第9話:放課後スプリント(水泳)

日曜日の市民プールは、家族連れや練習に励む子供たちで賑わっていた。

塩素の匂いがツンと鼻をつく。

俺は水着に着替え、軽く準備運動をしながら、これから行われる町の水泳記録会を眺めていた。


「悠、本当にやるのか? 水泳なんて、授業でしかやったことないだろ」


隣で同じようにストレッチをしていたユウトが、心配そうに言った。


「まあ、なんとかなるだろ。走るのも泳ぐのも、前に進むって点では同じだし」


「そういう問題か……?」


俺は軽く笑うと、スタート台に立った。

エントリーしたのは、50メートル自由形。

一番距離が短くて、ごまかしが効かない種目だ。


『位置について』


アナウンスに従い、前傾姿勢をとる。

足の指で、スタート台の縁をぐっと掴む。

陸上のクラウチングスタートと、少しだけ感覚が似ていた。


号砲と同時に、俺は水面に向かって飛び込んだ。

冷たい水が、一瞬で全身を包み込む。


(……よし、いい感じだ)


水中で体を一直線に伸ばし、抵抗を減らす。

浮き上がる力を利用して、水面に顔を出した瞬間から、腕を回し始めた。

バタ足は、細かく、力強く。

腕は、できるだけ遠くの水を掴んで、体の下まで一気にかく。


あっという間に、25メートルを通過した。

ターンが近づいてくる。


(壁の一枚手前で、入る!)


俺は最後のひとかきで勢いをつけ、壁の前でくるりと体を丸めた。

足で壁を強く蹴り、再び水中を進む。


(浮き上がりは、浅く!)


陸上のスタートダッシュと同じだ。

できるだけ長く潜水して、スピードが落ちてきたところで水面に浮上する。

残りの距離を、俺は無心で泳ぎ切った。


ゴール板にタッチした瞬間、大きく息を吸い込む。


「はぁっ、はぁっ……!」


プールサイドに上がると、ユウトがタイムが書かれた掲示板を指差して、目を丸くしていた。


「おい、悠……。お前、校内トップの記録より速いぞ……」


「マジで?」


俺は掲示板に駆け寄り、自分の名前の横にあるタイムを確認した。

確かに、この前の学校の水泳大会の優勝タイムを、コンマ数秒上回っている。


「すげえ……。お前、本当に何者なんだよ」


「いや、でも、もっと速く泳げる気がする」


俺は自分の泳ぎを振り返っていた。

特に、ターンと、その後の浮き上がり。

もっと無駄をなくせるはずだ。


俺はもう一度、100メートル自由形にもエントリーした。

今度は、さっきの反省点を意識して泳ぐ。

ターン前の最後の一掻き、壁を蹴る強さ、浮き上がる時の角度。

その全てを、自分の中で一番しっくりくる形に修正していく。


結果、100メートルでもかなりの好タイムを記録した。


「春海悠くん、だね?」


記録会が終わり、着替えを済ませると、腕章をつけた大会の役員らしい人に声をかけられた。


「君、すごい才能だよ。本格的に、水泳をやってみる気はないかな? うちのクラブに来れば、すぐに大会で優勝できる選手になれる」


熱心な勧誘だった。

でも、俺の気持ちはもう決まっていた。


「ありがとうございます。でも、今は色々なことをやってみたいので」


俺は丁寧に頭を下げて、その誘いを断った。

一つのことに絞るのは、まだ早い。

世の中には、俺がまだ知らない「楽しいこと」が、たくさんあるはずだからだ。


帰り際、俺は誰にも見られないように、こっそりとスマホを取り出した。

掲示板に張り出された、自分の名前とタイム。

それを写真に収め、満足げに微笑んだ。

今日の頑張りが、また一つ、形として残った。


「おーい、春海!」


市民プールの出口で、聞き覚えのある声に呼び止められた。

振り返ると、そこにいたのは、サッカーの地域チームで一緒だったメンバーの一人だった。


「やっぱり春海か! お前、水泳もやってたのかよ!」


「まあ、今日だけね」


「相変わらずすげえな! あ、そうだ。今度、うちの中学のバスケ部が練習試合するんだけどさ、人数足りなくて困ってるんだよ。助っ人、来てくれねえかな?」


バスケットボール。

ボールを手で扱う球技か。


(……面白そうじゃん)


俺は、二つ返事でその誘いに頷いていた。

次の挑戦の舞台は、もう決まったみたいだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る