第10話: 風の渡る島で(中編:しまなみ海道)― 島を渡る風 ―
尾道からフェリーで向島へ渡り、そのまま、しまなみ海道を南へと下った。
因島、生口島、大三島──橋と島がつないでいく道は、まるで海の上を歩いているようだった。
車の窓を全開にすると、潮の香りとともに、島ごとの“空気の違い”が肌に伝わってくる。
同じようでいて、少しずつ違う。風の匂い、光の柔らかさ、走る自転車の人の表情。
ひとつとして、同じ島はなかった。
古びた船がいくつか、ロープでゆるく繋がれている。漁具が干され、網の間から白いタオルが風に揺れていた。
慶彦は車を停め、ゆっくりと歩いていく。
人の気配は少ない。けれど、ここには確かに、誰かの「生活」がある。
陽に焼けた桟橋の上で、網を直していた老人が、ふとこちらを見た。
目が合うと、微かに頷いて、また手元に視線を戻す。
その背中に、ひとつシャッターを切った。
その音は波の音に溶け合わさり、誰にも気づかれないまま、ただその場に残った。
少し先の小さな集落に、駄菓子屋のような商店を見つけた。
木の扉を開けると、ガラガラと音がして、中から「いらっしゃい」と年配の女性の声がした。
「お兄さん、写真撮る人かね?」
レジ横でお茶のペットボトルを手に取ると、老婆がそう声をかけてきた。
「はい。旅の途中で、港町を回ってるんです」
「ほう、珍しいねえ。最近は誰も撮らんのに」
そう言って、彼女は飴玉を一つ袋に入れてくれた。口に含むと懐かしいサイダーの味がした。
「暑いけんね、気をつけてね」
その日の宿は、
海沿いに立つ二階建ての建物で、古いけれど、窓が大きくて風通しが良かった。
夜。電気を落とし、窓を少しだけ開けたまま、布団に横たわる。
波の音と、風に揺れる木々の葉音が交互に響く。こんな夜には、何を考えるでもなく、ただ静かに目を閉じることができる。
それだけで、今日という一日が“満ちていた”気がする。
机の上に置いたままの葉書が、目に入った。娘の美佳に買った、可愛い港の絵柄のものだ。
何か一言、書こうと思っていた。
でも、ペンは動かなかった。
「元気かい?」
「写真、見てくれたかい?」
──どれも、ちがう気がした。
葉書を封筒に入れて、カメラバッグにしまった。
まだ言葉にならないものは、言葉にしなくていい。
いつか、違う形で届けばいい──そんな気がした。
波の音が、少しだけ遠くなった。
どこかの灯りがふっと消えるように、夏の夜が深まっていく。
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