@punitapunipuni

第1話

 鏡の魔力は、劇的だ。

 「よう」

 懐かしい声が聞こえた。私は、手に持った銀色の縁の手鏡を傾け、声の主の全身が鏡面に映るように角度を調整する。神聖さすら感じさせるほど磨かれた鏡に、一人の男の姿が伸びていた。

 「俺は鏡の中の住人じゃないっつーの」

 柔らかく笑いながら、男はゆっくりと近寄ってきて、私の額を小突いた。私は鏡に落としていた視線を上げ「久しぶりだな」と返す。

 「兄貴こそ、久しぶり。三ヶ月ぶりくらいか?」

 そう言う弟――聖也の顔は、鏡に写っていた顔と殆ど変わらず、出どころが不鮮明な活力に溢れていた。


 船橋市運動公園では毎年、蛍の展示会が開かれている。公園内の片隅、主に水場となっているエリアを網で多い、その中で蛍を育てる。公園を訪れた人々は、網の内部を歩いて通り過ぎながら、淡く点滅する蛍の光を間近で見ることができる。

 「今年も並んでるな」

 聖也が言った。私も手鏡を駆使して、蛍待ちの行列を確認する。

 日の落ちかけた初夏の夜に並んだ、数百人の人々。遠くから見れば、それは行列と言うより、一つの黒い塊と言ったほうが近いだろう。

 私は暗い夜道で躓かないよう、注意深く手鏡で足元をチェックしながら、列の最後尾へと歩いていく。頭上の林がさわさわと揺れ、隣り合った木と木の間にぽっかりと空いた黒い穴が、生暖かい空気を吐き出している。

 いよいよこれから蛍を見られるのだという期待が、次第に高まってきた。

 「兄貴は、まだその鏡を持ってるんだな」

 最高尾に着いた時、弟が私の手元の手鏡をじっと見ながら言った。

 「ああ。鏡は素晴らしいよ。聖也も携帯したらどうだ?」

 私が親切心から勧めると、聖也は苦笑いの表情で「俺は遠慮しとくよ」とはぐらかした。

 「そうか。残念だ」

 「鏡は嫌いじゃないけど、持ち運ぶほどではないかな。にしても、兄貴は本当に鏡が好きだよな」

 「好きというか、殆ど体の一部みたいなものだな。この手鏡は、言わば私の視力なんだ」

 「――視力?」

 私はうっとりした気分で鏡を見つめた。

 「鏡には、物事の真の姿が映る。鏡面の完璧な均衡は、いささかの汚れも凹みも取り逃さない。全てありのまま映す」

 「じゃ、鏡の前では隠し事とかができないわけだ。そりゃおっかないねえ。もしマユちゃんが鏡を持ち運ぶようになったとしたら、俺の下手っぴな嘘はついたそばからバレちまうね」

 マユちゃんというのは、聖也の妻の名前である。五年ほど前、聖也が二十歳の時に結婚し、今では三歳の娘がいる。

 「なあ聖也。物事のありのままの姿を捉えられたら、どんなに素晴らしいだろうと想像したことはないかい?」

 「そういう風なことを考えるのは、兄貴が真面目な人間だからだよ。大抵の人間は、物事のありのままの姿とか、そういお固いことは考えないって」

 「私の性格の話はしていない。大事なのは、鏡に映る真の姿は素晴らしいかということだ。

 さっきのお前の話通り、人はよく嘘をつく。人とはそういう生き物だからだ。そして世の中の人々は、この現実をよく知りながら他人と会話をしている。だから私たちは他者との会話をあまりよく覚えていない。覚えていても、きっとその内容には嘘が含まれているだろうと簡単に想像できるからだ。信憑性が皆無の情報など、頭に入れておいても価値がない。では、鏡ならどうか? 鏡に写った風景は嘘をつくか?」

 「つかないよ。そもそも鏡には、嘘をつく口がないからね」

 聖也が少しおどけた口調で続ける。

 「人が他人との会話を覚えていないのは、頭を空っぽにしたほうが、次に会話した時に楽しいことを喋れそうな気がするからだよ。この感覚は、兄貴にはあんまりわかんないかなあ」

