第16話: 品川ー潮流のはじまりー
晩夏の湘南を巡った旅の余韻が、まだ心のどこかに残っていた。
慶彦は、数日ぶりに東京へ戻っていた。
そして今日は、LIVIERA本社がある品川インターシティでの、"湘南ショー"の打ち合わせになる。
打ち合わせ場所は、LIVIERAの会議スペース。ガラス越しに東京湾を臨むその空間は、洗練と静けさをあわせ持っていた。"湘南ショー"に向けた最初の打ち合わせが、静かに始まろうとしていた。
香月は、変わらぬ落ち着いた物腰で慶彦を迎え入れる。そして、丁寧に今回のショーの趣旨を語りはじめた。
「今回は、LIVIERA原点に立ち帰り、地域密着の展示が中心になります。九鬼さんが、葉山や鎌倉で撮られた作品を、暮らしの延長として見せたいと思ってます。小規模ですが、来場者との距離が近い分、印象に残るはずです」
すでに慶彦が撮影した写真は、展示用に仕上がっていた。香月は、それらを一瞥し、確かな信頼を込めて頷いた。
「九鬼さん、あなたの写真には、不思議な余白があります。自然光や風、生活の中の一瞬が、ちゃんと写っている。──そう。どこか、暮らしに溶け込む力があるんです」
会話は自然と広がっていった。
慶彦のこれまでのキャリア、そして今後の活動の方向性についても。
「かつて人工的な世界の頂点にいた人が、一歩引いて、別の角度から美を見つめ直す──それこそが、今のLIVIERAに必要だと私は思っているんです」
香月の言葉は、提案というよりも観察だった。彼女は慶彦に何かを強いることなく、彼の視点が持つ特有の価値を静かに見つめていた。
やがて、香月は一枚の企画書を差し出した。
「それと、12月ですが。実は、横浜の赤レンガ倉庫で、大きなイベントを予定しています。LIVIERAの10周年、東京コレクションを迎えるにあたって──その前哨戦です」
そこには、“日常に寄り添う美”というテーマが記されていた。
「湘南でのショーの反響次第ではありますが、私としては、もうお願いしたいと思っているんです。あなたに、メインビジュアルと映像撮影の両方を」
すでに決定事項に近い。
香月の語り口は柔らかかったが、その裏には揺るぎのない判断があった。
慶彦は黙って窓の外を見つめた。街がきらめく。かつて歩んできた商業写真の世界──完璧な構図と光に彩られたステージの数々──とは異なる何かが、そこにはあった。
あの時の人工美ではない。
──自然のゆらぎ、人々の柔らかな表情、その中に滲み出す風景。
それは、かつての彼が見落としていたものだった。
******
ショーの準備を進めながら、慶彦の中にひとつの感覚が芽生えていた。「大きな潮流の始まり」。だがそれは栄光への回帰ではない。写真家としての、次のステージへの小さな兆しだった。
香月との会話の中で、慶彦はあらためて気づいていた。
──今、求められているのは、“生活の中の真実”だ。
港を歩き、人々を見つめ、暮らしの空気に身を委ねる。その姿勢が、今の作品ににじみ出ている。
本人すら明確には意識していない。 だが、無意識のうちに、彼はそれを“望んでいる”のかもしれない。
会議を終えた後、慶彦は品川の街に出た。足取りは軽かった。冬の気配を含んだ風が、品川の街をすり抜けていく。
──俺の写真が、また少し変わりはじめている。
そんな気がしていた。
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