14.盤上に咲く思い出の花
その日の『チェックメイト』は、主を失った城のようだった。
珍しく店長の神楽坂さんが高熱でダウンし、俺、相田潤は、城代よろしく一人で開店準備を任されることになったのだ。あの常に飄々とした店長も、ちゃんと人間だったらしい。
まあ、いい。王(店長)のいない盤上で、あの狂人(常連)たちも、今日くらいは少しはおとなしくなるはずだ。むしろ、平和な一日になるかもしれない。
俺は、そんな甘い期待を抱いていた。この店の日常が、俺の予測通りに進んだことなど、一度もないというのに。
開店と同時に、カラン、とドアベルが鳴った。
そこに立っていたのは、見慣れない少女だった。俺と同じくらいの歳だろうか。切り揃えられた黒髪に、涼しげな目元。どこか気品すら感じる整った顔立ちだが、その表情は人形のように冷たく、感情が読めない。
「あの、お客様……?」
「……父の代理で来ました。神楽坂柚月です」
かぐらざか、ゆづき。
店長と同じ苗字。まさか。
「もしかして、店長の……娘さん?」
「ええ。父が動けないので、私が代わりに店番をします。あなたは?」
「あ、バイトの相田潤です! よろしくお願いします!」
俺は慌てて頭を下げた。彼女は、それに軽く会釈を返しただけで、さっさとカウンターの中に入り、手際よくエプロンを締め始めた。
気まずい。
何か話すべきかと悩んでいると、店のドアが、今度は破壊されんばかりの勢いで開かれた。いつもの嵐の到来だ。
「うおおお! 店長が休みだと聞いたぜ! チャンスだ! 今日こそこの店のルールを俺様ルールに書き換えてやる!」
権田さんの雄叫びを皮切りに、いつものメンバーがなだれ込んでくる。
「あら、王のいぬ間に城を乗っ取る算段ですの? 下品ですわね、筋肉ダルマさん」
「フン、合理的に考えれば、店長不在の今日こそ、我々がハウスルールの脆弱性を突く絶好の機会だ」
彼らは、カウンターの中に立つ柚月の姿を認めた。
その瞬間、あれだけ騒がしかった彼らの動きが、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まる。
「お、柚月ちゃんじゃねえか」
「あら、珍しいですわね」
権田さんと冴子さんの声は、いつもよりほんの少しだけ、戸惑いを帯びていた。
だが、柚月はそんな彼らの様子など意に介さず、完璧な能面のような無表情で、小さく頭を下げた。
「父が、いつもお世話になっております」
その一言で、彼らの戸惑いは消え去ったらしい。
「おう!」「ええ」と短く返すと、彼らはまるで何事もなかったかのように、店の奥のテーブルを陣取り、すぐにいつもの狂気の宴(ボードゲーム)の準備を始めた。
よかった。今日は、このまま静かに……なんてことは全くなく、むしろ店長がいない分、タガが外れたように騒がしい。
権田さんの雄叫び、冴子さんの高笑い、影山さんの早口な分析。
いつも通りの、『チェックメト』の日常がそこにあった。
そう、いつも通りだったのだ。
俺の、すぐ隣に立つ、この静かな嵐の目を除いては。
店内は、すぐにいつもの戦場と化した。
この日の演目は、ダイスを振ってモンスターを育てる、比較的シンプルなルールのゲームだったが、もちろん、彼らの手にかかればただでは済まない。
「うおおおお! 見ろ、俺のモンスターが最終進化したぞ! 無敵だ!」
権田さんが、まるで自分が進化したかのように、椅子から立ち上がって雄叫びを上げる。
「あらあら、見た目ばかり立派になさって。わたくしのモンスターの特殊能力の前では、ただの的ですわよ?」
冴子さんが、優雅にカードを掲げて高笑いする。
「フン、二人とも愚かだな。このゲームの本質はリソース効率だ。僕の計算によれば、勝利に最も近いのは……」
影山さんの早口な分析が、いつものように誰にも聞かれずに空を切る。
カオスだ。いつも通りの、最高にやかましくて、最高にくだらないカオスがそこにあった。
だが、俺のすぐ隣だけは、まるで別世界だった。
そこは、全ての熱狂から切り離された、絶対零度の空間。
神楽坂柚月は、その狂宴を、美術館の彫刻でも眺めるかのように、無感動な瞳で見つめていた。
そして、彼女は、俺にだけ聞こえる声で、静かに、そして的確に、その刃のような言葉を放ち始めた。
「……信じられません」
「へ?」
俺は、突然話しかけられて、素っ頓狂な声を上げた。
「いい大人たちが、ただのサイコロの目に一喜一憂して……。なぜ、あんなに大声を出せるんでしょう。時間の無駄、そのものですね」
その声には、何の感情も乗っていなかった。ただ、純粋な事実として、彼女はそう断じたのだ。
(い、いや、あれは一応、ゲームの盛り上がりというか……)
俺は心の中で反論するが、口には出せない。
権田さんが、またも「パワー!」と叫びながら、巨大なフィギュアを盤上に叩きつけた。
柚月は、それを見て、小さく息を吐く。
「……あの筋肉の方、さっきから叫んでいるだけですね。語彙力は、小学生以下でしょうか」
(権田さんなりに、喜びを爆発させてるだけだよ!)