 そして、聖也は少し考えた後、

 「兄貴はなんで、鏡の景色は素晴らしいと思うのさ」と言った。

 「鏡に映る世界は、現実よりも、現実らしかった」

 「……」

 「写真と一緒さ。写真で見る自分の顔と、鏡に映る自分の顔。より生き生きとしたのはどっちかな?」

 聖也はそこで黙り込んだ。私は弟をやりこめられたことで幾分気持ちが良くなり、ようやく進み始めた行列を、手鏡に映して視認した。


 「……兄貴がそんなに鏡を好きになったのはさ、」

 たっぷりと時間を空け、聖也が静かに言った。

 「兄貴が一時期、あんまり家の外に出てなかったことと関係があるか?」

 「あまり私を馬鹿にするな。素直に引きこもりだったと言いたまえ」

 聖也が少しだけ笑った。

 「兄貴は――昔から、勉強も、スポーツも、色々できたからなあ……」

 聖也が遠い目をする。

 「俺は勉強のほうがまっぴらで、適当に自動車工場に就職しちゃったけど、兄貴は大学、かなりいいとこ行ってたもんな」

 私は腕を組んだ。

 「そうだな。勉強はかなりやった」

 「兄貴は部活も頑張ってたよな」

 「ああ。大学でも、バスケは続けていた」

 「そして、いよいよ就職って時も――兄貴は頑張ってた」

 「よせ。結果として鏡の魅力に気づけたから良いものの、私の就職してから数年の時期は、まさしく黒歴史だ」

 身の丈に合わない会社――

 もし私が大学生の時、手鏡を携帯していたとしたら、真っ先に映すべきだったのは、等身大の自分自身であろう。

 「なまじ大学が良かったからな。大手の求人がたくさん来ていた」

 何か一つの秀でた特技がある人間は、往々にして、自分がありとあらゆる分野に精通していると勘違いしてしまうものである。

 私の場合、その特技というのは「努力できること」だった。

 「兄貴は、努力してたから」

 弟はそう言ってくれる。

 努力とは、結果論であると思う。世の中には「成功した努力」と、「失敗した努力」の二種類がある。努力した結果、その人が何らかの成功を収めたとしたら、彼の努力は「成功した」とみなされる。しかし、成功した努力の影には、まるで鏡写しのように、同じ程度の量の「失敗した努力」が確かに存在するのだ。

 「私は、自分の能力を過信していたのだ。努力などできて当然。プラスアルファが求められる会社に、私の居場所はなかった」

 家族を安心させようと、大手の企業に就職した先に待っていたのは、怖ろしいほどに優秀な人間のみが集まる弱肉強食の世界であった。

 同じ人間とは思えないほど、万能の同期たちに追いつこうと、私は日々心身をすり減らしながら勤務を続けた。

 「兄貴は、ただその会社に向いてなかっただけなんだよ」

 聖也がなだめるように言う。私は「ありがとうな。しかし、自分の向き不向きをしっかりと認識できるほどの余裕が、あの時の私にはなかった」と答えた。

 「なあ兄貴。兄貴は、会社を辞めるっていう選択肢はなかったのかな? あんまりメンタルを削っちゃう前に、逃げちゃうっていう方法を選ぶことはできなかったのかな?」

 私は口の端だけで笑った。

 「自分から志願して入った会社だぞ。辞められるわけがない。むしろ、喰らいついていこう、何とか上を目指そうとする意思のほうがはるかに強かったな。それに、私は自分から進んでそんな環境に身を投じたんだ。私がその会社に入ることで、その会社を落とされた人間というのも存在する。私が自らドロップアウトしてしまったら、そういった人たちに申しわけが立たないじゃないか」

