その『面白そう』が、一番危ないんだっての」
そんな、いつも通りの会話。
この、何でもない時間が、俺は結構好きだった。
カフェを出て、駅前の広場を三人で歩く。
春休みということもあって、広場は多くの人で賑わっていた。
「高校に入ったら、何するの? 悠くんは、また色んなスポーツやるんでしょ?」
夏希が、期待に満ちた目で聞いてくる。
「まあ、何か面白いものがあればな。ユウトはどうするんだ?」
「俺はもちろん、お前のマネージャー役だよ。スケジュール管理から動画撮影まで、俺に任せとけって」
そんな未来の話をしていた、まさにその時だった。
――キャアアアアアッ!
広場の一角から、鼓膜を突き破るような、女性の悲鳴が上がった。
一瞬で、和やかな空気が凍りつく。
人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。
その混乱の中心に、一人の男が立っていた。
フードを目深に被り、その手には、鈍く光る刃物――包丁が握られている。
「う、そだろ……」
ユウトが、呆然と呟く。
男は、意味の分からない言葉を叫びながら、無差別に包丁を振り回していた。
パニック。恐怖。絶叫。
日常が、非日常に塗り替えられる瞬間を、俺は目の当たりにしていた。
「夏希、こっちだ! 逃げるぞ!」
ユウトが、夏希の腕を掴んで走り出そうとする。
俺も、二人を守るように、すぐ後ろに続いた。
だが、運命は、残酷だった。
混乱の中、人波に押された夏希が、足をもつれさせて、その場に転んでしまったのだ。
「――夏希!」
ユウトの悲痛な声。
その声に、そして、無防備に倒れた少女の姿に、通り魔の目が、ピタリと吸い寄せられた。
獲物を見つけた、肉食獣の目。
男は、よろめきながらも、一直線に夏希へと向かってくる。
(――まずい)
俺の頭の中で、全ての時間が、引き伸ばされたようにスローモーションになった。
男の歩幅。包丁の軌道。夏希までの距離。
思考が、高速で回転する。
間に合うか、じゃない。
間に合わせるんだ。
「――やめろぉっ!」
ユウトが叫びながら駆け出そうとするのを、俺は片手で制した。
「ユウト」
「悠!?」
「夏希を頼む」
それだけを告げて、俺は地面を蹴った。
恐怖は、なかった。
ただ、目の前で、仲間が傷つけられるのが、許せなかった。
男が、夏希に覆いかぶさるように、包丁を振り下ろす。
その、コンマ数秒前。
俺は、男の懐に滑り込んでいた。
(――遅い)
振り下ろされる腕の内側。
俺は、男の手首に隠された、力が抜ける一点を、下から掌底で正確に打ち抜いた。
ビリッとした衝撃が走ったのだろう。男の手から力が抜け、包丁がカラン、と乾いた音を立てて地面を転がった。
「なっ……!?」
武器を失った男が、驚きに目を見開く。
だが、その隙を見逃すほど、俺は甘くない。
がら空きになった、男の脇腹。
そこに、全体重を乗せた肘を、深く、的確に叩き込む。
(――これで、動けない)
「――がっ……!?」
男は、声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
気絶はしていない。
ただ、痛みで呼吸ができないだけだ。
最初の一撃から、ここまで、わずか一秒。
全てが、終わっていた。
◇
一瞬の静寂。
広場にいた誰もが、今起こったことを理解できずに、立ち尽くしていた。
俺は、崩れ落ちた男を一瞥すると、すぐに夏希の元へ駆け寄った。
「夏希、大丈夫か!? 怪我は!?」
「う、うん……。大丈夫……。悠くんが……」
夏希は、腰が抜けたように座り込んだまま、震える声で答えた。
その時、我に返ったユウトが、まるで別人のような、鋭い声で叫んだ。
「――悠! 夏希のそばから離れるな!」
ユウトは、俺と夏希の前に立ちはだかると、まず近くにいた屈強そうな男性と、もう一人、若い男性に叫んだ。
「すみません! そこの男を押さえるのを手伝ってください! まだ何か持ってるかもしれない!」
「お、おう!」と男性たちが頷くのを確認すると、ユウトはすぐさま指示を飛ばす。
「腕と足をお願いします! 警察が来るまで、絶対に立たせないでください!」
二人の男性が駆け寄り、うめき声を上げる犯人を取り押さえる。
その光景を確認すると、ユウトは集まり始めた野次馬たちに向かって、大声で叫んだ。
「皆さん、下がってください! 犯人は確保しましたが、まだ危険です! すぐに警察が来ます! それまで、ここから離れてください!」
その、あまりに堂々とした態度に、野次馬たちは、おずおずと後ずさる。
「誰か! 110番と119番、まだの人はお願いします! あと、申し訳ないですが、動画の撮影は控えてください!」
ユウトの的確な指示が、混乱していた広場に、少しずつ秩序を取り戻していく。
俺は、そんなユウトの背中を見ながら、ただ夏希の隣で、彼女が落ち着くのを待っていた。
「……ユウト」
「なんだ」
「……サンキュ」
「当たり前だろ。お前は、夏希だけ見てろ」
短い会話。
だが、それで十分だった。
その、無数の野次馬の中に、一人の少年がいた。
彼は、遠巻きに、スマホのカメラを回し続けていた。
そのレンズは、犯人でも、ユウトでも、夏希でもない。
ただ一人、仲間を守るように静かに佇む、俺の姿だけを、ずっと捉え続けていた。
そして、その動画ファイルが、ネットという大海に放たれるまで、あと数分しか残されていないことを、俺たちはまだ、知らなかった。
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