俺は、グラスを拭く手に、思わず力が入った。
今度は、冴子さんが、巧みな交渉術(という名の恫喝)で、影山さんから有利なトレードを勝ち取っていた。
柚月は、その光景を、冷ややかに見つめている。
「……あの女性、ずっと微笑んでいますけど、目が笑っていませんね。典型的に、信用できないタイプです」
(それは……否定できない、かも……!)
俺は、思わず心の中で同意してしまい、すぐに首を振った。違うだろ、相田潤! 仲間を売るな!
柚月の毒舌解説は、止まらなかった。
それは、的確で、冷静で、そして、あまりにも容赦がなかった。
俺は、彼女の言葉を聞かされるたびに、じわじわと、しかし確実に、ストレスを溜め込んでいった。
違うんだ。
あの人たちは、ただのバカで、脳筋で、腹黒いだけじゃない。
ゲームの時だけは、子供みたいに、ただ純粋に、全力で楽しんでいるだけなんだ。
俺が知っている、この店の、この人たちの「良さ」が、彼女の言葉によって、次々と切り捨てられていく。
俺は、いつの間にか、あの狂人たちのことを、「仲間」だと認識している自分に気づいた。
だから、腹が立ったのだ。
この、何も知らない、何も知ろうとしない少女に。
そして、ついに、俺の我慢の限界を試す、決定的な瞬間が訪れた。
その日の狂宴が最高潮に達したのは、権田さんのモンスターが、冴子さんの特殊能力によって、ただの可愛いマスコットにされてしまった時だった。
「うおおおおおお! 俺の最強モンスターが! なんてことしやがるんだテメェ!」
「あらあら、随分とかわいらしくなりましたこと。その丸いフォルム、今のあなたにそっくりですわよ?」
「んだとコラァ!」
権田さんが本気で椅子から立ち上がり、冴子さんに掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出す。冴子さんも、扇子を片手に優雅にそれを受け流している。いつもの乱闘寸前の光景だ。
俺は「はいはい、そこまで」と、慣れた手つきで仲裁に入ろうとした。
その時だった。
隣で、氷のように冷たい声が、決定的な一言を呟いた。
「……くだらない」
柚月の声だった。
彼女は、目の前の狂騒を、まるで道端のゴミでも見るかのような目で一瞥し、続けた。
「結局、こういうものは、人と人の関係を壊すだけじゃないですか」
その言葉が、俺の中で何かが切れるスイッチだった。
俺は、振り返り、柚月の顔を真正面から見据えた。そして、自分でも驚くほど、低く、そして怒りに満ちた声が出た。
「……君に、何が分かるんだよ」
「え……?」
柚月が、初めて少しだけ驚いたように目を見開く。
俺は、もう我慢できなかった。
「あの人たちは、いつだって本気なんだ! 本気でぶつかって、本気で悔しがって、本気で笑ってる! それがくだらない? 関係を壊すだけ? そんなわけないだろ! 君は、ただ見てるだけで、何も知ろうとしないくせに! あの人たちの楽しみを、勝手に決めつけるな!」
俺の怒声が、店内に響き渡った。
あれだけ騒がしかった常連たちが、ピタリと動きを止め、驚いたようにこちらを見ている。
俺に怒鳴られた柚月は、一瞬、傷ついたような、泣き出しそうな顔を見せた。彼女の冷たい仮面が、初めて、ほんの少しだけ剥がれ落ちたように見えた。
そして、その瞳に、じわりと涙が滲む。
「……あなたに……」
彼女の声は、震えていた。
「あなたに、私の何が分かるんですか……ッ!」
そう叫ぶと、柚月はつけていたエプロンを乱暴に脱ぎ捨て、カウンターから飛び出した。そして、店の奥のバックヤードへと、逃げるように走り去ってしまった。
ドン、とドアが閉まる音だけが、静まり返った店内に響き渡る。
俺は、ハッと我に返り、自分がしてしまったことの重大さに気づいた。だが、もう遅い。
店内は、一瞬にして、重く、気まずい空気に包まれていた。
常連たちは、ゲームの手を止め、ただ黙って、俺と、柚月が消えたドアを交互に見ている。
