高校三年生のときに書いた小説を書き直してみた

よい小雨

雨の降る日には

 自分にとって、どれだけかけがえのない存在であっても、その人が自分を同等に想っているとは限らない。それは一見味気ないようであっても、私にとっては救いだった――そんな話を、雨が降るたびに今でもよく思い出す。


 その人――その男の子「久野くん」は、とても不思議な子で、たとえるのならば空気や水など、実体の掴めないようなものがよく似合う。私が彼と出会ったのは、転勤族だった親の影響で転校を繰り返していた、小学四年生の梅雨の時期だった。


 当時の私は、その年齢にして既に他人と関わることが少し怖かった。度重なる転校で、私は他人との間に薄くて透明な、だけど決して脆弱とも言えない「壁」を形成していた。 転校生がお約束のように味わうことになる儀式――黒板の前での自己紹介のときに向けられるあの独特の視線……。期待や好奇心の入り混じった、どこか排他的なあの視線が、私はたまらなく嫌だった。

 自己紹介を終えてからも、一時的に「時の人」となる私に集まってくるクラスメイトたち。こいつがどれだけこのクラスに存在する価値があるのかを推し量るように、たくさんの質問を浴びせかけてくる。


「ねえ、どこから来たの?」「なんで転校してきたの?」「好きなアイドルはいる?」


 そして、それが期待に沿うものではないとわかると、失望を込めた瞳で私を見つめる。

その瞳には、もう私は映っていない。


 体調が悪くなって、学校に行けない日も増えていった。

 学校に行こうとすると、おなかが痛くなったり、頭が痛くなったりするのだ。昼間の柔らかい日差しで温まった自室のベッドで、私は本を読んで過ごした。

 そうして、たまに白い天井を見つめるような、心地よいからっぽの瞬間――いつも思い出すのが久野くんだった。


 久野くんは、教室の窓際の一番後ろの席に座る男の子だ。


 特別目立つというわけではないが、整った綺麗な顔をしていた。少しだけ、栗色が混ざった黒髪に、病的とも形容できるほど白い肌、黒目がちな瞳、華奢な体躯。

 こう表現すると、なんだか女の子みたいだけれど、彼はなよなよとした印象を与えないくらい、独特な雰囲気を持っていた。

 思えば、私は自己紹介のときから、久野くんを視界の隅に捉えていたような気がする。久野くんは、窓の外を見ていた。どこか、もっと遠くを見つめているような、綺麗なその横顔に視線が釘付けになった。


 *


 久野くんは、不思議な男の子だった。

 私は、彼が他の生徒と話したり、遊んだりしているのを見たことがない。また、同様に誰かが彼に話しかけているのも見たことがなかった。授業中も、先生は彼を当てない。

 久野くんは、いつも空気みたいにそこに「存在」していた。そして、窓の外の景色を見ていたり、本を読んだりしている。まるで誰も感知していないかのように、誰にも感知させないかのように。

 とはいえ、私も学校を休みがちだったから、そういう現場をたまたま見たことがなかっただけなのかもしれないし、当時はさほど気にしていなかった。学校に来ていたときには、彼のことを意識していたので、私が見ていた限りではそういうことがないと……それだけのことだったと思っていた。


 ただ、忘れられないエピソードもある。


 それは、梅雨の時期、今にも雨が降り出しそうな曇天が重くのしかかっていた月曜日のことだった。

 その日は、もともと体育がグラウンドの予定で、誰もが体育は中止になると思っていた。しかし、予想に反して、体育は鉛色の空の下で決行されたのである。

 ブーイングが飛び交うなか、温く湿った空気を縫うように、ランニングが始まった。列を作りながら、グラウンドをぐるぐる走って行く。


 私は珍しく体育に参加したのだが、案の定皆のペースについていけなくなり、最後尾を息を切らしながら走っていた。皆の列との距離は、どんどん開いていく――ふと、後ろを見る。すると、久野くんが目に入った。自分が最後尾だと思っていたばかりに、後ろにまだ人がいたことに驚いた。

