戯言遣いにあこがれて
edwinmullhouse
第1話 アンチ・西尾維新
私の名前は七海七竃(ななみななかまど)。都内の高校に通う女子高生だ。私の両親はたいそう気に入ってこの名前をつけたらしい。植物の名前だと知ったのは幼稚園の頃で、実際にその植物の写真をみたのは小学三年生のときだった。そして名前いじりがはじまったのもそのときからだ。
ななかまど。どうしてユリでもなくボタンでもフジでもなく、いまいちぴんとこない庭木を名前に付けたのか。由来を親に尋ねてこいという宿題がでたので聞いた時に、母親はこう答えたのだ。
「お母さんとお父さんの好きな小説に、七々見奈波(ななななみななみ)っていう登場人物がいてね。お母さんその人の名前がすごく好きなの。だから七竃にも、そういうカッコイイ名前を付けてあげたら幸せになれるかなって」
幸せになりたかったのか、それとも幸せにしてあげたかったのかどちらかは後の人生でわかることだ。
父親はこういう。
「西尾維新っていう小説の神様がいてね。そのひとはユニークな名前をつけるのがとても上手だったんだ。ぼくとお母さんは小説の神様に憧れてたからね、いつか子供にはユニークでかけがえのない名前をつけてあげようと話していたんだよ」
つまりまとめたり想像をこねたりすると、こういうことらしい。私は西尾維新という変な小説家のつくった頭のイカれてるネームに憧れた両親のせいで、この初見では絶対に読めないし読めたところで変な顔をされる「七竃」を一生背負うことになったのだ。なんかかっこいいから、という理由で。
私は提出用の用紙に「きれいな実がなるからです」と書いて教卓の上に置きましたとさ。めでたしめでたし……といいたいところだが。
話はこれで終わらない。
四方山話が続く。
小学生の私に、父と母は西尾維新を勧めまくった。とにかく浴びるように読ませまくった。ふつう(ということばにはあまり真実味をふつうに覚えないが)夏目漱石や宮沢賢治といったメジャーコードから文学のイロハをおしえそうなものだが、我が両親が賜ったのは「クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い」だった。
ひとの話の中で知らない本の話題が出てくると、その日みた夢の話を聞かされるみたいな不毛感がある。だからここでは、この本の内容そのものが私の人格形成を手伝ったとか、情操を教育したとか、そういうことではないのだと断っておく。
この小説は「戯言シリーズ」と呼ばれる続き物の一巻で、全九巻の始まりの書だ。シリーズ名の通り、「戯言」を用いる主人公「戯言遣い」が登場し、さまざまな事件を解決したり、異能力バトルをしたりする(なにそれ?)。
この「戯言遣い」というのが全くのニヒリストで、ひとを騙すことにかけては天性の才があるし、騙すことに関して一切の罪悪感を覚えない。人類の最悪であり災厄みたいな奴なのだ。べつにこの他人の物語の登場人物も覚えてなくていい。
大事なのは、シリーズを一読した結果、私という人間が「戯言遣い」に少なくない影響を受けてしまったということだ。仕方がない、仕方がないのだ。だって、中二病まっしぐらのプリンみたいなやわらかさの精神に、無理やり物事を斜に構えて見るニヒリストの姿を見せつけられたのだ。朱に交わって赤く染まらないほうがどうかしている……痺れるぜ、と思わずにはいられなかった。
それに、両親の期待の眼差しもあった。彼らは私に「勉強をしろ」とか「部活を頑張れ」とかは言わなかった。親の期待の方向がわからないというのは、子供にとっては意外と困る。独立独歩で歩いて行けるほど思春期はタフじゃない。どうしても、こうあれと言ってくれるひとに寄りかかるものだ。