俺は、自分の感情をコントロールできなかった後悔と、それでも譲れなかった思いとの間で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
◇
柚月がバックヤードに走り去った後、店内には重い沈黙が支配していた。
あれだけ騒がしかった権田さんたちのテーブルも、今は水を打ったように静かだ。
俺は、自分のしでかしたことの大きさに、ただ立ち尽くしていた。
やがて、権田さんと冴子さんが、静かに席を立ち、俺の元へとやってきた。
もっと怒鳴られるかと思っていたが、権田さんの表情は、意外なほど穏やかだった。
「潤。お前が、俺たちのことを思って、あの子に怒ってくれたことには、感謝する」
「……え」
「だがな」
権田さんは、続ける。その目は、真剣だった。
「お前のやったことは、結局、ガキの癇癪と同じだ。事情も知らねえで、ただ感情をぶつけるだけじゃ、大人とは言えねえな」
「……っ」
厳しい、しかし、的確な言葉だった。俺は、何も言い返せない。
隣で、冴子さんが、悲しげに目を伏せた。
「本来であれば、当人以外から伝えるのは違う気もしますが…潤くん、あなたにも、お話しておかないといけませんわね。……柚月さんが、なぜ、あれほどまでにボードゲームを嫌うのか」
そして、二人は、静かに、全てを話してくれた。
数年前に亡くなった、柚月さんの母親のこと。
店長と、奥さんと、そして幼い柚月さんの三人で、いつも笑いながらボードゲームを囲んでいた、幸せな家族の記憶。
奥さんを亡くした店長が、悲しみのあまり心を閉ざし、そして、再び立ち上がるために、彼女との思い出が詰まったこのカフェを開いたこと。
しかし、その父の姿が、幼い柚月の目には、全く違うものに映ってしまったこと。
「お父さんは、お母さんとの思い出だったゲームに逃げて、私のことを見なくなった」
そう思い込んでしまった、父娘の、長くて悲しいすれ違いの物語を。
権田さんが、静かに言った。
「俺たちは、ただの客だ。あの子の心の、踏み込んじゃいけねえ領域まで、土足で上がる権利はねえ。越えちゃいけねえ一線があるのを分かってるからこそ、俺たちは、あの子の前では『いつも通り』でいるしか、できなかったんだよ」
冴子さんが、俺の目をまっすぐに見つめる。
「でも、潤くん、あなたは違う。私たちは客だけど、あなたはここのスタッフ。私たちが越えられない線の、もう内側にいる存在ですわ」
「……お前だからこそ、できることがあるんじゃねえか?」
託された想い。
俺は、ただ頷くことしかできなかった。
◇
想いを託された俺は、バックヤードへ向かった。ドアの前で深呼吸をし、静かに中に入る。
部屋の隅で、柚月は膝を抱えて俯いていた。俺は、その前にそっとしゃがみ込む。
「……柚月さん。さっきは、ごめん」
俺は、まっすぐに頭を下げた。
「何も知らないくせに、大声出して、君のこと傷つけた。本当に、ごめん」
柚月は、顔を上げない。ただ、その肩が小さく震えているだけだった。
俺は、続けた。
「でも、俺、やっぱり君の言うことは認められない。この店は、ただ時間を浪費するだけの場所じゃない。あの人たちは、ただ騒いでるだけの、変な人たちじゃない。……それを、知ってほしいんだ」
俺は、部屋の棚から、あの箱を取り出した。ボロボロで、角は擦り切れ、色褪せている。
そこに書かれていたのは、『人生ゲーム』という、あまりにも有名なタイトルだった。
俺は、その箱を、彼女の前に、そっと置いた。
「……一回だけ。俺たちと一緒にやってみないか」
柚月が、ゆっくりと顔を上げた。その目は、まだ少し赤い。
彼女は、目の前の箱を見て、ハッと息を呑んだ。それは驚きと、そして深い困惑の色だった。
「……どうして、これを……?」
か細い声だった。
店には、何百というゲームがある。その中から、なぜ、よりにもよって、これを選んだのか。
俺は、静かに答えた。
「君が本当に嫌いなのは、ボードゲームじゃない。……ボードゲームをやってる時の、『寂しさ』なんだろ。だったら、もう寂しくないって証明しなきゃ始まらないだろ」
