新たな目覚めは見知らぬ大地で……

――暖かい風が頬を撫でる感触。


 俺は、ゆっくりとまぶたを開けた。

 瞬間、目に飛び込んできたのは、圧倒的な青の広がり。

 空は限りなく澄み渡り、ひとつの濁りもなく吸い込まれるようだった。

 耳に届くのは、鳥のさえずり。澄んだ声で鳴くものもいれば、低く鳴き交わすものもいる。

 風が木々を揺らし、葉と葉が触れ合う音がさざ波のように広がっていた。

 草の匂い。土の湿り気。

 吐いた息が、空気にすっと溶け込んでいく。


 ――生まれて初めて、本当の意味で「自然」を体感しているような感覚だった。


「……ここが、あの女神が言っていた世界か」


 上体を起こすと、周囲は一面の草原だった。

 遠くには黒々とした森の塊があり、さらにその奥には雪をいただく山脈も連なっていた。

 雲がひとつ、尾を引きながら山肌を流れていく。


 立ち上がると、体の軽さに思わず息を呑む。

 高校から続いていた慢性的な倦怠感が消え、筋肉はしなやかに整い、視界は驚くほど鮮明だった。


 ――遠くで揺れる木の枝まで見える。

「……すげぇな。これが"転生"ってやつか」


 自分の身体を確認している時、服装が変わっている事にも気が付いた。

 ――さっきまでは、しっかりとスーツを纏っていたはずだが…


 今の服装は簡素な麻のチュニックに革のベルト。

 腰には、硬貨が入ってるであろう麻袋、そして見慣れぬ造りの短剣がひと振り差されていた。

 持ち物はそれだけ。まるで生まれたばかりの赤子のように、ゼロからの出発を強いられていた。


「ほんとに俺、この世界で生きていけるのか…」

 

 転生前の世界ではもちろん魔術なんてものはなかったし、武術も経験したことがない。

 だが、そんな心配も消し去るかのように心の奥底から何かが疼く感覚があった。


 ――《オーバーライド》


 理を超える力。自分がこの世界の最強であることを、何よりも雄弁に物語る存在。

 だが同時に、それを使えば「異端」として目立ってしまう可能性もある危険な力。


 ――まだどんな力かよく分かっていないがあまりむやみに使わない方がいいか……


 そう心に決めた。

 そしてもうひとつ。


 ――名前。

「……藤堂航」


 声に出してみる。

 だが、草原に響いたその響きは、どこか場違いに思えた。

 前世にいた頃の自分は、すでにここにはいない。

 ならば、この世界で生きるために新しい名が必要だろう。

 しばし考え、口を開いた。


「……ルシアス」


 自分でも、なぜそう決めたのかわからない。

 だが不思議と、その響きは世界に馴染んだ。

 風が頬を撫で、遠くで鳥が一声鳴く。

 まるで、この名を歓迎するかのように。


「よし……これからは、ルシアスだ」


 そう言い聞かせるように再度、名を声に出す。自分でもいい名を付けることができたなとちょっと嬉しく思う。


「っ……!」


 その時、草むらから不穏な気配が伝わった。

 何かが……来る。

 そう感じた次の瞬間、黒い影が跳ね上がった。

 鋭い角を生やし、牙をむき出しにした獣――シャドウラビット。

 その名を知ったのは、自分のものではない記憶。

 女神から与えられた微かな知識が、脳裏に蘇ったのだ。


「……シャドウラビット、か」


 声に出した瞬間、これが今いる世界だという現実感が増す。

 呼吸を整え、腰に下げられている短剣を構える。

 

 だが心の奥には、強い葛藤があった。

 (ついさっき、むやみに使わないと決めたはずだ。)

 この世界では、あまりにも強大すぎる力。


〈オーバーライド〉


 それなのに――初めての実戦で、試したい衝動が湧き上がる。

 ほんの少しでいい。どの程度、自分を変えることが出来るのか確かめたい。

 ――それに初めての実践でやられたら転生した意味も無くなるしな……


「……なら、少しだけ使ってみるか…」


 そう決めた時、頭の中にふと言葉が浮かぶ。


「世界を越える理よ、ここに顕現せよ――〈オーバーライド〉」


 小さく呟き、心の奥に眠る力を解き放つ。

 瞬間、胸の奥で何かが弾ける。

 熱が血管を駆け巡り、視界が白く閃いた。

 音は鮮明になり、草を擦る音も獣の息づかいも手に取るようにわかる。

 空気の流れ、獣の呼吸、爪の軌跡までもが、鮮明に見える。


 時間が緩やかに流れるような錯覚。

 体が軽い。

 筋肉が弾けるように反応し、意識の前に世界が置き換わる。


「……これが、〈オーバーライド〉」

 

 世界が違って見える。

 それだけで、勝敗はすでに決していた。

 

 ――迫り来るシャドウラビットの跳躍。

 優雅に流れる水のように一歩踏み込む。

 刃が空を裂き、獣の角を容易く断ち切った。

 反撃しようと爪を振り上げるより早く、腹部へ斬撃が走る。

 わずか数秒。

 獣の体は草むらに崩れ落ち、動かなくなった。

 あまりにも簡単すぎた。まるで、戦い方を知っていたかのように……


 刃を振って血を払いながら、呼吸を整える。

 鼓動が早い。力を使ったことによる興奮なのか…

 それとも――恐怖からくる不安なのか…

 

