あなたという幸福の独白
速水静香
第1話
昼休み。それは静かな時間。
午前中の授業をなんとかやり過ごした俺は、屋上にいた。
俺のいる学校の屋上とは、殺風景な場所だった。
周囲を高さ二メートルほどの落下防止用フェンスに囲まれた、鉄筋コンクリート造の床が広がっているのだ。
そんな典型的な学校の屋上には、二つの小屋のような物が突き出るようにあった。まず、中央に無骨なコンクリート造りの給水室。もう一つは北側に突き出た階段の上部だ。どちらの壁面も、長年の雨風による経年劣化が見て取れた。
北側にある階段の正面には、青灰色のアルミのドアがあった。そのドア上部には縦長のガラス窓が見える。
もちろん、この俺がいる、学校の屋上とは、本来、立ち入り禁止の場所だ。
勝手に立ち入っていることが見つかれば、生活指導を受けるレベルだ。
しかし、俺はそこにいた。
もちろん、周囲から見つからないよう、細心の注意を払ってここに来ていた。
まあ、まず学校での俺は存在感が薄い。だから、休み時間に居なくても、誰も気にしない。とはいえ、堂々と屋上にいれば周囲から姿が見えてしまう。
――中央に位置する給水室の壁。それの南側の面に寄り掛かれば、校庭や廊下からの視線はまったく届かないことを俺は知っていた。
それを最大限に活用して、俺は屋上ライフを送っていた。
今日のお昼御飯は、菓子パンとペットボトルのお茶だった。
まあ、お茶は食事には入らないとして。
そのチョココーティングがされた甘いパン。それは現代人のみが味わえる、超加工食品だ。
俺はその文明の利器を食して、必要最低限の腹を満たしていた。
コスパ、タイパの極致。
それが、この菓子パンだった。
カロリー当たりの金額、そして食べる時間。
もっとも、安く。そして、もっとも、食事時間が短い。これは、もちろん当俺比だ。
そんな効率のよい、お昼をこの屋上で一人で食べ終わった俺は、とにかく暇だった。
今の俺には、特にやることもなく、給水室の壁に寄り掛かり、スマホの画面を指でスライドするだけの時間を過ごしているのだ。
秋らしい風が心地よく吹き抜け、コンクリートの感触が背中を伝わってきた。
この時期は、日差しが暑くもなくて、どちらかといえば暖かい。だから、コンクリートにじんわりと熱を感じるのだ。
心地よい。
遠くから聞こえる校庭の喧騒も、ここではただの遠い雑音だった。ボールを蹴る音や笑い声が、風に乗ってかすかに届いてくる。それらの音は、まるで別世界の出来事のように感じられた。
俺はスマホの画面に集中する。
もはや、この手の中にあるスマホは、手に馴染んだ相棒のようなものだ。
もちろん、俺のスマホには、家族以外の連絡先など存在しない。かといって、別にネット上の誰かをフォローしているわけでもない。
ただ、俺はその状態が寂しいとは、まったく思わない。
むしろ、そのほうが気楽だった。そう、とにかく人付き合いは疲れるものなのだ。
目の前のスマホの画面には、適当なニュースやくだらない記事が次々と表示される。『猫が液体である証明』とか、『もし宇宙人が隣人だったら』なんて、どうでもいい内容ばかりだ。それらをぼんやり眺めているだけで、時間は勝手に過ぎていく。
画面をスクロールし続けていると、突然、通知が現れる。
『バッテリー容量が少なくなっています』
残量10%――。
俺はため息をつき、スマホをポケットにしまう。暇つぶしの道具を失った俺は、耳を澄ました。
校庭からの音――サッカーボールを追いかける足音や、友達同士の笑い声。それらが風に乗って微かに聞こえる気がする。
これらの音は、俺にとっては心地よいBGMのようなものだ。自分とは無縁の遠い世界の音。それが俺の好きな距離感だった。
ああ、暇だ。
そんなことを思っていると、遠くから、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた気がした。
でも、それはあり得ないことだった。
なぜなら、この屋上へは生徒の中で、俺しか来られないはずだからだ。
もちろん、ここは立ち入り禁止区域。
学校が、きちんと管理している場所だ。北側の階段にあるアルミ製のドアの窓には、『立入禁止』の張り紙がある。その張り紙が色あせていて、味があるのだが、それはそれとして。
もちろん、そのドアには、当然のようにカギがかかっている。
普通に考えれば、俺が屋上にいること自体がおかしい。
でも、ドアには秘密があった。
それは、単純なことだった。
ドアのカギが壊れているのだ。
というのも、それを俺が気付いたのは、比較的、最近だった。
ある日、北側の階段の踊り場で、暇を持て余していた俺は、何の気なしに屋上へのドアを乱暴に扱っていた。
すると、カチャリと軽い音を立てて開いたのだ。それ以来、俺はこの天国に入り浸っていた。
さらにそこで、開ける技法を洗練させた俺は、ある結論へ行きあたった。
ドアを開けるためのちょっとしたコツ――ドアノブを少し上に押し上げながら回す。
今のところ、それを知っているのは、たぶん俺だけのはずだった。
もちろん、この壊れたカギについては誰にも言わず、言うつもりもない。
そして、今日も俺はカギがかかっていると思われている、この聖域へ、そのコツを使って入った。
スマホの画面を眺めながら、適当に時間を潰し、そして風と遠くから聞こえる校庭の音に包まれながら過ごす。
それが俺の特別なひとときだった。
それだけで十分――そう思っていた。
「こんなところで何してるんですか?」
突然響いた声に、俺の思考は中断された。
反射的に顔を上げると、そこには一人の女子生徒が立っていた。見覚えのない顔だった。
わが校が誇る、紺色のセーラー服を着た、小柄な女子生徒。
1年生か?