私には親の期待がなんであるかすぐにわかった。彼らのあこがれる「西尾維新の書く登場人物みたいに生きて欲しい」のだ。
そう、これは本当に、ふざけた話。七海七竈はふざけた期待をする憎き両親とふざけた名前をつけるきっかけになりやがった西尾維新の作品によって、すばらしきニヒリストに成長したのだった。そのせいで中学時代はクラスメイトから変な顔をされたし、先生からも仕方の無いやつだと諦められていた。みなさんのクラスにもひとりはいる(た)かもしれない、斜に構えてるだけのウザイやつを想像してもらえればいい。それが私だ。そして中学校の3年間をふりかえってみると、どうだ。
そこにはなにもない。むしろ、自分自身のニヒリスト気取りな発言のせいで生み出した焼野原が広がっているだけだった。
だから、中学校を卒業するときに、私はこう考えた。西尾維新を読むのをやめよう。そして、ニヒリストをやめよう。ふつうの女子高生らしく、ふつうにおしゃれをして、ふつうに友達をつくり、ふつうに毎日を過ごそう。
説明が長くなってしまって申し訳ない。
私は七海七竈。アンチ西尾維新。
名前以外は、ふつうの女子高生だ。
*
「おい七海、ちょっとツラ貸せよ」
ふつうの女子高生が入学初日にヤンキーにからまれる可能性はどのくらいのものだろうか。私は配られたばかりのプリント類をかばんにしまいながら、金髪の女子を見上げた。背は私よりも低いかもしれないが目付きが凶暴に鋭い。
「えっと……」
ヤンキーっぽい子は胸をわざと張っておでこの上で結んだ髪を揺らすと、
「江戸川乱歩!」
はきはきとおすすめの作家を教えてくれた。
「……えっと」
私もなにかしら作家の名前をあげて文学トークに花を咲かせるべきだろうかと逡巡したが、
「江戸川乱歩。あたしの名前」
「……ああ。え? あ、はい。どうも?」
自己紹介だったらしい……江戸川乱歩? え、なまえ? 緊張のあまりほかの子の自己紹介をきちんと聞いていなかったことを悔やむ。
頭が追いつかないままに私も名前を述べる。
「私は七海七竃……」
「こっちこい」
「あ」
鷹にがっちり掴まれて大空へ連れ去られてゆくプレーリードッグのように、江戸川乱歩に首根っこをつかまれて教室を後にした。
ずんずんと廊下を進む彼女に私は尋ねる。
「あの、江戸川さん?」
「あたしのことは乱歩ちゃんと呼べ」
「乱歩ちゃん? 私どこへ連れて行かれるんでしょうか 」
「はあ?」
めちゃくちゃすごまれてしまった。人生でこんなことは初めてだ。鼻つまみものとして生きていた恥の多い中学校時代にも、こんな目は向けられたことがない。
こえぇ……ヤンキーこえぇ……。
「シメるんだよ」
ほんとに怖い。
「シ、シメ……私は何か気に障ることをしたのでしょうか」
「は? ちげーし。あんたじゃなくて、あんたの敵をシメるんだよ」
「私の?」
「そしてあたしの敵でもある」
まったく要領を得ない会話が進軍していく。
わざわざ同中の生徒が来なさそうな土地の高校を選んだつもりだったが、すわその試みは失敗に終わったのだろうかと背筋に冷たいものが走る。それとも、常に心に敵を見定めろ、ということだろうか。生き馬の目を抜くような現代社会において、そのアフォリズムはきっと正しいとは思うけど……。
「あんたさっき自己紹介で言ってたじゃん。敵がいるって」
「自己紹介……」
なんていっただろうか。緊張していて長々と喋ってしまったことは確かだ……あ。
「いいました、私。私の人生の敵は――」
西尾維新。
私はアンチ西尾維新です。
たしかにそういった。
「しょ? だから、シメにいこう。私もあいつは気に入らないんだ」