「……これが、【絶対なる力〈オーバーライド〉】……」


 予想を遥かに上回るほど、強大だった。

 試し程度の解放でさえ、魔獣を圧倒できてしまう。

 だが、それと同時に女神が言っていた言葉の意味がわかったきかした。


『……この力は、あなた自身をも蝕むかもしれない。それでも、進む覚悟はありますか?……』

 

 ――そういう事だったのか……


 だとすれば尚更、人前で使う――いや、使う事すら控えた方が良さそうだ。

 深く息を吸い込み、力を収めた。

 草を踏み分けながら、歩を進める。

 腕や脚にはまだ力の余韻が残っているが、全身に重さはなく、むしろ軽やかに感じる。


 ――試しただけで、こんなにも違うのか

 思わず手を握り、短剣の感触を確かめた。

 力を使う感覚は快感にも似ていたが、1歩でも間違えたら自分自身をも蝕んでしまう――重い責任感も胸にのしかかる。


 風に揺れる草の葉がささやき、遠くの丘の上では小さな動物が走る気配がある。

 倒した獣から折った角を布に包み、軽く肩にかける。

 交易品や食料として使えるだろうか。


 ――そういえば……

「街って……どの方向にあるんだ…」


 呟いた瞬間、背筋を冷たいものが撫でた。

 完全に頭から抜け落ちていた。

 戦闘に集中しすぎて、この先どうすべきかを忘れていたのだ。

 見渡せば、地平線の彼方まで草原が広がるばかり。

 空はどこまでも澄み、陽光は緩やかに傾きかけている。

 道らしいものは見当たらず、人の営みを示す痕跡もない。


「……まずいな」


 このままでは、夜を野宿で過ごすことになるかもしれない。

 異世界の夜がどれほど冷え込むか、それはさておき、どれほど魔獣が出没するのか――それは想像するしかない。


 胸の奥に、不安がじわじわと広がっていった。

 そのとき、不意に胸の奥でざわめきが走った。

 ぼんやりとした映像のような、誰かの言葉の余韻のような。

 女神との対話、いや与えられた、知識の断片だ。


 ――この地に転生する者の近くには、人々の拠点がある。

 厚き城壁に守られた城塞都市。そこが最初の道標となるだろう。


「……そうだ、城塞都市」


 微かな声で呟いた。

 確かな地図があるわけではない。ただ「遠くない場所にある」という曖昧な感覚。

 それでも――孤独な草原に放り出された身にとって、それは何よりも大きな希望だった。


 ルシアスは深呼吸をし、少しだけ胸の重さを押し戻す。

 緊張と不安は消えない。だが立ち止まっていても仕方がない。


「……歩くしかない、か」


 小さく言い聞かせるように呟き、一歩を踏み出す。

 草が足首に絡み、ざわりと揺れる。

 その音はまるで、彼を前へ進めと背中を押すようだった。


 こうしてルシアスは、戦いの余韻を背に、ゆっくりと城塞都市を目指して歩き始めた。

 足を踏み出すたび、乾いた土と草の感触が靴底に伝わる。

 森とは違い、ここには木陰も獣道もなく、ただ 風に揺れる草の葉がささやき、遠くの丘の上では小さな動物が走る気配がある。

 風が吹くと、草原は波打つ海のように揺れ、その中に自分がただ一人浮かんでいるかのような錯覚を覚える。

 その広さは圧倒的で、同時に心細さを誘った。


「……これ、本当に合ってるんだろうな」


 太陽はまだ頭上に近いが、わずかに西へ傾き始めており、光は柔らかく角度を持ち始めていた。

 女神から与えられた微かな知識を頼りに歩いているが、具体的な方向も距離も記憶には無い。

 心のどこかで「ただの幻かもしれない」という疑念が、じわじわと膨らんでいく。


 それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 一歩進めば、その分だけ世界は広がる。

 草の合間に小さな花を見つけたり、地面に開いた獣の足跡らしき窪みを見つけたり。

 そうした細かな変化が、不安を紛らわせる。


 どれくらい歩いた頃だろうか――ふと前方に小さな丘が現れた。

 他よりもわずかに高く盛り上がった地形。そこを越えれば、少し遠くを見渡せるだろう。

 ルシアスは歩調を緩め、息を整えながら丘を登っていく。

 登るにつれ、視界は徐々に開けていき――そして、頂に立った瞬間。


「……あれが――城塞都市……」


 ルシアスは思わず息を呑んだ。

 地平線の向こうに、灰色の巨大な壁がそびえていた。

 遠目にもわかる、厚く高い石の壁。その上にはいくつもの塔が突き出し、旗らしき影が風に揺れている。

 それは自然の造形ではありえない、人の手で築かれたもの。


「……本当に、あったのか」


 心臓がどくん、と大きく鳴る。

 無事に見つけることができた安堵からか、胸の奥にこびりついていた不安が、少しずつ溶けていくのを感じた。

 人の営みが、そして交流が、確かにそこにある。

 ようやく、孤独な草原から解放されるのだ。

 だが同時に、別の緊張も芽生える。


 ――この世界で、初めて人と向き合うことになる。


 自分は異邦の者であり、『絶対なる力〈オーバーライド〉』を持つ存在。

 この城塞都市が歓迎の場所となるか、試練の場となるかは、まだわからない……

 だが、こんな所で立ち止まっても仕方がないだろう。

 それにこの程度でいちいち悩んでいたら女神から与えられた「生きる」という事すら困難だろう。


 「……行くか」


 静かに呟き、ルシアスは丘を下り始めた。

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spiRit&beAst 神崎 @yuzuru0515

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