まあ、背格好だけで判断するのは良くないかもしれない。
ただ、彼女の肩にかかるくらいのショートボブの黒髪が、吹き抜ける風にそっと揺れているのが目についた。
そんな彼女のシャープな顔は小さく見えて、そこにある切れ長の瞳がこちらをじっと見つめているのだった。
鼻筋は通っており、薄い色の唇が小さく見える。
結構、整った顔だな、って思った。
俺は咄嗟に言葉が出てこなかった。
なぜなら、ここは、『誰も来ないはずの場所』だったからだ。この場所にたどり着けるはずの人間は、俺以外にいない。カギが壊れているのを知っているのは、俺だけ――そのはずだった。
「……お前、どうやってここに来た?」
ようやく口をついた言葉は、自分でも驚くほど無防備で素っ気ないものだった。けれど、彼女は気にする様子もなく、無邪気な笑顔を浮かべながら答えた。
「ドアが開いてましたよ。ちょっと力を入れたら、すぐに開きました。」
さらりとした口調。俺は内心で舌打ちした。どうやら、彼女もドアの秘密を知ってしまったらしい。
「ここ、立ち入り禁止だぞ。」
俺は半ば威圧するような口調でそう告げた。しかし、彼女はまったく動じることなく、こちらに歩み寄る。
「そうなんですか? でも、先輩もここにいるじゃないですか。」
その瞬間、俺は言い返す気力を失った。確かに、俺もここにいる時点で立ち入り禁止を破っている。それを彼女に指摘された以上、何を言っても説得力はない。
「私、ナズナって言います。一年です。」
彼女の名前はナズナらしい。ナズナねぇ。いい名前なのか?
とにかくそうやって、彼女は簡単な自己紹介をした後、ナズナは、俺の隣へ腰を下ろした。
スカートの端を抑える仕草はどこか控えめだが、すごい自然な流れで距離を詰めてきた。
「先輩で間違いないですよね?少なくとも一年生でないと思いますので。」
俺の隣に座った彼女は、俺へ話しかけてくる。どうやら彼女は、この俺とは違って、同じ学年の生徒を把握しているようだ。
俺は少し間を置いてから答えた。
「……桜葉キキョウだ。」
「桜葉先輩、いい名前ですね!」
ナズナはにっこりと笑った。その笑顔は驚くほど自然で、作り物のような嘘くささが一切なかった。
多分、心の底からそう思っているんだろう、きっと。
「ここ、落ち着きますね。」
彼女は視線を遠くに向け、青空を見上げながらそう呟いた。
「……まあな。」
俺は短く答える。
それから先に、なんていえばいいのか、分からない。
しばらくの間、俺とナズナの間には言葉がなかった。
ただただ、吹き抜ける風の音と、校庭から微かに聞こえる笑い声だけがこの静かな時間を支配する。
「先輩、一人でいるのが好きなんですね?」
ナズナが突然そう言った。その言葉は鋭くもあり、穏やかでもあった。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、先輩がこんな場所に一人でいるんですよ?それが答えです。」
隣に座っているナズナは、そんなことを言いながら、少しだけ目を細めて微笑んだ。
……確かに。
俺は黙り込んだ。
まあ、事実を指摘されて、否定する必要もあるまい。しかし、肯定する必要もない。
そんなことをしていると、突然、チャイムが校内に響き渡った。昼休みが終わるまで、あと五分。
その音は、静けさを包む風に乗って、屋上のこの空間にも届いてきた。
ナズナはその音に気づくと、ゆっくりと立ち上がった。スカートの端を軽く払う動作は、無駄がなく洗練されているような気がした。
まあ、女子生徒らしいともいえる、その動作。
「では、先輩?私はそろそろ行きますね?」
彼女は、それだけ言って、歩き出していた。
俺は何も言えずにその姿を見送るしかなかった。彼女は軽い足取りで屋上のドアへと向かっていた。
「じゃあ、また明日来ますね!」
ドアに手をかけた彼女は、あっさりと言い放つ。その声には、どこか不思議な軽やかさがあった。まるで、ここに来ることも、そして去ることも、当たり前のことのように思っているかのようだった。
