第28話:夏の最終走者

 二百メートル決勝での衝撃から、わずか三十分後。

 スタジアムは、異様な熱気に包まれたまま、この夏の陸上競技、最後の種目を迎えようとしていた。

 男子四百メートルリレー、決勝。


「春海、本当に大丈夫なのか? さっき二百を全力で走ったばかりだぞ」


 桜川中学校の招集テントで、リレーメンバーの一人が、不安そうな顔で俺に尋ねてきた。

 彼は、第三走者。俺にバトンを渡す、重要な役目だ。

 俺以外の三人のメンバーは、全員が全国大会の雰囲気に呑まれ、ガチガチに緊張していた。


「大丈夫。体は、まだ全然動くよ」


 俺は、ストレッチをしながら、こともなげに答えた。


「それより、みんな、自分の走りに集中して。難しいことは考えなくていい。俺にバトンを渡すことだけを考えて、全力で走ってきてくれ。あとは、俺がなんとかするから」


 俺の言葉に、三人の顔が、少しだけ和らいだ。

 そうだ。

 俺たちには、この怪物がいる。

 俺たちの仕事は、ただ一つ。

 この最終兵器に、最高の形でバトンを繋ぐことだけだ。

 三人の目に、覚悟の光が宿った。



「さあ、いよいよ最終種目、男子四百メートルリレー決勝です! 各校の選手が、スタートラインにつきました!」


 実況アナウンサーの声が、スタジアムのボルテージを最高潮に引き上げる。

 観客席の誰もが、固唾を呑んで、その瞬間を待っていた。

 もちろん、その視線のほとんどは、アンカーとして待機エリアに立つ俺に注がれている。


「……始まったな」


 観客席で、神崎蓮が静かに呟いた。

 その隣で、黒川京介は、腕を組んだまま、黙ってスタートラインを睨みつけている。

 彼らは、この伝説の夏、その最後の瞬間を目撃するために、まだこの場を動けずにいた。


 パンッ!


 号砲一閃。

 第一走者が、一斉に飛び出した。

 桜川中学校の第一走者は、ロケットスタートを決める。

 良い滑り出しだ。


 第二走者へ、バトンが渡る。

 コーナーで、数々の強豪校が、じりじりと差を詰めてきた。

 桜川中は、三番手で、第三走者へとバトンを繋いだ。


「――行けーっ!」


 俺は、心の中で叫んでいた。

 第三走者の彼が、必死の形相でバックストレートを駆け抜けていく。

 前を走る二校との差は、開いている。

 だが、彼は、諦めていなかった。

 最後のコーナーを曲がり、俺が待つテイクオーバーゾーンへと、必死に食らいついてくる。


(……来る!)


 俺は、スタートの姿勢を取る。

 彼の足音が、近づいてくる。

 疲労で、フォームが崩れかけているのが分かった。

 でも、その瞳は、死んでいない。


「――ハイッ!」


 練習通り、魂の叫びが飛んでくる。

 俺は、前だけを見て、地面を蹴った。

 右手に、カチリと、硬いバトンの感触。

 完璧な、バトンパスだった。


『さあ、アンカーの春海にバトンが渡った! 現在、三位! 前を走る二校との差は、およそ五メートル! 絶望的な差がある! しかし、この男に、不可能という言葉はあるのかーっ!』


 俺は、ただ、走った。

 風になった。

 俺の視界の先で、必死に逃げる二人の背中が、まるでスローモーションのように見えていた。


 一歩、また一歩と、その差が縮まっていく。

 いや、縮まっているという表現は、正しくない。

 まるで、ワープでもしているかのように、俺は、彼らを飲み込んでいった。


「――な、なんだ、あの加速は……!?」


 観客席の誰もが、自分の目を疑った。

 ゴールまで残り五十メートル。

 俺は、あっさりと二人を抜き去りトップに立っていた。


 だが俺は、まだ加速をやめない。

 もっと速く。

 もっと先へ。

 この夏、俺の中に蓄積された全ての経験と力が、今、爆発する。


 ゴールラインを、俺は、ただ一人、駆け抜けた。

 二位の選手がゴールしたのは、それから、一秒以上も後のことだった。


 しんと静まり返る、スタジアム。

 誰もが、今目の前で起こったことが信じられず、電光掲示板を凝視している。

 やがて、そこに、タイムが表示された。


『――た、タイム、41秒02! よ、よんじゅういちびょうぜろに! あ、ありえません! これも、中学新記録! それも、従来の記録を、一秒以上も更新する、未来永劫破られることはないであろう、不滅の大記録だーっ!』


 その絶叫を合図に、スタジアムは、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。


「やった……! やったぞーっ!」


 リレーメンバーたちが、泣きながら俺に抱きついてくる。

 俺は、その輪の中心で、今までで一番、最高の笑顔を浮かべていた。

 一人で出す記録も嬉しい。

 だが、仲間たちと掴んだ記録は、もっと、ずっと温かかった。


「……書ける。最高の記事が、書けるぞ!」


 記者席で森が、震える手でペンを握りしめていた。

 観客席で神崎と黒川は、ただ呆然と、その光景を見つめている。

 やがて神崎が静かに、だが力強く呟いた。


「……高校で、必ず、あいつを倒す」


 伝説の夏が終わった。

 四冠達成。

 その全てが中学新記録。

 怪物が残した爪痕は、あまりにも深く、そして鮮やかだった。

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