俺が差し出した手を、柚月は、しばらく黙って見つめていた。そして、ほんの少しだけ、震える指で、その箱に触れた。
◇
……店内に戻ると、権田さんたちが、テーブルの上を綺麗に片付けて待っていた。
テーブルを囲む、俺、柚月、そして権田さんたち。
そこには狂気はなく、ただ静かに、ルーレットが回る「チチチ…」という音だけが響いていた。
最初にルーレットを回したのは、柚月だった。出た目は「6」。
「お、いいスタートじゃねえか」
権田さんが、ぶっきらぼうに、しかしどこか嬉しそうに言って、青い車をスタートマスに進める。
ゲームは、静かに、そして温かく進んでいった。
俺の車が「結婚」のマスに止まる。
「潤! やるじゃねえか! ほらよ、お祝いだ!」
権田さんが、なぜか自分のことのように喜んで、ピンクのピンを勢いよく俺の車に突き刺した。
柚月の車が「花畑でお弁当」というイベントマスに止まる。
「まあ、素敵なイベントですわね。きっと、ご家族でピクニックに行かれた思い出がおありなのでしょう」
冴子さんが、穏やかな微笑みで、柚月に語りかける。その言葉に、柚月の肩が、ほんの少しだけ震えた。
「フン、僕の計算によれば、次の給料日マスに最初に到達するのは……」
影山さんの分析も、今日だけは、どこか楽しげに聞こえた。
それは、かつて柚月が体験した、温かい家族団らんの記憶と、確かに重なっていた。
盤上の小さな車は、まるで家族のようだった。
その光景に、柚月の心の氷が、少しずつ溶けていくのが、隣に座る俺にも分かった。
ゲームが終わり、箱を片付ける時だった。柚月が、箱の裏に書かれた、古い走り書きを見つける。それは、今の店長の字とは違う、少しだけ拙い、昔の彼の文字だった。
『いつかまた、柚月と、そして天国の君と、三人でこの車を走らせる日を夢見て』
父は、母を、そして自分を、一度も忘れてなどいなかった。
それどころか、ずっと、ずっと、また三人で笑い合える日を、夢見ていたのだ。
その事実に、柚月の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
◇
……そして、数日後。
高熱から無事復帰した店長が、カウンターに立っていた。
そして、その隣には、当然のようにエプロンをつけた柚月の姿があった。
「潤くん」
柚月が、少しだけ頬を染めながら、俺を呼んだ。
「言っておきますけど、別にボードゲームが好きになったわけじゃありませんから。父の健康管理と、お店の風紀を正すため、です」
彼女の口調はまだ少しトゲがあるが、俺を呼ぶその呼び方は、確かに変わっていた。
言い終わるやいなや、柚月は騒がしい常連たちに向き直る。
「権田さん! 声が大きすぎます! 他のお客様の迷惑です!」
「冴子さんも!必要以上に人を煽るのはやめてください!」
その注意する声は、以前のような冷たい侮蔑ではなく、どこか呆れつつも、放っておけない、というような柔らかさを帯びていた。
その光景を微笑ましげに見ていた店長が、すっと俺の隣に来て、深く、深く頭を下げた。
「潤くん。私が休んでる間に、迷惑を掛けてしまったようだね」
「いえ…!そんなこと…!」
「君には、感謝しかない。私の……私たちの大切な場所を守ってくれて、本当に、ありがとう」
店長の真摯な感謝に俺が恐縮していると、向こうのテーブルから、また権田さんの雄叫びが響き渡った。
ついに、柚月の我慢が限界を超える。
「もうっ、聞いてますか!……潤くん、ちょっと手伝ってよ!」
その助けを求める声に、俺は笑って応えた。
「はいはい、ただいま!」
いつも通りの、しかし、昨日までとは確実に違う『チェックメイト』の日常が、また始まっていく。
盤上には、新しくて、少しだけ手強いけれど、なんだかとても、愛おしいコマが、一つ加わったのだ。
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