【第一部 紙】第一章 折り目
白い紙の折り目は、光を吸う。机に置いたそれを眺めていると、折り目の谷にだけ、夜の色が沈んでいった。僕は紙を封筒に戻し、鞄の底に滑り込ませる。大学へ向かう電車の中、窓ガラスには自分の顔が写っていた。痩せた頬。見慣れたはずの輪郭が、いつもより浅く思えた。
御子柴の机の引き出しは、誰かの手で丁寧に空にされていた。残っていたのは、たったひとつ、小指の爪ほどの紙片だけ。「四」の字の、はらいの部分が切り取られたみたいな形。ゴミ箱の縁にくっついていたのを見つけたとき、背筋のどこかの筋が音を立てて縮んだ。
「羽佐間さん、来ていただいて正解でした」
民俗学演習室。僕は非常勤の講師で、学生の相談には、できる範囲で応じている。呼び止めたのは、四回生の御子柴のゼミ生──水城だった。長い前髪の、眠たげな目。水面に立つ影のように頼りないのに、時々、底の方から鋭い光を投げてくる。
「御子柴先生、今月からゼミにも顔を出していなくて」
「それで?」
水城は一枚のクリアファイルを差し出した。中には、紙。正方形。四辺に仮名。中央に□。僕の鞄の底のそれと、あまりにも同じだった。
「先生、これ、置いていったんです。『調べものが終わるまで触るな』って」
「終わるまで、とは?」
「『四が揃うまで』」
水城の声は淡々としていた。僕はクリアファイルを受け取り、紙を光に透かした。折り目の谷にまた夜が沈む。紙の四つ角には、薄く黒い指あと。あるいは煤の汚れ。間を空けた仮名は、たしかに同じ配置だ。上辺に「し ず の」。右辺に「う し ろ」。下辺に「よ り」。左辺に「の ぞ く」。
僕は深呼吸をし、言葉を選ぶ。
「水城さん、これに見覚えは?」
「あります。高校のとき、流行りました。『しずのさん』って。やり方も、似てます。紙に□を書いて、ひとつだけ灯りを点けて、見たい人を思い浮かべて……覗く。終わったら四歩、歩く。振り向いたら、『数える声』に追いつかれるって」
数える声。背中で聞いた、乾いた「し」。
「ただ、高校の頃のは、もっと軽い遊びでした。でもこれは……」水城は言いづらそうに、指先で机の角をなぞった。「御子柴先生、ここ数か月、何度か『覗いてはいけない方』を覗いたみたいなんです。『しずのは覗かれるためにいる』って、冗談みたいに言ってました」
覗いてはいけない方。紙の四辺はすでに言っている。覗くより、うしろ。覗くより、うしろ。ふたつの辺が響き合って、部屋の隅々にまで薄い圧をかけてくる。
「先生、これ、危ないと思いますか」
「危ないと思います」
僕は即答していた。論拠はなかった。ただ、折り目の谷に沈む夜を、これ以上増やしてはいけないと、身体のどこかが言っていた。御子柴の部屋に見えた白い紙。僕の机の紙。水城のファイルの紙。三つの白が、見えない線で結ばれている感触がある。
研究室の蛍光灯は、照度が落ちると、どこかで細く鳴き始める。今も天井の奥で、チ、チ、と虫のような音がしていた。水城が椅子に腰掛け直し、もう一枚、紙を取り出す。それは、印刷されたログの束だった。動画配信サービスの、チャットの抜粋。御子柴が趣味でやっていたという、深夜配信の記録。
──し ず の は ど こ で 数 え る の
──よ ん は い ら な い
──四 つ 角 を 黒 く し ろ
記号の雨みたいなコメントの中に、等間隔の仮名が紛れている。整然としていて、だから余計に不穏だ。御子柴は、この紙を画面越しに見せたのだろうか。誰かに手順を誤って伝えたのだろうか。あるいは、誰かから、訂正を受けたのだろうか。
「水城さん、今日の夕方、研究室にもう一度来られますか。紙を持って。僕も、いくつか当たってみます」
「何を?」
「折り目のつき方です」
水城が怪訝そうに眉を寄せる。けれど、頷いた。「四時四十四分に来ます」
その時刻の言い方が、背中の皮膚を浅く擦った。偶然だろう、と心の中で笑う。だが笑いは喉の奥で丸くなって、どこにも転がらなかった。