「いや何をいって……西尾維新は小説家でしょ? こんな学校にいるわけがないよ」
いるとしてもせいぜい講談社か、それとも集英社か……今はジャンプで週刊連載してないんだっけ? 江戸川乱歩が故人の作家であるのとおなじくらい確固たる事実を伝えると、乱歩ちゃんは「あ?」と健康的な犬歯を見せつけてきた。
「西尾維新が小説家? なにいってんだ七海」
ぴたりと歩を止めて振り向き、びしりと廊下の窓の外にそびえ立つ古びた校舎を指さした。
「あいつは図書館にいるんだぜ」
渡り廊下を渡り、回廊を回り、階段を上り下り。また渡り廊下を渡ると、目の前に耐震補強を施された古めかしい棟が現れる。この学校の図書室は図書館とも呼ぶべき代物であり年代物で、一棟丸々そのための施設になっていた。
両開きのドアを押して開けると、木の香りが暴力的なほどに襲いかかってきた。黴や湿気の臭さも。入って正面にあるリファレンスカウンターにつかつかと前進すると、乱歩ちゃんはそこに座る女子生徒の前で止まった。
「……なにか御用でしょうか」
深い鳶色の瞳が私たちを捉えた。墨色の長い髪を黒い紐で束ねて肩に流している。リボンの色を見て、あ、と気づく。二年生……先輩だ。
「さっきの借りを返しに来たぜ」
「……そう」
読みさしの文庫本を脇に置くと、その先輩は手を差し伸べた。
「……んだよ?」
握手すべきかどうか戸惑う面白い顔の乱歩ちゃんに、
「返却する本を頂戴」
短くことばを放つ。
「ちげぇよ! 本なんて借りてねえ!」
「なに、じゃあなにを返しに来たの」
「ケンカの借りだ!」
「ああ、そう……」
疲れた、といわんばかりに、先輩は目を細めて背を丸めると、脇にあった本を開いてまた没頭してしまった。
「……おい! 話はまだ終わってねえぞ!」
「終わりよ。ここは図書館で、本の貸し借りが主な目的の場。用がないならさっさと帰って。うるさいひとは嫌いなの」
「くぉのやるぅぉう…………!」
「ま、待って乱歩ちゃん。このひとのいうとおり、図書館では静かにしたほうがいいよ」
「うん、その通りだな」
うわっ急に冷静になった。なんだこいつ。
「そっちの子は、何か用」なんてないんでしょさっさと帰りなさいよ、といわんばかりの雰囲気を醸し出している。ふと胸元を見ると「図書委員 西尾維新」と書かれたネームプレート……
「西尾維新!」
私は大声で叫んでしまった。図書館のホールに反響した声が、カウンターにいる私たち三人に帰ってくる。
「……」
こめかみに青筋をうかべる西尾先輩と、
「おい七海。図書館では静かにしないとだめだ」
さっき私が述べた正論を真顔で返却してくる乱歩ちゃんの顔を見比べ、でも、と私はなんとか声に出した。
「そ、その名前、本名なんですよね?」
「……だったらなに」
青筋をひとつ増やし、殺意のこもった目で私を見つめる――睨みつける。
「あ、えと、はじめまして。私は一年生の七海七竃です」
「七海……七竃? 何その西尾維新がつけそうな名前」
「あ、はい。ソウデスネ」
おっしゃる通りすぎて返す言葉もない。しかし、西尾維新という名前のひとに「西尾維新のつけそうな名前」と突っ込まれるとは……ゲームだったら隠し実績クラスのレア経験だ。
「あたしは江戸川乱歩! 七海とは同じクラスだ!」
「聞いてないわよバカ。うるさいわよバカ」
「バッ……! な、ひでーだろ七海! こいつさっきもこんな感じでムグムググムグ」
「あの、西尾先輩」
私は乱歩ちゃんの口を手のひらでふさぐ。先輩は「早くどっか行って欲しい」といいたげに本に手を伸ばし、
「こういったら失礼ですが、その名前、嫌いなんじゃありませんか」
その手がぴたりと止まった。
