二色の海
花森遊梨(はなもりゆうり)
丹色の海
「うわ、今日もとけるわこれ……」
駅のホームに立った緑田萌葱が、スポーツキャップをあおぎながらうんざりした声を上げた。朝なのに、コンクリートの照り返しが肌に刺さる。蝉の声が、耳の奥で飽和していた。
赤井丹はというと、ひとり黙って暑苦しい赤いパーカーのフードを目深にかぶっている。下はショートパンツだが、上半身は相変わらず長袖。手元に薄く汗が滲んでいて、袖口が少し湿っていた。
「……それ、暑くないの?」
萌葱が横目で聞くと、丹は軽く睨むようにこちらを見て、つんと顔をそらした。
「別に」
一言。あとは黙ってキャリーケースの取っ手を握り直す。
萌葱は苦笑いして、言い返さない。ただそのまま、電車のドアが開くのを待った。
二人はロングシートに並んで座っていた。窓の外には灰色の建物や、カラフルな割に屋根の低い民家。蝉の声をかき消すように、車輪の音が一定のリズムで響いている。
丹は窓の外を見ながら、額に浮いた汗を手の甲で拭った。
「……ソレ、さすがに脱いだら?」
隣でいつの間にか買った炭酸水を飲んでいた萌葱が、何気ない調子で言った。丹は返事をしない。だがその手が、無意識にフードの紐をいじっていた。
「電車ん中で倒れても知らないからね?」
「倒れないから」
「脱げば?」
「うるさいな……」
言い返しながらも、丹は少しずつフードの端を指でずらしていった。風が、首筋にふっと当たる。汗のせいで髪が肌に貼りついて、やっぱり不快らしい。
「……ちょっとだけ、だから」
ぼそっと言いながら、ジッパーを下ろした。そこには…という成人向け展開などなく、Tシャツ一枚になったその姿は、どこか頼りなく見えた。肩は細く、腕も華奢で、風が吹けば簡単に倒れてしまいそうだ。フードで覆っていた顔も、今は明るい車内灯に照らされて、はっきりと見える。まっすぐな睫毛、少し噛みしめた唇。何も隠さないかわりに、どこか所在なさげだった。
パーカーを膝に畳んで、丹はじっと窓の外を見ていた。
海風に砂を巻き上げながら、ふたりはビーチの端にレジャーシートを広げた。
ラッシュガードをゆっくりと下ろすと、丹の素肌が陽にさらされる。タンクトップ型の水着が露わになり、白く透けるような肩と二の腕が、海風にそっと撫でられる。水着の黒と肌の白さのコントラストが際立っていて、見慣れているはずの丹が、ほんの少しだけ“綺麗”に見えた。髪はまだ少し湿っていて、襟足にぴたりと張りついている。フードの影が消えたせいか、顔全体がやや明るくなって、鼻筋や頬の骨格が柔らかい輪郭を描いていた。少し不機嫌そうな表情の奥で、目の奥だけがどこか落ち着かず泳いでいるのがわかる。
「……見ないでよ、萌葱のバカ」
「丹ってやっぱかっこいいよ。なんか格ゲーのちっちゃいの強いキャラっぽい。ピクシブのイラストで大人気になりそう」
萌葱がビキニの上に羽織っていたシアー素材の白パーカーを脱ぎながら言う。ミントグリーンの水着が陽光に映えて、健康的な色気が砂浜にきらめいた。丹はわずかに口を尖らせる。
「人の服をゲームのキャラでしか表現できないの?」
「でも似合ってんじゃん。食が細いおかげでスタイルいいだけでさ」
「うるさい!」
ちょっとだけ耳が赤い。
萌葱はシートの端に座り込み、バッグから日焼け止めを取り出した。白いクリームのチューブを片手に、丹を見上げる。
「ほら、丹。塗るよ。背中とか、自分じゃ無理でしょ」
丹はわずかに眉をひそめた。
「自分でやる」
「以前、沼影のプールでそうやった結果、10月まで背中を触らせてくれなかったの、忘れた?」
萌葱は半ば強引に、丹の背後に回る。古傷を抉られたのが効いたのか、丹はまったく動かず、ただ固く肩をすくめたままだ。
「冷たいよー?」
「っ……!手で温めてから塗りなよ!」
ひやりとした感触に、丹がぴくっと肩を震わせる。そのまま萌葱の手が、優しくクリームを伸ばしていく。丹の背中は小さくて、どこか儚げで、でも筋の通った骨格が感じられる。