 いつも彼を気にしているつもりでも、ふとした瞬間に見逃してしまう――それは「消えてしまう」と表現したほうが正しいだろうか。もちろん、本当に消えてしまうわけではなく、久野くんの「存在感」が音もなく、いつのまにかフェードアウトしていくような、そんな奇妙な感覚だった。そういうときは、私も彼を見失ってしまう。他の子たちと同じように。


 久野くんは、そこまで息を切らすでもなく、淡々と走っているように見えた。まっすぐ、前を見つめて。けれど、私と目が合うということもなく、私には彼が実際どこを見ているのかがよくわからなかった。

 私が再び前を向いたとき、額に冷たいしずくがぽたりと落ちた。すると、瞬く間に、グラウンドの白砂を、しずくたちが黒く染めていく。雨が降り始めたのだ。


「だから雨降るって言ったじゃん!」

 口々に騒ぐ生徒たちが、校舎内に移動していく。私もその流れに乗りながら、内心ではランニングが中断されたことがちょっと嬉しかった。靴を履き替えようと、下駄箱で屈みかけたそのときだった。

 グラウンドと校舎を隔てるガラス扉の向こうに、久野くんの姿があった。彼は、まだグラウンドにいたのだ。


「どうして……」いつものように、平然とした様子で空を見つめながら、雨に打たれる久野くん。「みんな、気づいてないの……?」


 生徒たちは、彼のことを気にもとめていないようだった。先生ですら、体育の続きをおこなうべく、既に校舎内に入った生徒たちを体育館に促している。まるで、久野くんのことは見えていないかのように。

 私はガラス扉に駆け寄った。本当は……今すぐ、この扉を開けて叫ぶことだってできた。『風邪引いちゃうよ!』『体育館に移動だよ!』。けれど、このときの私は、それができなかった。


 久野くんには、勇気が出なくて一度も話しかけたことがなかったし、何よりも――怖かったのだ。


 話しかけることで、久野くんを取り巻くあの空気感が壊れてしまうのではないか。久野くんは、孤独だからこそ久野くんなのではないか。このままで……いいのではないか。そんな思いが駆け巡った。

 私は、彼を壊したくなかった。これが、くだらないエゴだということはわかっていた。でも、私は――彼への想いを、イメージを、理想を。綺麗に洗ったガラス瓶の中に入れて、ビー玉と一緒に蓋をしてしまいたかった。

 私は、ガラス扉から離れた。

 そして、体育館へと向かう生徒たちの群れに、混ざったのだった。


   *


 外界と自分の世界を隔てる透明な壁をとおして見ても、久野くんは鮮明に見ることができた。私の世界に、私は一人ではなかった。周りの生徒たちにどうしても馴染めなかった私にとって、久野くんは唯一の逃げ道のように思えたのと同時に、大きな憧れでもあった。 

 雨のように――水のように、静かに、だけど力強く――空間に溶け込む久野くんのようになりたいと思った。そうすれば、もう何も怖くない。周りから浴びせられる好奇の目も、品定めするような視線も、失望の眼差しも。明白な悪意、排他的な繋がり、偽善的な愛想笑い、耳を浸食する囁き声。吐きそうなほどの悲しみも、泣きたくなるような絶望も。そのすべてに、打ち勝つ強さが欲しい。


 それを手に入れるための、ある種の手がかりが、久野くんだった。彼はきっと、すごく強いんだ。そんな静かな強さへの、私の一方的すぎる渇望が、私が彼に抱く感情の正体なのかもしれない。あるいは――私も久野くんのように、誰にも相手にされないまま、突然ふっと消えてしまいたいのだろうか。

 自分のことなのに、あまりにも漠然としている。私は彼をどうしたいのだろう。こればかりは、灰色の空も、白い天井も答えを出せない。


 自問自答を繰り返す日々を送っていたが――そんな日々に、意外と早く終止符が打たれようとする。また、次の学校への転校が決まったのだ。

 