「私がそうです。両親が重度の西尾維新ファンで、尖った名前を考えた末に私にこの名前をつけました。七がふたつも入ってるし、およそ名前に使えそうにない名前だし、字面がなにより『面白いから』と」
両親の渾身のウケ狙いのせいで、私は困難を抱えてきた。名前の画数が多くてテストでは解き始めが遅れるし、手は疲れるし、初対面のひとに名乗ると聞き取ってもらえなくて二度手間だし、その反応を毎回やられるのも疲れるし、生育環境が危ういんじゃないかと思われがちだし……ここでは列挙できないくらい散々な目にあってきた。
「……私は、そうね……」
西尾先輩は口ごもりながらいう。
「西尾維新は好きよ。書く本はどれも面白いし、信頼する作家のひとり。あなたと同じで、親が好きだったの……そうね、好きか嫌いかでいったら……わからないわ」
「でも、維新なんて名前、女っぽくねーよな」
「乱歩なんて名前も相当なものよ」
それだけははっきりといった。
「他人様の名前にケチつけていいと思ってんのかてめえ!!!」
「乱歩ちゃん落ち着いて……先にケチつけたのは乱歩ちゃんだよ……」
「とにかく、西尾維新! お前をシメる!」
「……………………はぁ」
マリアナ海溝よりも深いため息をついて、西尾先輩はカバンに文庫本をしまった。腕時計を瞥見し、帰る時間を確認しているようだ。このまま話がうやむやなまま帰られたら、また乱歩ちゃんに廊下を長々と引きずられることになりそうだ。
私は唾を飲み込んでたずねた。
「あの、乱歩ちゃんと西尾先輩のあいだになにがあったんですか?」
「説明すんのめんどくせーな。おい西尾維新、あんたが話せよ」
「乱歩ちゃん、ジャイアンっていわれたことない?」
乱歩ちゃんは頭の後ろで手を組んで西尾先輩をあごでしゃくり、西尾先輩は顔色を変えずに返した。
「そこの江戸川乱歩さんが、入学式をサボって図書館に来てたのよ。ここの図書館は学校からは半ば独立して運営してるの。入学式の日でも空けてるし、いちおうまだ春休み期間中だから、こうして図書委員である私が受付担当をしてたの。司書さんはお休みだけどね。それで、入学式の真っ最中にどう見ても一年生の子がいたら、放ってはおけないでしょ。先生に連絡してつまみだしてもらったの」
静かな口調でよどみなく語る。きれいな声だな、といまさら感じた。小川が底の小石を浚うようなしたたかさもある。静かな雰囲気だが、なにも考えていないわけでは決してない。ただことばを選んでいるだけだ。深い水底から、水面全体を見渡している。
「あんたが告げ口すっから、あたし叱られたんだけど?」
乱歩ちゃんは理不尽の塊みたいなことをいう。
「あたりまえでしょ。入学初日から入学式をサボってるんだから」
「サボってねえ! これだけはマジだ!」
「乱歩ちゃん、無理があると思うよ……?」
「そうか? じゃあやめとくわ」
「……そうだね。偉いよ」
「偉いか? きひひ、褒められるのは嬉しいな!」
小学生以来、私はこんな満面の笑みできてないなぁ……と羨ましくなってしまうくらいの笑顔だった。単純なんだな、この子は。
「ただのバカじゃないの」
西尾先輩の評価は厳しかった。
「またバカっていったぞこいつ!」
「何度でもいうわよ。けど今日のぶんはこれで終わり。さあ、もう閉館にするわよ。出てって」
「あ、あの。ひとつ、わからないことがあるんです」
私は手を挙げた。乱歩ちゃんと西尾先輩の目線が集まる。
「もしかしてだけど、乱歩ちゃんは何か気になることがあってここに来たんじゃないかな?」
「!」
乱歩ちゃんはわかりやすく瞠目する。
「さっき教室からここまで歩いてきたけど、サボるためには遠すぎるし、そもそもサボりたいのであればひと気のない場所を選ぶよね」
「……」
