第28話:夏の最終走者
二百メートル決勝での衝撃から、わずか三十分後。
スタジアムは、異様な熱気に包まれたまま、この夏の陸上競技、最後の種目を迎えようとしていた。
男子四百メートルリレー、決勝。
「春海、本当に大丈夫なのか? さっき二百を全力で走ったばかりだぞ」
桜川中学校の招集テントで、リレーメンバーの一人が、不安そうな顔で俺に尋ねてきた。
彼は、第三走者。俺にバトンを渡す、重要な役目だ。
俺以外の三人のメンバーは、全員が全国大会の雰囲気に呑まれ、ガチガチに緊張していた。
「大丈夫。体は、まだ全然動くよ」
俺は、ストレッチをしながら、こともなげに答えた。
「それより、みんな、自分の走りに集中して。難しいことは考えなくていい。俺にバトンを渡すことだけを考えて、全力で走ってきてくれ。あとは、俺がなんとかするから」
俺の言葉に、三人の顔が、少しだけ和らいだ。
そうだ。
俺たちには、この怪物がいる。
俺たちの仕事は、ただ一つ。
この最終兵器に、最高の形でバトンを繋ぐことだけだ。
三人の目に、覚悟の光が宿った。
◇
「さあ、いよいよ最終種目、男子四百メートルリレー決勝です! 各校の選手が、スタートラインにつきました!」
実況アナウンサーの声が、スタジアムのボルテージを最高潮に引き上げる。
観客席の誰もが、固唾を呑んで、その瞬間を待っていた。
もちろん、その視線のほとんどは、アンカーとして待機エリアに立つ俺に注がれている。
「……始まったな」
観客席で、神崎蓮が静かに呟いた。
その隣で、黒川京介は、腕を組んだまま、黙ってスタートラインを睨みつけている。
彼らは、この伝説の夏、その最後の瞬間を目撃するために、まだこの場を動けずにいた。
パンッ!
号砲一閃。
第一走者が、一斉に飛び出した。
桜川中学校の第一走者は、ロケットスタートを決める。
良い滑り出しだ。
第二走者へ、バトンが渡る。
コーナーで、数々の強豪校が、じりじりと差を詰めてきた。
桜川中は、三番手で、第三走者へとバトンを繋いだ。
「――行けーっ!」
俺は、心の中で叫んでいた。
第三走者の彼が、必死の形相でバックストレートを駆け抜けていく。
前を走る二校との差は、開いている。
だが、彼は、諦めていなかった。
最後のコーナーを曲がり、俺が待つテイクオーバーゾーンへと、必死に食らいついてくる。
(……来る!)
俺は、スタートの姿勢を取る。
彼の足音が、近づいてくる。
疲労で、フォームが崩れかけているのが分かった。
でも、その瞳は、死んでいない。
「――ハイッ!」
練習通り、魂の叫びが飛んでくる。
俺は、前だけを見て、地面を蹴った。
右手に、カチリと、硬いバトンの感触。
完璧な、バトンパスだった。
『さあ、アンカーの春海にバトンが渡った! 現在、三位! 前を走る二校との差は、およそ五メートル! 絶望的な差がある! しかし、この男に、不可能という言葉はあるのかーっ!』
俺は、ただ、走った。
風になった。
俺の視界の先で、必死に逃げる二人の背中が、まるでスローモーションのように見えていた。
一歩、また一歩と、その差が縮まっていく。
いや、縮まっているという表現は、正しくない。
まるで、ワープでもしているかのように、俺は、彼らを飲み込んでいった。
「――な、なんだ、あの加速は……!?」
観客席の誰もが、自分の目を疑った。
ゴールまで残り五十メートル。
俺は、あっさりと二人を抜き去りトップに立っていた。
だが俺は、まだ加速をやめない。
もっと速く。
もっと先へ。
この夏、俺の中に蓄積された全ての経験と力が、今、爆発する。
ゴールラインを、俺は、ただ一人、駆け抜けた。
二位の選手がゴールしたのは、それから、一秒以上も後のことだった。
しんと静まり返る、スタジアム。
誰もが、今目の前で起こったことが信じられず、電光掲示板を凝視している。
やがて、そこに、タイムが表示された。
『――た、タイム、41秒02! よ、よんじゅういちびょうぜろに! あ、ありえません! これも、中学新記録! それも、従来の記録を、一秒以上も更新する、未来永劫破られることはないであろう、不滅の大記録だーっ!』
その絶叫を合図に、スタジアムは、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
「やった……! やったぞーっ!」
リレーメンバーたちが、泣きながら俺に抱きついてくる。
俺は、その輪の中心で、今までで一番、最高の笑顔を浮かべていた。
一人で出す記録も嬉しい。
だが、仲間たちと掴んだ記録は、もっと、ずっと温かかった。
「……書ける。最高の記事が、書けるぞ!」
記者席で森が、震える手でペンを握りしめていた。
観客席で神崎と黒川は、ただ呆然と、その光景を見つめている。
やがて神崎が静かに、だが力強く呟いた。
「……高校で、必ず、あいつを倒す」
伝説の夏が終わった。
四冠達成。
その全てが中学新記録。
怪物が残した爪痕は、あまりにも深く、そして鮮やかだった。
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