 「……」

 聖也は長い息をつき、言った。

 「……で、二進も三進もいかなくなった結果、引きこもりね」

 「さすが私の弟。話の筋がよくわかってる」

 私はある日突然――壊れた。精密な電子機器に水をぶっかけたみたいな壊れ具合だった。

 「あの時期は大変だったな。何せ、街を歩いていたら会社の人間に出会うのではないかと怖くなって、一歩も家の外に出られなかったからな」

 「すげえ心配したんだぜ、俺。家から出られない兄貴に変わって、週に三回くらいのペースで買い出しに行くくらいにな」

 「本当はネットで日用品を買っていたから、聖也に外を出歩いてもらう必要はなかったのだが、それでも、私のような社会の底辺の人間を気にかけてくれたのは嬉しかった」

 「自分で社会の底辺とか言うなよ」

 「では社会のゴミ?」

 「もっとひどくなってら」

 私は、今度は声を出して笑った。

 丸半年ほど、私は家の外には殆ど出なかった。髪の毛はうんざりするほど長く伸び、働いている間にしていた貯金も、みるみる内に減っていった。

 このままではいけない。しかし、何をどうすればこの状況から抜け出せるのかは、さっぱりわからない。ぬかるんだ泥にはまったような焦燥が身をほとばしる。

 そんな時に出会ったのが――

 「手鏡は、私を救ってくれたんだ」

 改めて、手に持っている愛用品を眺める。怜悧な光を返す鏡は、いつだって、私に寄り添ってくれた。

 「私は、この手鏡が何なのかよく知らない。気づいたら私は、空のペットボトルや脱ぎっぱなしの服で足の踏み場もなくなった薄暗い部屋の中で、この手鏡に自分の顔を映し出していた」

 「出どころ不明の手鏡だって? ああ怖っ。呪いの鏡じゃねえの、それ?」

 「あまり茶化すな。怒るぞ。――ともかく、私は手鏡を持っていた。ちょっとした思いつきで、私は部屋の窓際に歩いて行った。窓からは金色の日の光が真っ直ぐ落ちるように射していた」

 私はぎゅっと手を握った。

 「私は恐る恐る、窓に向けて鏡をかざしてみた。鏡面に反射した陽光は、私の背骨の辺りに留まっている穢れに突き刺さり、瞬く間に汚れを洗い流した。魂の震えるような感動が、私の心臓を強く打った。私はそのままの勢いで、鏡に窓の外の風景を映し出した。

 想像しただけで、胃がキリキリと痛み、悪寒が全身を走っていた窓の外の世界は――鏡に映してしまえば、なんのことはない。私は久方ぶりに、世界の瑞々しい姿を視認した……!」

 「……言葉は難しいけど、要するに『鏡をワンクッション挟むことで、怖かった家の外が、ようやっとはっきり見られるようになった』ってことだろ」

 「そうだ。私の中に、新たなる世界が広がっていく感覚。胸ときめき、血が沸き、童心に帰ったような、そんな初々しい興奮。たまたま通りかかった、大家の奥さんが鏡の中に姿を表した時には、私は年老いた彼女の姿に、聖母マリヤの再来を見たのだ」

 「……言いすぎじゃねえ?」

 「必ずしも理解してもらおうとは思わない。だがしかし、私の胸に深く刻まれた感動というのは、それほどまでに深かったのだ」

 聖也は「なるほどね〜」と呑気に相槌を打った。

 「で兄貴は、鏡を通さない世界は怖くて見ることができないけど、手鏡を挟んだ途端、何の躊躇もビビりもなく外の世界を出歩けるようになったってわけか。う〜ん、めでたしめでたし」

 聖也がパチパチと小さな拍手をした。


 「蛍、少ないね……」

 聖也が仄暗い周囲を見渡しながら言った。私は「ああ」と低く呟いて顎を引く。

 鏡をあちこちに向けても、そこに幻想的な光を放つ蛍が映ることは稀であった。小川のささやかなせせらぎが耳に入り、蝉が夏の訪れを情熱的に歌い上げている中で、本日の主役である蛍のみが、ただ黒い紙で覆われたような風景に、ぽつんぽつんと点在していた。

 「昔はもっといっぱいいたのにねえ……」

 聖也がしみじみと、過去を懐かしむような口調で言う。思えば、子供の頃に聖也とここを訪れた際には、そこかしこに、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細な光を放つ蛍が飛んでいた気がする。

 私は相も変わらず、手鏡を忙しなく動かし、数に限りある蛍を追っていた。

 「ねえ兄貴」

 後ろを歩く聖也が言った。

 「兄貴は、その変な手鏡を持つのを止める気、ないの?」

 私は瞬時に、聖也の口調が、先ほどと比べて僅かに硬くなっていることを察知した。

 「兄貴はいつまでそんなことしてるつもりなんだ?」

 聖也が続けざまに言う。私は足をピタリと止め、そして言った。。

 「鏡は、私の全てなんだ。これを手放すことはできない」

 「それは兄貴の思い込みじゃないのか? 確かに、昔の兄貴は精神的に病んでたのかもしれないよ。鏡にすがりたくなったのかもしれないよ。だけど、今はもう違うだろ?」

 「……」

 「いつまでもそのままでいいはずがないことは、兄貴だってきちんとわかってるはずだろ?」

 「……何を言う」

 私は、自分が冷静であると見せかけようとした。

 「鏡の素晴らしさは、さっき私が力説してみただろう?」

 「俺は全然納得してない。……やっぱり兄貴は、変だ」

 吐き捨てるような聖也の台詞に、私は何か、自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったような、空虚の感を覚えた。