西尾先輩は、話してみなさいというように手を組み合わせて顎を載せる。
「わざわざ図書館に来たということは、調べたいことがあった。そうでしょ、乱歩ちゃん?」
「お、おお……」
乱歩ちゃんは戸惑いながら頷いた。
「そうだよ、それなのにこの女がすぐにセンコーにチクるから、調べられなかったんだ」
「あたりまえでしょ。そこのひとは入学式をサボって……」
「だからサボってたわけじゃ――」
「入学式をサボってでも今日のうちに出来るだけ早く、調べなくちゃいけないことがあった。違うかな?」
「……!」
今度は西尾先輩の目が見開かれる。
「先輩、お願いします。あと少しだけでいいので、図書館を閉めるのは待ってもらえませんか」
「……断るといったら?」
先輩は首を傾げる。
「断らないでください。お願いします」
無理筋でも、通さなくちゃいけない筋がある。自分や他者の感情を殺してニヒルに生きることがまかりとおる、そんなのが現代社会のあり方ならば、そんな筋書きは正さなければいけない。
私は深々と頭を下げた。
「お、お願いします……」
意外と雰囲気に飲まれやすいのか、乱歩ちゃんもぎこちないお辞儀をした。
「……わかったわ」
西尾先輩は長い息をやや荒めに吐き出し、
「ただし、ひとつ条件がある。私の出す問題に答えてもらうっていうのはどうかしら」
無表情のまま、そんなことをいった。
「私にはこの図書館を管理する責任がある。時間通りに開館し、時間通りに閉館するという責任よ。それなのにはいどうぞ、とあなたたちに私の時間を差し出すのは……」
「フェアじゃねーな。いいぜ乗った。な、いいよな七海?」
「あ、うん。乱歩ちゃんがいいなら」
いつのまにか相棒みたいになっている私たちは、顔を見合わせてうなずく。
「そうね……図書館らしく、本にまつわるものにしようかしら。では問題よ」
ででん! と乱歩ちゃんが小声でいうので脇をこづいた。
「私がいま読んでいるこの本」
カバンにしまいかけていた文庫本を、ひらりと顔の前に揺らす。
「芥川龍之介『地獄変』集英社文庫。この本の総ページ数は……262ページね」
ぱらりと本を開き確かめる。そして、ぱたんと閉じる。
「ちょうど半分、131ページと132ページのあいだに、いま私は栞替わりのあるものを挟んだ。さて、何を挟んだかしら。三つの質問で当てられたら、校門の閉まる十七時まで自由に館内資料を閲覧していいわ」
ただし、と付け加える。
「当てられなかった場合は、二度とここに来ないで頂戴」
「それは、今後一生、図書館を使えないということですか?」
先輩は無言でうなずく。それは高校生にとっては明らかなデメリットだ。自習室代わりに使えないだけではなく、調べものがあってもいちいち市内の図書館を使わなくてはいけない。インターネット全盛の世の中といえど、学校に提出するレポートは一次資料にあたらなければ「可」どころか「不可」で突き返されてしまうだろう。それなのに、学内の資料にアクセスできないのはとんでもなく非効率だ。
「な……そんなこと後出しでいうなんてズルだろ!」
「私は責任を放り投げて規則を破るのよ。先生にバレれば内申に響くの。あなたたちにもそれくらいのリスクは負ってもらうべきだわ。やるの? やらないの?」
「ど、どーする七海……」
「……」
私は思案する。深く息を吸い、酸素を脳の皺ひとうひとつに行き渡らせる。
「やろう、乱歩ちゃん」
「七海、マジか?」
「マジ」
声が震えているのは、ふだんあんまり使わないことばをつかったせいでも、ビビってるわけでもない。私は西尾先輩を正面から見据えた。
「やります、西尾先輩」
「そう。じゃあ、質問のひとつめを……」
「質問? 舐めないでください。ひとつも必要ありませんよ」
