EP 2

森の洗礼

光の奔流に呑まれた身体が、不意に重力を取り戻す。受け身も取れず、背中から地面に叩きつけられた。

「……いっ……てぇ……」

湿った土と、むせ返るような青葉の匂いが鼻をつく。ゆっくりと目を開けると、視界に広がっていたのは、どこまでも続くかのような巨木の森だった。見たこともない蔦植物が幹に絡みつき、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。

優斗はゆっくりと体を起こし、自分の姿と周囲を確認した。

服装は、実家から着てきたヨレヨレのジーパンと長袖のTシャツ。ポケットを探っても、スマホも財布も、面接のために持っていた履歴書の切れ端すら見当たらない。

「マジかよ……丸腰じゃねえか」

武器も道具も、食料も水もない。あるのは、あのクソ女神から一方的に押し付けられた、得体の知れないスキルだけだ。

「これからどうしろってんだ……。そうだ、あの女神、『石をパンにできる』とか言ってたな」

藁にもすがる思いで、優斗は足元に転がっていた拳大の石を拾い上げた。ひんやりとした硬い感触が、あまりにも現実的だ。

「よし……なれ……パンになれ! 熱々の焼きたてパンになれぇ!」

強く念じる。目を閉じ、全神経を石に集中させた。しかし、いくら待っても石は石のままだ。温かくもならなければ、柔らかくもならない。

と、その時。頭の中に、無機質な女性の声のようなものが直接響いた。

《システム:スキル《物質変換》の発動には、規定のポイントが必要です。ポイントが不足しています。善行を積むことでポイントを獲得してください》

「……だよな。やっぱり、そうだよな」

分かってはいたが、現実に突きつけられると落胆は大きい。善行。人助け。引きこもりニートだった自分にとって、最も縁遠い言葉の一つだ。

「こんな誰もいない森の中で、どうやって善行を積めってんだよ……」

悪態をつきながらも、優斗は立ち上がった。じっとしていても状況は変わらない。彼はあてもなく、森の中をてくてくと歩き始めた。

どれくらい歩いただろうか。空腹と不安で足が重くなってきた頃、不意に茂みの奥から、獣の苦しげな鳴き声が聞こえてきた。優斗は警戒しながらも、音のする方へと慎重に近づく。

そこにいたのは、一頭の美しい鹿だった。しなやかな脚が、地面に巧妙に隠された縄の罠に絡め取られ、もがくほどに食い込んでいく。その瞳は恐怖と苦痛に濡れていた。

「罠……? 誰がこんなところに……」

その瞬間、優斗の頭を打算がよぎる。これを助ければ、「善行」になるのではないか? ポイントが手に入るかもしれない。だが、それと同時に、目の前で苦しむ命への純粋な同情が湧き上がるのも事実だった。

「……待ってろよ、今、助けてやるからな」

優斗は覚悟を決め、罠に近づいた。鹿は彼を警戒して暴れたが、優斗はゆっくりと声をかけながら、固く結ばれた縄を解きにかかる。幸いにも、結び目は原始的で複雑なものではなかった。しばらく格闘した後、ついに縄が緩み、鹿の脚が解放された。

自由になった鹿は一瞬きょとんとした後、風のように森の奥へと駆け去っていった。

「……ふぅ」

安堵のため息をついた、その直後だった。

《システム:善行を確認しました。100ポイントを加算します》

再び頭の中に声が響き、視界の隅に『現在ポイント:100P』という半透明の文字が浮かび上がった。

「おおっ! 本当に加算された! 案外、簡単じゃないか! これでパンが……!」

希望の光が見えた。これで餓死は免れる。そう思った矢先、背後から地響きのような足音と共に、雷鳴のような怒声が浴びせられた。

「何してくれてんだ、テメェ!!」

振り返った優斗は、息を呑んだ。

そこに立っていたのは、身長2メートルはあろうかという大男。筋骨隆々とした肉体に、頭からはねじくれた牛の角と、ぴくぴくと動く耳が生えている。牛耳の獣人族だ。その手には、人の腕ほどもある太さの棍棒が握られていた。

「せっかくの獲物が逃げちまったじゃねえか!」

獣人――ワイルドは、血走った目で優斗を睨みつけた。罠の持ち主だったのだ。

しまった、と思ったがもう遅い。弁解の言葉を発する前に、ワイルドは獰猛な笑みを浮かべ、その棍棒を大きく振りかぶった。

「代わりにテメェが、今日の晩飯だ!」

風を切る音。そして、頭蓋を揺るがす鈍い衝撃。

優斗の意識は、そこでぷつりと途絶えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る