第15話: 潮のゆくえ(湘南編 後編)―江ノ島∶潮騒の余白―
江ノ電の車窓から眺める海辺の風景は、どこか懐かしさを誘った。
由比ヶ浜、そして七里ヶ浜──江ノ島へと続くその道すがら。
慶彦はふと、神戸・須磨の海を思い出していた。
幼い頃、祖父に手を引かれて歩いた海岸線。
まだ何者でもなかった自分と、全てがこれからだった時間。
その記憶が、遠い潮騒のように蘇る。
******
江ノ島駅を出ると、空はすでに夏の光で満ちていた。
観光客のざわめき、若者たちの笑い声、潮の香りと熱気。
にぎわいの中を抜け、慶彦は弁財天仲見世通りへと足を踏み入れる。
浴衣姿のカップル、外国人観光客。
修学旅行らしき女子中学生の一団が、手にソフトクリームやお守りを抱えて歩いている。
その一人の少女が、娘の美佳と重なった。
──もう少しだけ、一緒に旅ができたら。
そんな想いを、慶彦は胸に飲み込んだ。
参道の途中、絵葉書屋の店先で立ち止まり、慶彦は一枚の絵葉書を手に取った。
夏の江ノ島、夕暮れの海。
美佳の好きそうな色合いだった。
近くのカフェに入り、冷たい飲み物を注文すると、旅の出来事を簡潔に記し始めた。
———————
美佳へ
今、江ノ島に来ています。
夏の海はやっぱり、元気をくれるね。
美佳の方は、バスケ部頑張ってるかな?
前に話してくれた港の写真企画。
あの後、本当に動き始めました。
企業の人と、海をテーマにした写真の打ち合わせを来週、東京ですることになってます。
美佳の「やってみたら?」の一言が、パパの背中を押してくれたよ。
暑いから、体に気をつけて。
また連絡するね。
パパより
———————
ペンを置くと、窓の外の光が、橙に染まり始めていた。
海辺に沈む夕日が、街の喧騒を包み込むように静かに広がっていく。
カフェを出た慶彦は、島の先端──稚児ヶ淵の方角へと向かった。
人波は少しずつ減り、海と空とが溶け合う時間。
赤い欄干の遊歩道の先、慶彦は立ち止まり、スマートフォンを手に取った。
メールが一件、香月からだった。
《江ノ島のあたり、今の時期にぴったりの場所ですよね。来週、改めて打ち合わせの時間を取りたいのですが、ご都合いかがですか?》
慶彦は、しばし考えたあと、指先で返信を打つ。
《連絡ありがとうございます。打ち合わせの件、もちろん大丈夫です。また東京で、詳しくお話聞かせて下さい。》
《追伸:江ノ島の夕焼けは、とても美しいです。良い写真撮れました。》
スマホをポケットに戻す。
遠く、波音だけが静かに響いていた。
夕陽が沈む頃、彼は、声なき波音に背中を預けていた。
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