第3話 妖獣
「さて気前よく啖呵切って出てきたは良いものの、どうしたもんかね」
村民の期待を大いに盛り上げ、その勢いのまま件の山に立ち入った高次郎であったが、斬る相手の正体が掴めないまま怪物の領域に足を踏み入れるのはこれが初めての事であった。田畑を好き放題荒らす大鹿を退治してくれと言われればそうしたし、数百匹で複数の山を支配していた群狼は三ヶ月掛けて全滅させた。事前にどういう獣なのかが分かっていれば、どう殺せば良いのかは自ずと分かる。それは高次郎にとって造作もないことであった。しかし本当に得体の知れない怪物を斬った事はまだなかった。そんなものが本当にいるとも思っていない。
「ま、なんであれこの太刀があれば俺に斬れぬ筈はない。なあ?」
高次郎は刀に語り掛ける。高次郎がこの世で信じているものは唯一この太刀のみである。
確かにこの山は異様だ。立ち入ってみれば本当に見た目通りに強烈な異臭が立ち込めている。常人ならば嘔吐の末に昏倒する所だが、高次郎は耐えられた。少々臭うなと眉を顰める程度で済んでいる。それ故に高次郎は楽観視していた。
しかし山に分け入るにつれ、流石に危機感が募り始めた。
山道に獣の足跡がある。形から見て熊であろう。それは良い。なぜ熊の前足のすぐ後に、狼の後足の跡があるのか。そこから少し離れると今度は猪の足跡があり、狸、兎、鹿と続き、また熊に戻って来る。そしてそれらは規則正しく一列に並んでいるのだ。
「獣が仲良く行進でもしているというのか。いやそうだとしても……」
それなら、なぜ糞の一つも見当たらないのか。山道や、少し道から外れた茂み、木の根元にも一つもない。それは山の法則として有り得ないことである。更に言えば、そもそも獣の気配がしない。高次郎が獣の気配に気付かぬ事はない。間違いなく、この山には獣が今一匹も居ないと断言できた。獣が居ないなら糞が無いのは道理。ならこの足跡はなんだ。脳裏に鳴り響く警鐘をねじ伏せながら高次郎は足を進めるが、山の中腹に差し掛かった辺りでついに足を止めざるを得ないほどの異常に直面した。
粘液である。大量の黄ばんだ粘液が山道に、樹肌に、見渡す限り辺り一面にへばりついていた。
「山の臭いと黄ばみの原因はこれか……」
異常の原因は分かった。だがこれが何なのかは分からない。
相手は獣だ。山にいる以上それは絶対だ。だがこんな真似が出来る獣がいるのか。
或いは樹木がこの粘液を分泌しているのか。それならばまだ分かるが、高次郎の感覚はそれを否定していた。何故なら足音と鳴き声がする。こちらに向かって凄まじい速度で近づいてくる。高次郎は刀に手を伸ばす。問題ない。斬れる。斬れる筈だ。
この世で唯一信じられる物を握りしめる。何故なら高次郎は今恐怖しているからだ。
「ビョロロロロロロロロロロロロロ」
獣の足音と共に鳴き声が近寄ってくる。何だこの声は。獣の唸り声ではない。獣より鳥の鳴き声に近いがやはり違う。こんな不愉快な声の鳥がいるものか。まるで、底無し沼から何かが噴き出してくるような水音が。
「ビョロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ」
高次郎の肌が粟立つ。これまでの血に塗れた人生でも経験した事のない恐怖。
想像の埒外。今、自分の知る世界が突き崩されようとしている。
怪物が目視できた。真っ直ぐにこちらに突進してくる。それを見た上でなお信じられなかった。
こんなものがいる筈がない。いる筈がないものを斬れるのか。
いや斬れる。斬れねば死ぬ。高次郎は狂気と信仰に縋り、未知の恐怖と相対する。
「ビョ―――――――――――――――――――――――――――――」
それは体長数十尺にも及ぶ巨大な
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