 「変だと……? 聖也。その言葉は取り消せ。誰にだって、大切な物の一つや二つはあるだろう。俺の場合は、それが鏡だったというだけだ。

 大切な物を守る人生を送るのは、人間の本望ではないのか? 人は、自分の信じたい物、宝物を得るために生まれてきたのだ。それはお前も同じだろう。お前の宝物はなんだ? 奥さんか?」

 「マユちゃんを物扱いするな」

 私はようやっと、自分と弟との間に、決定的な認識の齟齬が生まれていることを理解した。ふと聖也の表情を見れば、その眉間には深いシワが刻まれ、怒り心頭に発しているというのが丸わかりだった。

 「お、おい……」と私は情けなく言い、「怒るなよ。ただ、俺とお前とでは考え方が合わなかっただけだ」と弁解がましくつけくわえた。聖也は何も答えなかった。私は、場に染み渡る沈黙に動揺した。

 そこから、蛍の展示が終わるまで、私と聖也は一言も口を聞かなかった。


 「ん……」

 展示スペースから出て少し歩いた頃、聖也が、何かに気づいたような声を上げた。薄暗いアスファルトの道を、何者かが近づいてくる気配があった。私は手鏡を傾け、聖也の視線の方向にいるのが誰なのか、確かめようとした。

 寄ってくる黒い影の主は、女だった。女は明るい声で「こんばんは」と挨拶し、胸の辺りに抱えていた、三歳ほどと思われる女の子をそっと地面に下ろした。

 「来てたんだ……!」

 隣の聖也が嬉しそうに言う。

 私は、その女に見覚えがあった。……聖也の奥さんだ。足元にいる小さい子供は、おそらく聖也の娘だ。

 私が最後に聖也の奥さんと会ったのは、一年ほど前である。その時はまだ、私は手鏡を携帯していなかった。私が会社の激務に耐えかね、退社せざるを得なくなってからは、なんだか聖也とも、彼の家族とも顔を合わせづらくなって、そのままずるずるとお互い会わないまま時を過ごしていた。

 「聖也のお兄さんですか? 久しぶりですね」

 聖也の奥さん――聖也は「マユちゃん」と呼んでいた――は、鏡の中で、私に優しく微笑みかけた。

 鏡に反射する、弟の奥さんの顔。

 私の胸の内に、得体のしれない違和感が肥大した。

 「手鏡――ですか?」

 マユさんは至極不思議そうに聞いた。思いがけない問いかけに、私は「あ、ああ。そうです」としどろもどろの返答をするのがやっとだった。

 ――すると、私の手が、不意に震えだした。

 手鏡、謎の手鏡。呪いの手鏡。私は、手鏡は、自分の救いになってくれると信じていた。ただ盲目的に、鏡への湧き上がる情動に身を任せていた。

 しかし、なぜだろうか。

 なぜ今の私は、言いようもない居心地の悪さを感じているのだろう。

 突然、私の肩に手が乗せられた。それは聖也の手だった。聖也は横目で私を見た。私に何かを訴えかけているみたいな鋭い視線だった。

 「お義兄さんも、今度は家に遊びに来てくださいね。娘も待っていますから」

 マユさんが黒髪を掻き上げながら言った。私は地面に視線を転じた。しゃがみこんで足元の石ころをいじっていた聖也の娘が顔を上げ、そして――

 「あっ!」

 私の手元から、手鏡をひったくった。

 「や、やめっ――」

 私は焦った。今まで、私の体の触れていない所に鏡が離れる状況など、想像すらしていなかった。まるで命綱を失ったような、絶望が忍び寄る気配がした。

 しかし、私は動けなかった。肩に置いてある聖也の手に、ことさらに強い力が宿ったからだった。私は息を呑んだ。

 「鏡……鏡が……!」

 私が嘆く。マユさんが「コラッ!」と言い、娘の手から手鏡を奪い返した。娘がムスッとした顔をして、そっぽを向いた。

 「すいません、わんぱく娘なもので……。はい、どうぞ」

 そう言って、私に手鏡を渡すマユさん。私は切羽詰まった気持ちで、彼女の手に握られた手鏡にすがりつく。マユさんは、聖也とよく似た笑顔を私に向けながら、鏡の受け渡しを終えた。

