8.おばけキャッチは総合格闘技 その3

 練習ラウンドという名の号砲一発で、テーブルは完全に戦場と化した。


 女子大生が「じ、じゃあ、本番、いきますね……」と、震える指でカードをめくり始める。もう彼女の顔に笑顔はない。あるのは、猛獣の檻に放り込まれた生贄のような、純粋な恐怖だけだ。


 一枚目のカードが、めくられる。

 正解は、『灰色のネズミ』。

 俺の脳が答えを認識した瞬間、轟音と衝撃が走った。


 ゴッ!!!


「ぐわっ!?」


 俺は、自分の手が凄まじい風圧で弾き飛ばされるのを感じた。

 見ると、権田さんの剛腕が、テーブルに突き刺さる寸前で静止し、その指は的確に『灰色のネズミ』を鷲掴みにしていた。


「遅えんだよォ!」


 権田さんが、勝利の雄叫びを上げる。


「俺の『マッスル・リアクション』の前では、お前らの動きなんざ、カタツムリが散歩してるのと同じだぜ!」


 風圧で手が弾かれるってなんだよ! 格闘漫画か!

 俺が自分の手に異常がないか確認していると、店長の神楽坂がカウンターの向こうで恍惚の表情を浮かべていた。


「素晴らしい……! 今の権田さんの上腕三頭筋から放たれた初速、時速120kmを記録! まさにテーブル上のソニックブーム! 半径15cm以内に手を置いていたプレイヤーは、その衝撃波で行動不能に陥りましたね!」


 あんたは嬉しそうに実況するな! そして何だソニックブームって!


 二枚目のカード。

 正解は、『緑のボトル』。


 今度は、権田さんが動くより速く、影山さんの手が伸びた。


「残念だったな、権田くん」


 メガネの策士・影山さんが、コマを片手にニヤリと笑う。


「君の動きは直線的で読みやすい。僕の『確率予測(プロバビリティ・フォアキャスト)』によれば、このカードがめくられる確率は82.4%。君が腕を振りかぶるより前に、僕は動き始めているのさ」


「なにぃ!?」


「ちなみに、次に『赤いイス』が来る確率は……」


 ブツブツと、彼は狂った預言者のように未来の確率を呟き始める。その目は、もはや焦点が合っていない。怖い。ガチで怖い。


 そして、三枚目。

 カードがめくられる、まさにそのコンマ数秒前だった。

 冴子さんが、ふわりと、隣に座る影山さんに顔を寄せる。


「あら、影山さん。あなたの背後の窓に……黒い人影のようなものが……」


「なっ!?」


 影山さんが、ギョッとして背後を振り返る。

 その0.5秒の隙。

 冴子さんの細く白い指が、テーブルの中央を舞い、完璧な優雅さで正解のコマ『青い本』を確保していた。


「ふふ、ごめんなさい。気のせいでしたわ」


 悪魔が、そこにいた。

 相手の集中力を、根こそぎ奪い去る悪魔が。

 店長が、またしても感嘆の声を上げる。


「おおっと! 冴子さんの心理的DDoS攻撃! ターゲットの思考プロセスに意図的なラグを発生させ、見事なアドバンテージを確保! これはもはやアートの領域です! 相手の脳に直接ハッキングを仕掛けるようなもの!」


 DDoS攻撃!? 俺たちは一体、何をやっているんだ!?

 俺は、もはやゲームに参加することなど、とっくの昔に諦めていた。俺のミッションは、勝利ではない。『生存』だ。この狂気の宴が終わるまで、五体満足で、特に指の関節を全て無傷のまま、生き残ることだ。


「危ねぇ!」


 俺は、権田さんの薙ぎ払うような腕の動きを、上体を反らして避ける。


「うわっ!」


 影山さんの予測に基づいたフライング気味の動きに、ビクッとして椅子から落ちそうになる。

 もはや、これは椅子に座ってやるゲームではなかった。


 権田さんは腰を浮かせ、いつでも飛びかかれるようにクラウチングスタートの姿勢を取っている。

 影山さんは、山札の角度をミリ単位で分析し、次のカードの滑り方まで計算している。

 冴子さんは、テーブルの下で足を組み替え、絶妙なタイミングで隣のプレイヤーの貧乏ゆすりを誘発させ、集中力を削いでいた。


 女子大生は、もはやテーブルに近づくこともできず、部屋の隅で膝を抱え、小さく「おうちに帰りたい……」と呟いている。可哀想に。俺も帰りたい。


 狂宴は、さらにエスカレートしていく。


「ぬんッ!」


 権田さんがコマを掴み損ね、その拳がテーブルに叩きつけられる。

 メシャア!という嫌な音と共に、俺が昼間に拭いたばかりのテーブルに、くっきりとした拳の跡が刻まれた。


「うふふ」


 冴子さんが、コマを取った勢いで、持っていたグラスの水を「うっかり」こぼす。その水が、権田さんのズボンを濡らし、彼の集中力を一瞬乱した。絶対にわざとだ。


 俺は、もうツッコむ気力もなかった。

 目の前で繰り広げられているのは、ゲームではない。

 戦争だ。

 文明の全てをかなぐり捨てた、本能と本能がぶつかり合う、原始の戦いだ。


 テーブルは、もはやゲームボードではない。

 無数の傷が刻まれたクレーターであり、人間の狂気を記した石版であり、数多の指関節が砕け散った戦場跡だった。


 そして、全員のポイントが拮抗し、最後の1枚のカードで全てが決まるという、運命の時が訪れようとしていた。

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