そのまま、ナズナは屋上を去っていった。そして、彼女がドアを閉めた音が俺の耳に届いたときから、再び屋上に静けさが戻った。
俺はしばらく、背もたれ代わりの壁に寄りかかったままだった。
どちらかといえば、じっと、彼女の去った方向を見つめていた。
俺は空を見上げた。
青空が見えた。その空は相変わらず高く、雲はゆっくりと流れていた。
時折、吹き抜ける風が俺の周囲を吹き抜けて、再び一人の時間が戻ってきたことを知らせているかのよう。
けれど、その時間はさっきまでとは少し違って感じられた。
屋上で風に吹かれながら、俺は遠くで響くチャイムの音に耳を傾けていた。
◇
俺は、いつものように、ちょっと遅れて授業に参加した。
その日の午後の授業は、相変わらず退屈なものだった。教師が黒板に書き連ねる数字や公式、教科書のページを指定する声が、まるで遠くから聞こえる不協和音のように感じられた。教室の中には、ノートを取る音やシャープペンシルのカリカリという響きが加わっていく。だが、それさえも俺の耳からは、都合よくすり抜けていく。
俺の席は教室の隅、窓際の一番後ろだ。ここからは外の景色がよく見える。見飽きた校庭と、その向こうに広がる住宅街。秋という季節を現すかのような青空の下、風に揺れる木々をぼんやりと眺めながら、俺はさっきの昼休みの出来事を思い返していた。
ナズナ――突然現れた一年生の女子。あの妙に堂々とした態度と、無邪気な笑顔。それに、こちらの質問に対してさらりとかわすようなあの返答。彼女はどこか普通の生徒とは違う雰囲気を持っていた。俺が勝手にそう感じただけなのかもしれないが。
「また明日来ますね。」
最後に彼女が言い残したその言葉が、頭の中で何度も繰り返される。あの場所は、俺だけの秘密の場所だったはずだ。それを彼女に見つけられてしまった。
ああ、どうすればいいのだろうか?
でも、なんとなくだが、俺には確信があった。多分、彼女はあの場所を周囲に言いふらしたりしない。なんとなく、そんな感じがした。
俺は、窓の外に目を戻した。青空はどこまでも澄み渡っていて、雲はゆっくりと流れていた。これ以上考えても仕方がない。
そう、明日になって彼女がどういった行動をとるのか?
屋上について、彼女についてを考えるのは、その後でないと意味がない。
俺は、自分の出した、その結論を自分に言い聞かせるようにしながら、授業終了のチャイムが鳴るのをただ待っていた。
◇
放課後、教室を出た俺はそのまま人気の少ない廊下をゆっくりと歩きだしていた。すでに校庭では部活動の生徒たちが元気よく声を上げているのが聞こえる。サッカー部の掛け声や、テニス部のボールを打つ音。体育館からは、バレー部だか、バスケ部だかの響き。だが、それらも俺にとっては背景の一部に過ぎない。
俺はいつものように下駄箱に向かい、無言で靴を履き替えた。そして、特に寄り道することもなく、そのまま校門を抜けて帰路についた。道中、同じクラスの連中がコンビニに集まっているのが見えたが、声をかけることもなくその場を通り過ぎる。彼らの笑い声が背後に消えていった。
俺の家は学校から徒歩で15分ほどの距離にある。途中、川沿いの細い道を通るのがいつものルートだ。川沿いには雑草が茂り、季節によっては虫の声が聞こえることもあるが、今日は静かだった。
「……。」
何も考えずに歩きながら、ふと足を止める。その瞬間、なんとなく虚しさを覚えたが、すぐに歩き出す。特に意味のある感情ではない。いつものことだ。
家に着いた俺は、鞄を置いてベッドに横になった。スマホを取り出し、いつものようにネットのタイムラインを開く。特に興味を引くものはない。流れてくるのは、猫の動画やどこかの飲食店の新メニューの話題、そして知らない誰かの他愛もない投稿ばかりだ。
「……つまんねえ。」
呟いてスマホをベッドの横に投げ出す。そして、天井を見上げながら目を閉じた。
明日も同じ一日が繰り返されるだろう。
何も変わらない、平凡な日常。それが俺の日常であり、俺の世界なのだ。
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