研究室に独り残ると、僕は机の引き出しからロウソクを取り出した。白い紙をそっと広げる。折り目は四本。正方形に沿った線が、四つ角で交わる。角は、やはり少し黒い。煤か、指の脂か、あるいは──別の何か。
灯りをひとつだけ点ける。蛍光灯を消すと、部屋はすぐに輪郭を失う。ロウソクの火が机の上で揺れ、紙の白が浮く。僕は□の中心に片目を寄せながら、心の中で御子柴の名を呼んだ。呼んではならないような気がしたのに、呼んだ。かすかな良心を踏む音が、胸の内側で鳴る。
紙の向こうに、また部屋が見えた。今度は、僕の知らない角度から。ベッドの足元。ここではないどこかの、薄い緑のカーテン。窓の外に、灰色の空。雨。時計。針は、ほとんど「四」を指している。
──いち、に、さん、し。
背中で、数える声がした。僕は立ち上がらなかった。ただ、紙から目を離さぬまま、右手の指で机の縁をつかんだ。指先が湿る。冷たい汗か、部屋の湿度か。声は、同じ調子で、同じ速さで、同じ数まで。そして止まる。止まったあとに、ほんの一拍、紙が、わずかに膨らむのがわかった。折り目の内側に、空気が入るみたいに。
そのとき、ドアがノックされた。四度。間を置かずに。僕は紙から目を離し、ゆっくりとドアの方を向く。息を飲む音が、部屋の音になった。ノブが回り、ドアが開く。廊下の蛍光灯が白く差し込む。その光の端に、水城の輪郭があった。
「約束より、少し早いね」
水城は頷いて、足元を一度見た。何かを跨ぐように、部屋へ入ってくる。足先が、目に見えない線を避ける。妙な歩き方だと思う。水城は机の上の紙を見て、短く息を止めた。
「先生、角が、濃いですね」
「濃い」
「誰かが、数えている」
水城の声は、ロウソクの炎の高さくらいの細さだった。僕は頷く代わりに、紙の四つ角を指差す。煤が、さっきより濃い。指の脂ではない。部屋の空気が四つ角に吸われ、黒く凝る。こんな現象に、名前はない。けれど、もし名を与えるなら、こう呼ぶだろう──「うしろ」。
僕たちは声を潜め、紙の上に落ちる影を見つめた。炎がわずかに伸び、四つ角がまた黒くなる。黒の縁には、細い線がある。鉛筆の粉のようで、よく見ると、細かな文字に見えた。間を空けた仮名ではない。もっと密に、もっと連続した、黙読のような文字列。
僕は顔を近づけた。黒の線を追う。そこには、たしかに書かれていた。
──ふ り か え る な
読むのに、口は要らない。けれど、読んだ瞬間、僕の喉はひとりでに動いた。水城が小さく息を呑む。部屋の隅で、また、乾いた声が数える。
──いち、に、さん、し。
四まで数え、止まる。止まるたび、角が濃くなる。濃くなるたび、線が増える。線が増えるたび、言葉が密になる。ふりかえるなの行の下に、もう一行が薄く浮く。今度は、見覚えのある並びだった。
──し ず の は の ぞ く
ロウソクの火がかすかに鳴いた。僕ははっきりと理解した。覗くのは、いつも覗き手だけではない。紙は、窓だ。窓の向こうにも、窓がある。窓は、向こう側からもこちらに開く。御子柴が言った冗談は、冗談ではなかったのだ。
「水城さん」
「はい」
「四時四十四分が来る前に、ここを出よう」
水城は頷き、立ち上がった。僕も紙をクリアファイルに戻し、ロウソクの火を指で摘む。部屋は一瞬、音を失う。闇は、音のない方へ、濃くなる。ドアノブに手をかけたとき、また、ノック。四度。今度は、内側から。
僕は振り返らなかった。代わりに、水城の肩に手を置き、廊下へ押し出す。足元で、何か薄いものが破れる音がした。紙だ。見えない紙の、折り目が、靴底で裂けたのだ、と直感する。廊下の光は、白い。けれど、白の端は、夜に隣り合っている。
遠くで、また数える声がした。いち、に、さん、──そこで途切れて、何かが笑う。笑いは、誰のものでもない。紙が擦れる音に似ていた。
四は、まだ、来ていない。
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