「……意外と、ちゃんと体、引き締まってんじゃん」
「どーでもいいこと、言ってないで」
それでも、声は小さく、反論というよりは照れのごまかしに近かった。
「……はい、次はあたし」
萌葱がひょいとうつ伏せに寝転がり、背中を見せる。丹は一瞬ためらったが、無言のまま日焼け止めを受け取った。
「背中って……どこまで塗ればいいのよ、コレか」
「肩甲骨は絶対忘れずに、おしりまでは許す」
「私はエステティシャンじゃないんだけど」
「えー?一度焼けて酷い目にあった丹だからこそみなまで言わなくても大丈夫そうだと思ったんだけどなぁ」
「塗ったふりだけして自分の痛みで学んでもらおうかな…」
ぶつぶつ言いながらも、丹の指は意外と丁寧だった。指先にクリームを取り、軽く力を入れて広げていく。触れた萌葱の肌は、予想よりも熱を持っていて、生きてる体温を感じさせた。
「……丹、なんか手つきやらし……」
「煩悩くらい自分で振り払って」
言いながら、丹はほんの一瞬、目をそらした。
「あとさ、クリームを温めてから塗るのって本来は男女の営みの前n」
プールサイドに破裂音が響いた
背中に刻まれたモミジマークもなんのその、足首まで海に入って、萌葱は楽しそうに水を蹴り上げた。波しぶきが陽光に弾けて、笑い声と混ざって空に溶けていく。
「見て、めっちゃ透き通ってるー!」
叫びながら、丹の手を引いた。
「ちょっと!萌葱ってば!海は急に深くなるからひっぱったらヤバいってば!」
ふたりの腰元に、泡がやわらかく寄せては返す。
ふたりで波と戯れていたそのとき。
海中から人が出てきた。海の中なのに麦わら帽子をかぶった年配の女性が、ふと丹のほうに視線を向けた。丹がびくりと一瞬だけ身を引く。けれど、その女性はただ、にこやかにこう言った。
「あなた、随分と綺麗ね。そのお肌、日に透けて、よく似合ってるわ!メラニンには気をつけるのよ!」
にこりと微笑みながら、それだけを残して、女性は浜辺の方向へゆっくりと歩いていった。
「これで、縁ができたなぁ」
その後ろから麦わら帽子のおじいさんと、
「あのお姉ちゃんたち、全然ナンパされないねー」
水泳キャップと海パンの小さな子どもが、同じように海から現れ、そのまま海坊主一家は浜辺の人混みの中へ見えなくなった
「……え?」
唐突すぎて、丹は反応できなかった。
「ね、ねえ今の……何のつもりなの?」
萌葱はにっこりと頷いた。
「言葉通りに褒めてるの、ああいうの、うれしいよね」
丹は返事をしなかった。
ただ、なぜか喉の奥がじんわり熱くなった。
褒められるなんて、思っていなかった。
髪の色も、陽に透けることも、全部見られたくない要素だったのに。それが「似合ってる」と言われたのが、不思議でならなかった。
…でも、嬉しかった。
「それっ!海に来たらこれは外せないっしょ!」
そう言いながら、萌葱は手に掬った海水のしぶきを丹に目掛けて浴びせる。
「わっ!…なんで子どもなの、萌葱は」
小さくぼやきながらも、丹はほんのわずかに口元を緩めた。すくった波をぱしゃっと返す。萌葱が肩をすくめて笑った。
ふとした視線の圧を、丹の背中が察知する。視線の先——砂浜のほうで、数人の若い男女たちがこちらをちらちら見ていた。手元のスマホを構えながら、何かを話し合っている。
「……っ」
丹の体がびくりと震えた。海風の涼しさが、一気に遠のいた。冷たくて重い何かが、心臓の奥にぬめり込んでくる。
肌を晒した肩。腰に巻いたタオル越しの視線。何より、誰かの笑い声が、耳の奥でリピートされて離れない。
「……ねぇ、丹。写真撮ろ。せっかくだし!」
はしゃいだ萌葱の声が、波の音にまぎれて届く。
「は?……バカじゃないの!? なんでこんな人前で……っ」
突然、丹の声が跳ねた。言葉は一気に刺々しく、怒鳴るようなトーンに跳ね上がる。
「なんで今撮んの!? みんな見てんのに……っ! やめて!やめてってば!」
その声に、周囲の何人かが驚いたように振り返る。スマホを持ったグループのひとりも、ちらと視線を向けてきた。丹はすぐさま目をそらす。首元までぶわっと熱くなって、膝が一瞬ぐらついた。