こんなのゲームにすらなってない、ただの知力の差を用いた暴力だ……ひとを馬鹿にして、支配するための力の行使に過ぎない。腕力をもった人間が、弱い人間をねじふせるのと何も変わらない。
ズルくて、小賢しくて、ひとの気持ちを踏みにじっても、信頼をコケにしても、なんとも思わない。自分がいちばん頭がいいと思っていて、他人を蹴落とすことになんの躊躇も感慨もない。
頭が良ければ。
ひとを踏み台にしても許される。
むしろお釣りが帰ってくるほどの正しい行為だとふんぞり返っている。
私はそういう卑怯な奴が、いちばん嫌いなんだ。
いかりをおぼえる。
「西尾先輩」
「はい」
「答えは――『存在しない』です」
「……正解」
西尾維新の目の色が変わった。その動じない姿勢に、私は畳みかける。
「131ページと132ページのあいだには何も挟まっていません。なぜならそのふたつのページは背中合わせになっている一枚の紙だからです。本の奇数頁が左に、偶数頁が右に来るのは揺るぎようのない事実ですよ、西尾先輩……あなたがいじわるなのと同じように」
カウンターに両手をつき、顔を近づける。
「このゲームはフェアではありません。クイズに見せかけたひっかけ問題です。何回質問したところで、挟む隙間のないところには栞もなにも挟めません。どうあがいても不正解になる、いじわるな問題です。違いますか?」
西尾先輩は「それで?」と眉ひとつ動かさずにいう。
「ゲームはゲームじゃないの。しかもこれはクイズという知的ゲーム。無知が敗北の言い訳になるとでも? 実際あなたがいま私に勝利を突きつけているのも、本についての知識があったから。そうでしょう? 知らなきゃ解けない、それがクイズよ」
「いまのひとことで十分ですよ、西尾先輩」
私は彼女の鳶色の瞳を見つめる。睨んでいた、かもしれない。
「あなたは最初から、フェアな出題者じゃなかった。このゲームは最初からご破算です。勝利条件はあなたに多く、敗北条件はこちらに傾いていた」
「だったらなに?」
「謝ってください。問題自体の信を問えるほどの知識の有無が前提になるゲームなんて、ゲームじゃない」
「どうしてそんなに怒ることがあるの? おかしいわ。あなたは勝ったのに」
どうして? そんなの決まってる。当たり前すぎるほどに当たり前だ。いちいちいわなきゃわからないのか?
「目の前に悪がいるから、シメたくなっているんです――そこにいる子のことばを借りるなら」
私はいう。
「ひとよりも知識があるから――頭がいいからというそれだけで、誰かを蹴落としていいと思ってる奴を――斜に構えてひとを見下す奴を、私は死ぬほど憎みます」
「……」
それはかつて私がそうだったからなのかもしれない。
シニカルに構えて、ニヒルに笑う。そうしていれば世の中はとても渡りやすく、こともなく過ぎていく――その足で数々のひとの気持ちを踏みにじっていることに気づかずに。早く帰りたいから、規則があるから。それはいい。けど、そのことを貫き通すためにわざわざアンフェアなゲームに相手を誘うのは、より大きな、そしてふざけた、くそったれな理由があるからだ。知力で相手を見下して、自分が優位に立っていると、悦に入るための。
それはよくわかる。だって、中学時代の私がそうだったから。
――同族嫌悪? どうぞ、苦言を。
「もしも私がここにいなかったら、乱歩ちゃんはどうなってましたか。あなたの小賢しい引っ掛け問題に負けて、悔しい思いを引きずってしまうことになってましたよ」
「……」
私は決然とこぶしを握り締めた。血圧が上がっているのかもしれない、思考よりも先に口が動いていた。
