拍手の粒を数える夏——私の“好き”は声を調えること

篠田あきよ

拍手の粒を数える夏

 真夏の会場には、いつも音が余っている。空調の低い唸り、舞台袖で擦れるスニーカー、紙コップの氷が小さく当たる音。私はフリーアナウンサーとして、マイクの前で一度だけ息を整え、その余白に声を置く。

 「ただいまより、開会いたします」

 ありふれた言葉でも、音程と速度、子音の角度を少し変えるだけで空気の温度はすっと下がる。拍手が起きたとき、私はその粒の大きさで今日の会場の調子を測る。ぱらぱら、から、ぱちぱち、へ。粒がそろっていくほど、ここに集まった人の注意が一本に結ばれていくのがわかる。——その瞬間が、私は好きだ。


 仕事を始めた頃、声は「出すもの」だと思っていた。けれど続けるうちに、それは違うと知った。声は「合わせるもの」だ。天井の高さ、床材の硬さ、夜の湿度、観客の年齢層、照明の色温度。季節が夏であること。あらゆる条件に声を合わせていく。料理でいえば塩のひとつまみ。多すぎれば台無し、足りなければぼやける。一声ごとに、世界に小さなピントが合う。


 地方の夏祭りで司会をしていた夜、浴衣の少女がステージ袖からこちらを覗いていた。出番直前、緊張で指先が固まっている。私は台本をたたみ、朝顔の柄に目をやって言った。

 「きょうの風は、朝顔に似てるね」

「軽くて、ちゃんとやさしい」

 少女はふっと笑って、舞台へ出ていった。彼女の第一声が客席に届いたとき、私はモニター越しに確認した。まっすぐなのに痛くない音。拍手の粒も、さっきより揃っている。——こういう瞬間のために、この仕事を続けているのだと思う。


 結婚式場には、別の夏がある。グラス同士が当たる高い音、厨房から漏れる油の匂い、子どもが椅子の上で作るリズム。新郎新婦の入場曲が流れはじめる直前、私は一秒だけ間を置く。その一秒が、会場の時間を「日常」から「儀式」に切り替えるスイッチになる。好きという感情は、言葉になる前から空間に滲み出る。私の役目は、それを言葉で輪郭づけて、みんなの前にそっと置くことだ。


 もちろん、うまくいかない日もある。マイクが突然ハウリングしたり、予期せぬ進行変更が滑り込んだり。そんなときほど、私は低い声でゆっくり話す。

 「大丈夫です。少々お待ちください」

 この一文には、私の“好き”が宿っている。混乱を鎮めること。誰かの不安の代わりに、私が息を整えること。舞台袖で主催者の目が合い、ほんのわずかに頷き合えたら、それでいい。


 SNSを開くと、世界は今日も音で溢れている。拍手の絵文字、笑い声の代わりの「w」、ため息に似た三点リーダー。テキストは無音に見えるけれど、私はそこにも微かな音を聴く。句読点の間合い、改行の深さ。文章だって、声で調えることができる——それに気づいてから、仕事の外側にも“好き”が広がった。


 私のモットーは「声で調え、言葉で遺す」。調えるのは今の空気、遺すのは未来の誰かの心。会場で生まれた温度や匂い、照明の明滅、拍手の粒。いまここでしか立ち上がらない感触を、文章に変換しておく。いつか誰かがふと読み返したとき、あの夜の風がページから吹くように。


 仕事帰り、夏のホームに立つ。電車が来る前の、あの低い風の前ぶれが好きだ。遠くでせみが最後の力で高音を伸ばしている。駅のアナウンスが流れ、私はふと、他人の声に耳を澄ます。知らない誰かの「お気をつけて」が、誰かの一日の端っこに灯りをともす。いい仕事だな、と素直に思う。


 夏は、音がよく育つ季節だ。氷の音は涼しく、団扇は柔らかく、花火は胸腔の奥を震わせる。私は今日もマイクの前で一度だけ息を整え、会場に最初の言葉を置く。

 「ようこそ」

 その一語が、誰かの不安を一ミリだけ引き受ける。終わる頃、拍手の粒が最初より少しだけそろっていたら、私は今日も自分の“好き”をちゃんと届けられたのだと思う。

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拍手の粒を数える夏——私の“好き”は声を調えること 篠田あきよ @sakka_akiyo

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