「……見ないでってば……っ」
かすれた声でつぶやく。
萌葱はその場で立ち止まり、丹をじっと見つめる。その瞳に、怒りも驚きもない。
ただ、丹の不安にまっすぐ向き合おうとする視線だけがあった。
「……うん、ごめん。びっくりさせたね」
丹は何も言わなかった。
胸の奥が苦しくて、言葉にならない。
「でもさ」
萌葱は声を落として、丹にだけ届くように言った。
「見られてるって、怖いことだけじゃないよ」
「ちゃんと見てくれてる人もいる。あたしも、ずっと見てるし」
丹の視線が揺れる。
萌葱が一歩だけ近づく。
「……さっきのおばさん、言ってたじゃん。綺麗だねって」
「……あれは……」
「褒められたの、ちゃんと受け取ったでしょ?」
「今の丹、めっちゃきれいだもん。堂々としててさ」
小さく、萌葱が笑った。丹の手をそっと取る。その手がほんの少し震えていることに気づきながらも、強くは握らない。
「じゃあ、ふたりでだけ撮ろ?」
「……は?」
「あとで、あたしが勝手に見る用」
「誰にも見せない。顔は写んなくてもいいし、前が嫌なら、後ろ姿だけでも」
「……バカ……!」
それでも丹は、萌葱の手を振りほどかなかった。
砂浜のほうでまた誰かの笑い声が聞こえたけれど、それはもう、丹の耳に届かなかった。
「絶対にあとで消してよ、最近削除したファイルに隠しておいてエロ広告まみれのインス◯グラムにあげたりしたら萌葱でも殺すから…!」
「はーい、ありがとうございます〜」
スマホを構えながら、萌葱が照れ隠しみたいに笑う。
波打ち際、二人の影が並んでゆらいでいる。
その真ん中に、カメラのシャッター音が一度だけ響いた。
帰りの電車の車内。
窓の外には、オレンジ色の陽が落ちかけている。
丹は座席の端に腰掛け、手持ち無沙汰にTシャツの裾を指でいじっていた。パーカーは、今はキャリーケースの中。一度脱いだら、もう今日は着る気になれなかった。
窓ガラスに映る自分の顔を見て、ふと目を細めた。
「……なんか知らない人みたい」
ぽつりと漏らした呟きに、隣の席の萌葱が反応した。
「でも、それが今の丹なんじゃない?」
「はぁ?」
「今日のあんた、ちゃんと“人の中にいた”よ。笑ってたし、怒ってたし、…見られてた」
丹はそっぽを向いたまま、何も返さなかった。
「最初さ、めっちゃ不機嫌だったじゃん。誘った時も「海水に浸かるなんて修行僧みたいなことは1人でやって!」とか言って」
「……うん、確かにそう言った」
「でも今は、あの鎧みたいなパーカーを着なくても、ちゃんと座ってる」
萌葱が少しだけ声を落として、優しく付け加える。
「それって、ちょっとすごいことだと思うよ」
丹は返事をせず、ただ足元のキャリーケースに目を落とした。
「……暑かっただけだし」
「ふーん、そういうことにしとく?」
しばらくして、丹がぽつりとつぶやいた。
「……うれしいとか、思ってないからな」
「うん。知ってる。でも」
萌葱が丹の髪を、そっと一本だけ指でつまむようにして言った。
「ちゃんと見てくれた人、いたよ。あの、おばあさんとか」
「……」
丹の口元がほんの少しだけ、ぎゅっと引き結ばれた。
「萌葱が忘れさせてくれたんだよ。パーカーのこと」
その言葉に、萌葱が少し驚いたように眉を上げる。
「え?」
「なんかずっと喋ってたし、浮き輪で引っ張り回すし、日焼け止めも……勝手に塗るし」
「勝手じゃないし! 焼けたら文句言うくせに」
「うるさい」
それでも、その声に怒気はなかった。
むしろ、どこかあたたかささえ滲んでいた。
窓の外に、夕焼けがゆっくりと流れていく。
丹の白い手が、ふと隣の萌葱に軽く触れる。
それはまるで、「またこうしてもいい?」と、問いかけるような小さな接触だった。
二色の海 花森遊梨(はなもりゆうり) @STRENGH081224
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