「そんなの……そんなのひどいじゃないですか、いくら乱歩ちゃんがヤンキーでおバカで頭に血が昇りやすいし冷めやすい瞬間湯沸かし器みたいな子だからって……! 知能の差では先輩の圧勝だからって! そんなの……!」
「あのさ、七海?」
制服の裾をくいくいと引っ張られる。振り向くと、申し訳なさそうな顔で乱歩ちゃんがいった。大丈夫だよ乱歩ちゃん、あなたの恨みは私が果たすから――そういおうとしたところで、彼女はいった。
「私、さっきの問題の答えわかってたよ」
「「……え?」」
私と西尾先輩の声が重なる。
「私もほら、人並みに本とかは読むからさ……本の仕組みくらいはすぐに、思いつくっていうか……頁の並びとか。なんかお前が先走っちゃってたから、いいづらかったけど……うん。問題出されたときに、だまそうとしてるってすぐわかったよ」
「……」
「あと、あたしも一応七海とおんなじ試験受けて合格してこのガッコ―入ってっからさ。そこんとこよろしくな?」
乱歩ちゃんは苦笑いで肩をぽんぽんと叩く。……なんだろう。青春漫画あるある「なぜか学力の低いヤンキーと学力の高い優等生が同じ高校にいる」ことの不自然さに答えを出された気がする。ちなみにこの高校の偏差値は平均よりもやや高い。
「だから、そんなに西尾先輩責めんな? それよりほら、ゲームには勝ったんだし、図書館のなか見ようぜ? ちょっと落ち着いてさ、ケンカはまた今度にしようぜ?」
「……」
……。
羞恥心と自己嫌悪でいますぐ本に押しつぶされて床のシミになりたくなった。ふとみると、西尾先輩もかなり気まずそうに目線を逸らしている。鞄の把手を握りしめ、いますぐ帰りたそうにしている。
「えっと、西尾先輩。そういうことで、図書館のなか、自由にみせてもらいますね?」
無言でこくりとうなずく。
……ここで責任の追及をするのはみっともないし、状況がすでに不毛なのでやめておこう。
私は乱歩ちゃんに、割とガチめに陳謝したが、彼女は「いーっていーって」と手をぱたぱた振るだけだった。リファレンスカウンターの左右にある螺旋階段を上り、上階の書架のある階へ足を踏み入れる。木製の棚がずらりと並ぶ光景は壮観だった。頭上の高いところに天窓があり、うっすらと日差しが漏れ入ってくる。
「このへんかな……あ、あった」
乱歩ちゃんは「日本文学」の棚で「江戸川乱歩全集」の一冊を引き抜いた。
「今朝、施設に入ってたばあちゃんが死んだらしくてさ。入学式の直前に、親から連絡がきた」
私はふいに背を固くした。
「ばあちゃん、めちゃくちゃ江戸川乱歩のファンだったみたいでさ。なんとびっくり、百歳だぜ? 戦後の東京って焼け野原で、マジで物がなんもなかったらしくてさ。ばあちゃん、親が買ってくれた江戸川乱歩全集をずーっと読んでたんだって。それで、娘っていうかあたしの母親が『江戸川』っつー苗字になったときから、ぜったいに孫に乱歩って名前を付けたがってたんだってさ。そんで、あたしのことすっごくかわいがってくれた。あたしはあたしの名前をぜんぜん変だと思わねえ。男らしいとか、女らしいとかじゃねえ。ばあちゃんらしい、いい名前だ」
「……ここにいていいの?」
「ここにいなきゃいけないんだって」
全集の一ページを開く。そこには「人間椅子」の題があった。
「ばあちゃんはこれを読んで、人間の想像力ってもんはすごいって知ったんだってさ。この話は怖くて、どろどろしてっけど、読む側からしたら現実を忘れるくらいぶっ飛んでて面白い。そういうものがあるなら、何もない世の中も違ってみえる――そんなこといってた。でもあたし、自分の名前の作家を読むのってすげー気まずくてさ。鏡と話してるみたいじゃん? ずっと避けてきたんだけど……今しかないなって。なあ七海、これってばあちゃんの死から逃げてるだけなのかな?」