 ――そこで私は、気付いた。

 私の感じている、針の筵に座らされたような、言いようもない居心地の悪さの正体。

 それは私が、家族という輪の中に、無理やり組み込まされたのを感じているからなのだろう。

 私はこれまでしばらくの間、一匹狼で生きてきた。それが改めて、聖也の家族と対面することで、家族・親戚の中での自分という面を、半ば強引に掘り下げられてしまった。

 ――変わろうとすることは、今の自分の土台を根こそぎ犠牲にし、新たな個性を引っ張り出すことだ。新たな自分を見つける作業は、新しく買った服を、鏡を見ながら自分に似合うかどうか確かめるのに似ている。それは地道であり、洋服があまりにも自分に似合っていなかった場合には、心が削られることさえある。しかし、それを乗り越えなければ、私たちは新しい自分に出会うことはできない。

 「兄貴」

 痺れたように固まった私に、聖也は落ち着いた声をかけた。

 「辛くなったら、いつでも俺らに頼っていいからな。今日はこれで解散にしよう」

 そして聖也は、よっこらしょと娘を背負い上げた。それから、家族でまとまって、私に手を振りながら、その場から歩きさっていった。

 私は小さくなっていく彼らの姿が完全に見えなくなるまで、ずっと手を振替していた。

 ――言わずもがな、鏡は必要なかった。


 帰る場所を失ったような、果てしない喪失感。

 聖也達と分かれてから、私がどこをどのように辿ったのかは、あまり記憶がはっきりしない。宛もなく、土の香りがどこか懐かしく香る運動公園をさまよい歩いた。

 一度、木の根に躓いて転んだ。その拍子に、手鏡が私の手から離れて飛んでいった。手鏡は少し先の地面に叩きつけられ、鏡の割れる不快な音が響いた。

 地面に転がる手鏡に近づいてみる。完璧に磨き上がられていた鏡面は、修復不可能なほどにバラバラに砕け散っていた。鏡の破片が辺り一面に散らばり、街頭のこじんまりとした光を反射して、夜光虫のように美しく光っていた。欠けた鏡というのが、宝石にも寸分たがわない輝きを放つことを、私は初めて知った。

 長い間、私の心の支えとなっていた鏡が壊れても、私はさして何も感じなかった。――壊れてしまったのは、鏡ではなく、私なのだろうか。

 「鏡は、所詮、鏡なんだ……」

 鏡の劇的な魔力は、たった数時間の内に、宵闇の只中に溶けてなくなってしまった。酔いが冷めたような心地だった。私はよろよろと、行く先もなく歩き続けた。

 いつの間にか私は、蛍の展示場からほど近い水場にやってきていた。洒落たデザインのタイルで舗装された水場の水面では、風が無いのにも関わらず、小さな波が寄って、引いてを繰り返していた。水に落ち葉が浮いていた。

 水場の隅、タイルが途切れて土が剥き出しになっている場所に、白い花弁をつけた水仙の花が咲いていた。完全に季節外れでの水仙である。初夏に咲く水仙など聞いたことがない。

 私は水仙のすぐ近くまで歩いていった。純白の花弁と、黄色いめしべの先端のコントラストが鮮やかだった。月の青い光りに照らされたしなやかな茎は、表面の産毛すらはっきり見て取ることができ、私の心を掴んだ。

 私は地面に膝をつき、水面を見下ろした。水は呆れるほど澄み渡っていた。涙のように透明で硬い水だった。水面の水鏡には、白く雄弁な花を咲かせている水仙と、頬のこけた私の顔のみが並んで映っていた。

 依然として、水面には出所不明のさざなみが立っていた。どこからともなく押し寄せる鏡面の波は、鏡に映った私の顔をくしゃくしゃに歪ませ、正しくし、そしてまた何事もなかったかのように引いていくのだった。

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