第8話:日常と勉強、芸術の入口

「――以上だ。春海、98点。よく出来てたぞ」


算数の小テストが返却され、先生に名前を呼ばれた俺は、席を立って答案用紙を受け取った。

クラスのあちこちから、「うわ、またかよ」「すげえ」という小さな声が聞こえてくる。


「悠、お前、いつの間に勉強してんだよ。野球の練習も行ってたろ?」


席に戻ると、隣のユウトが信じられないという顔で俺の答案を覗き込んできた。


「別に、そんなにしてないよ。昨日、教科書をちょっと読んだだけ」


「それで98点取れるか、普通!」


ユウトは大げさに頭を抱えている。

でも、俺にとっては本当にそれだけだった。


(手順を決めれば、早いんだけどな)


俺はテスト前に、やることを全部決めてしまう。

今日はここまでやる、とゴールを決めて、そこから逆算して一番短いルートを探すだけ。

先生が「ここ、大事だぞ」と言ったところだけを重点的に読めば、だいたいの問題は解ける。

スポーツも勉強も、根本は同じだ。



「どうしよう……今日、伴奏の人がお休みだって……」


音楽の授業。

合唱コンクールの練習をしようとしたところで、いつもピアノを弾いている女子が風邪で休んでいることが分かった。

先生も困った顔をしている。


「誰か、代わりにピアノを弾ける人はいないかしら?」


シーン、と教室が静まり返る。

みんな、お互いの顔を見合わせるだけだ。

このままじゃ、今日の練習は歌なしになってしまう。


(しょうがないな)


俺は、すっと手を挙げた。


「俺、やります」


その一言に、クラス中の視線が一斉に俺に突き刺さった。


「えっ、春海くんが?」


「ピアノなんて弾けたのかよ!」


一番驚いているのは、ユウトだった。

俺はみんなのざわめきを背中に受けながら、ピアノの前に座った。

楽譜を渡され、一度だけ、最初から最後まで目で追う。


(ふーん、こんな感じか)


頭の中で、メロディが勝手に流れ出す。

俺は大きく息を吸うと、鍵盤に指を置いた。


最初は、ぎこちない指使いだったかもしれない。

でも、数小節も弾けば、すぐに指が馴染んできた。

右手でメロディを奏で、左手で和音を合わせる。

楽譜に書いてある通りに指を動かすだけの、単純な作業。


一曲、最後まで弾ききった時、教室は水を打ったように静かだった。

そして一瞬の後、わっ、と歓声が上がった。


「す、すごい……!」


「完璧だったぞ!」


先生も、目を丸くして固まっている。


「春海くん……あなた、ピアノを習っていたの?」


「いえ、家に電子ピアノがあるんで、たまに触るくらいです」


嘘は言っていない。

別に誰かに習ったわけじゃない。

ただ、楽譜という設計図を見て、それを音にしているだけだ。

でも、それがみんなにとっては、信じられないことらしかった。



その日の午後は、美術の授業だった。

今日のテーマは、石膏像のデッサン。

目の前に置かれた、知らないおじさんの顔の彫刻を、画用紙に鉛筆で描き写していく。


(これも、結局は見たままを描くだけか)


俺はまず、全体の輪郭を薄く描いた。

次に、目と鼻と口の位置を決める。

大事なのは、それぞれのパーツの大きさのバランスだ。

鼻を基準にすれば、目の位置も口の大きさも、だいたい決まってくる。


あとは、光が当たっている明るい部分と、影になっている暗い部分を塗り分けるだけ。

俺は黙々と、鉛筆を走らせた。


「――春海くん、ちょっと見せて」


授業の終わり際、先生が俺の絵を覗き込んで、息をのんだ。


「……すごいわ。形も陰影も、完璧よ。これ、廊下に飾らせてもらってもいいかしら?」


「え、はい。いいですけど」


俺の返事に、先生は嬉しそうに頷いた。



「なあ、悠。お前、マジで何者なんだよ」


帰り道、ユウトが心底不思議そうな顔で俺に言った。


「足は速いし、サッカーも野球もできる。勉強もできて、ピアノも弾けて、絵も上手いって……。もう、わけが分かんねえよ」


「そうかな。俺はただ、面白そうだなって思ったことをやってるだけだよ」


俺がそう言うと、ユウトは大きなため息をついた。


学校からの帰り道、俺は廊下の掲示板に自分の名前が三つも張り出されているのを見つけた。

算数小テストの満点に近い点数。

合唱コンクールの伴奏者の欄。

そして、美術の授業で描いたデッサン。


(うん、悪くない)


周りに誰もいないことを確認して、俺はスマホを取り出すと、その掲示板をこっそり撮影した。

誰かに見せるためじゃない。

ただの、自己満足。

でも、こういうのが、俺にとっては一番のガソリンになる。


「おーい、春海!」


校門を出ようとした時、後ろから声がかかった。

振り返ると、別のクラスの男子が数人、走ってこっちに向かってくるところだった。


「なあ、お前、リレーも速かったよな?」


「まあね」


「じゃあさ、泳ぐのはどうなんだ? 今度の日曜、市民プールで町の水泳記録会があるんだけど、出てみないか?」


水泳、か。

そういえば、最後にプールに入ったのは、いつだったかな。


でも。


(面白そうじゃん)


俺は、すでに次の挑戦に心を躍らせていた。

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