「……わかんない」
「そか」
きししっと犬歯をみせて笑う。
「でもさ、きっとあたし、これから江戸川乱歩をたくさん読むと思う。そのたびに、ばあちゃんがくれた名前を通して、ばあちゃんを思い出すと思う。それっていいことだよな?」
私は無言で頷きを返す。
ニヒルでもなんでもない。本当に心の底からの同意を示したかった。
「それは逃げじゃないわ」
振り返ると、回廊になっている図書館の曲がり角から、ひょっこりと顔をのぞかせる西尾維新先輩の姿があった。
「西尾先輩……」
「さっきはごめんなさい。それと、立ち聞きしたことも謝るわ。あなたの都合も聞かずに、規則規則と……高慢なクイズまで出して」
「謝れるなら、いいやつじゃん」
乱歩ちゃんは本を書架に戻すと、鞄を肩にかけてぺこりと頭を下げた。
「こっちこそ、すみませんでした。先輩に舐めた口をたくさんききました」
「え……あ、ううん、いいのよ」
素直に謝る姿にたじろぐ西尾先輩だった。
「それに、たしかにサボってはなかったのよね。それも嘘だと決めつけていたわ。ごめんなさい」
「……あ、そうか」
私はひとり膝を打つ。
入学初日とはいえ、乱歩ちゃんはもう入学しているし、この学校の生徒だ。
ならば当然、今日の彼女は「忌引き」扱いだ。学校には来てしまったが、学校行事への参加は免除される。入学式のあいだ図書室にいても、校則上は咎められない。
「あたしこそ、あのときちゃんといえなくて悪いことしたな。自分で忌引きっていうのは恥ずくてさ……あ、でも先生にはちゃんといったぜ。でもさ、自己紹介だけして帰るかーって教室来たら、七海が『私の敵は西尾維新です』っていうから……」
「なるほど」
ゆっくりと噛みしめるようにいい、西尾先輩はふっと笑った。
「変なの。だれかの名前が少しでもまともだったら、こんなこと起こらなかったのね」
それはたしかにそうだ。乱歩ちゃんのおばあさんが江戸川乱歩が好きじゃなかったら。私がもう少しまともな名前で、アンチ西尾維新にならなければ。西尾維新先輩の名前が別の名前だったら。
ひとりでも名前が違ければ、この出会いはなかったのだ。
「おもしれーな。なあ、あたしたち仲良くなれそうじゃないか?」
「それはないわね」
即答する西尾先輩と、
「きしし」
屈託なく笑う乱歩ちゃんは、少なくともいい組み合わせに見えた。
「ねえ乱歩ちゃん、その本どうするの?」
「うん? ああ、ちょっと見たかっただけだから……ごめん先輩。あたしら帰るよ」
「ええ」
また来てね。口元にわずかに微笑みを浮かべる先輩に見送られて、私たちは図書館から出た。
「腹減ったな。なあ七海、昼飯食って帰ろうぜ?」
「……たぶん乱歩ちゃんは、おうちにかえってご葬儀の準備をしたほうがいいよ?」
「あ、そうか。そういや、さっきからめちゃくちゃ電話かかってきてたな」
乱歩ちゃんは後ろ頭をがりがりと掻いた。
「ひとが死ぬって、いそがしいんだな」
乱歩ちゃんは駅前で家族の車に拾われて去っていった。嵐のような子だった。
そして、いま。
私は電車に揺られ、今日のことを思い出している。
「……なに推理ごっこしてんだよ、人間失格のくせに」
窓ガラスに鼻を押し付ける。冷たい感触の向こうで、見慣れない街並みが通り過ぎて行った。
ひとに勝って、悦に入ってたのはどっちだよ、と。
入学式初日にはふさわしくない自己嫌悪を窓の外に流しながら。
それでも――悪くない一日だったと、噛みしめながら。
つづく
戯言遣いにあこがれて edwinmullhouse @mozuganaku
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