臥身香炉

をはち

臥身香炉

第一章:一度目の夢


新宿の雑踏を抜け、路地の奥に佇む古びた雑居ビル。


その最上階、薄暗い一室に「魔女」が住むという噂を耳にした神崎雅人は、半信半疑ながらも足を運んだ。


恋に疲れ果て、運命の女性など存在しないと諦めかけていた彼にとって、それは最後の希望だった。


部屋に足を踏み入れると、仄かに甘い香りが鼻をつく。


中央に置かれた古めかしい香炉から立ち上る煙が、薄闇に揺らめいていた。


魔女は老女とも若女ともつかぬ不思議な微笑を浮かべ、静かに告げた。


「臥身香炉は、縁ある女性を夢で示す。ただし、三度しか会えぬ。彼女の手がかりを掴め。それを逃せば、永遠に失う。」


雅人は香炉の前に横たわり、煙を吸い込んだ。


意識が溶けるように落ち、夢が始まる。


そこに現れたのは、名も知らぬ女だった。


長い黒髪が月光に揺れ、切なげな瞳が彼を見つめる。


彼女は無言で微笑み、手を差し伸べた。だが、触れる直前、夢は霧のように消えた。


目覚めた雅人の胸には、彼女の面影が焼き付いていた。


しかし、名前も居場所もわからぬまま、ただ心臓の鼓動だけが熱く響いていた。




第二章:二度目の夢


一週間後、雅人は再び魔女の元を訪れた。


最初の夢が忘れられず、彼女の手がかりを掴みたいという衝動に突き動かされていた。


魔女は変わらぬ微笑で迎え入れ、香炉に新たな毒物をくべた。


「二度目だ。気をつけなさい。残りは一度だけ。」


再び夢の中、彼女は現れた。今度は薄暗い森の小道に立っていた。


彼女の唇が動くが、声は届かない。


雅人は必死に近づこうとしたが、足元は泥のように重く、彼女の姿はまたもや霞んだ。


目覚めたとき、彼の手には一本の赤いリボンが握られていた。


夢の名残か、現実のものか――確かめる術はなかった。


魔女の目は、まるで彼の心を見透かすように鋭かった。


「次が最後だよ。」その声には、どこか冷ややかな響きがあった。




第三章:三度目の夢


三度目の訪問。雅人の心は焦燥に支配されていた。


彼女の手がかりを掴めなければ、すべてが無に帰す。


香炉の煙はこれまで以上に濃く、部屋を満たす異様な甘さに息が詰まりそうだった。


魔女の声が低く響く。「三度目だ。約束の最後。失敗すれば、彼女は永遠に消える。」


夢の中、彼女は古い洋館の窓辺に立っていた。


彼女の瞳は悲しみに満ち、雅人に何かを訴えているようだった。


彼は必死に彼女に呼びかけたが、声は届かず、彼女の姿はガラスのように砕け散った。


目覚めたとき、雅人の頬には涙が流れていた。


だが、彼女の名前も居場所も、依然として掴めなかった。魔女は静かに首を振った。


「三度が終わった。もう香炉は使えぬ。」


その言葉に、雅人の胸は鉛のように重くなった。


だが、彼女への想いは消えず、むしろ燃え上がるばかりだった。




第四章:禁忌の四度目


約束を破る恐怖を知りながら、雅人は四度目の来店を決意した。


彼女を失うことへの恐怖が、魔女の警告を上回ったのだ。


雑居ビルの階段は異様に冷たく、足音が不気味に反響する。


部屋に足を踏み入れると、魔女の微笑はこれまでと異なり、どこか底知れぬ闇を孕んでいた。


「約束を違えるのか。」


魔女の声は、まるで凍てつく風のように鋭かった。


「何も、恐ろしいことなどない。ただし、代償は払わねばならぬ。」


香炉の煙は今まで以上に濃密で、雅人の意識を瞬時に飲み込んだ。


夢の中、彼女はいた。


だが、彼女の姿は歪み、瞳は虚ろで、まるで生気を失った人形のようだった。


彼女が口を開くと、声ではなく、黒い煙が溢れ出した。


「なぜ、約束を破った?」


その囁きは、雅人の心を切り裂いた。


目覚めたとき、部屋は静寂に包まれていた。


魔女の姿はなく、香炉だけが冷たく光っていた。


雅人の手には、彼女の赤いリボンが握られていたが、それは血のように濡れていた。


彼の背後で、かすかな笑い声が響く。


魔女の声か、それとも――。


雅人は知っていた。四度目の夢は、夢では済まないことを。

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