 担任の先生のはからいで「さよなら会」なるものが開催されたのだが、私が死んでしまうみたいなイベント名よろしく、その様子はお通夜のようなしらけぶりだった。もちろん、私がクラスにまったく馴染めていなかったことが原因なのだけれど、こんなことならば開催されないほうがよかった。

 

 「さよなら会」からの帰り道、私は忘れ物に気がついて学校に引き返した。


 この日は、前の晩から降り続いた雨が午後には上がり、久しぶりに晴れ間が覗いた。茜色の夕日が、わずかに濡れたコンクリートの地面をきらきらと照らす。

 校舎を小走りで駆け抜け、教室へと向かう。 窓から差し込む優しげな光に、私は……梅雨のその先に、導かれていく――そのときに感じた、自分が見知らぬ国に足を踏み入れたような、不思議な高揚感を今でもよく覚えている。見慣れた校舎が、廊下が、すべてが――私の目に新鮮味をおびて映る。活力がみなぎっているみたいに、いきいきとして見える。

ああ……もう、夏がやってくるのか。

 

 教室の扉を開ける。そして、私は暫し見とれた。


 久野くんが、誰もいなくなった教室にひとり佇んでいた。茜色に染まる窓の向こうを、じっと見つめている。

 その横顔が、あまりにも綺麗で――私はどうしようもなく胸が苦しくなった――そうだ。彼は、いつだって。いつだって、こんなにも。 


 どこか遠くに行ってしまいそうな存在感。常にそばにいるようで、いないような空気感が。何に対しても無関心そうな目が。この先に一度も、私を映さないであろうその瞳が――思えば、久野くんは一度も私を見なかった。 

 皆のように、私を期待や好奇心、失望を込めた目で見るのではなく、最初から最後まで、彼の瞳には私が映らない。そのことが、私にとってはたまらなく嬉しくて、たまらなく切ないことのように思えた。


 私を見てほしい。今まで、こんなにも誰かの視線を求めたことなどなかった。この先、こんな気持ちになることは、もう二度とないかもしれない。少しだけでいい。その視界の隅に、私を映してほしい。雨上がりの夕空のような、空虚なその瞳に。


「……綺麗だね」


 私は言った。声を、振り絞るように。


 それが何に対しての賛辞だったのかは、自分でもわからなかった。でも、そのときの私には、それが精一杯だった。なぜか、涙が止まらなかった。

 そして、私は確かに聞いたのだ。


「……そうだね」


 久野くんの声を。静かで落ち着いた、彼らしい声。

 久野くんは、最後まで窓の向こうから視線を逸らさなかった。

 私は、最後まで彼の瞳に映ることができなかった。



 あれから、十年以上の時が経った。社会人としての日々を送りながらも、私はいまだにあの日の夕日を覚えている。

 

 ただ、ひとつだけ不確かなことがある。それは、久野くんのことだ。


 私は、年を経るにつれて、彼のことを忘れていっているような気がする。思い出せないのだ。彼が教室に入ってくる姿、授業を受けている姿。掃除をして、下校をする……当然存在するはずの、日常的な彼の姿を。そして、彼の下の名前を。私は、思い出せない。


 思えば、私は彼のことを何も知らなかった。どこに住んでいるのか、何が好きだったのか。もしかしたら、知ろうとしなかったのかもしれない。私にとって、彼のその情報は必要のないものだったのだから。

 彼は一体誰だったのか。何者だったのか。あんなにも、こんなにも恋い焦がれているのに、私はいずれ彼を忘れてしまうのだろう。 


 だから、私はここに残しておきたい。彼は確かに存在していたのだと――これを読んだ人に伝えたかった。私が忘れても、誰かに覚えていてほしかった。彼のことを。透明で優しくて、空っぽな彼を。

 

 雨の降る日に、思い出してもらえますように。


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高校三年生のときに書いた小説を書き直してみた よい小雨 @kuragemori

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