第3話
「お帰りなさい、徐庶殿。
「うん。傷の経過は大丈夫みたいだ」
「よかった。今、食事を温めてきたんです。徐庶殿も食べられますか? 黄巌殿の部屋に運ぼうかと思っていたのですが」
「あ……はい。ありがとうございます。自分で持って来ます」
「いえ構いませんよ。ついでなので私が行ってきます」
司馬孚が立ち上がって止める間もなく出て行ってしまった。
徐庶と司馬孚は
想いはあれほど強く感じるのに、何故
『片想いなんだ』
彼らしくない。
確かに人の心はままならないものだけど。
(その人は家族や仲間と無事でいると、信じ切っていたな)
不思議だ。
【
いくらしっかりした女性でも心配でないということはないと思う。
同じようなことを
あれは確か
結局は、司馬懿がそれほど陸佳珠の強さを信頼しているのだろうとか、これからは守ってやるという自信があるのだろうと思って納得したのだが、
「徐庶さん?」
呼ばれて顔を上げた。
陸議が寝台からこちらを見ている。
「黄巌さんは……大丈夫でしたか?」
「?」
「何か、心配そうな顔をなさっていましたが……」
徐庶が笑った。
「?」
「いや……風雅にも同じことを言われたから」
こんな自分なのに、周囲には気に掛けてくれる人がたくさんいる。
せめて彼らに不安を感じさせないようにくらいはさせなければ。
「ごめん。別に黄巌は大丈夫なんだ。傷は深いけどそれ以外は元気だから、早く動けるようになりたいって退屈してるくらいだよ」
それを聞いて、陸議が安心したような顔になった。
「大したことを考えてたわけじゃないんだ。俺は普段から暗い表情だから怪しまれたりするんだよね」
「そんなことは……」
慌てて陸議が首を振ったので、徐庶は立ち上がり、陸議の寝台の側の椅子に座った。
「
勿論、だからこそ心配しなければならない人もたくさんいるんだけど……」
確かにそれにしては、落ち着いていた。
俺は利己的な人間なんだと言っていたことを思い出す。
徐庶には黄巌が利己的な人間などとはとても思えないが、あれは一体どういう意味だったんだろう。
(何か、彼にはあるんだ)
「黄巌さんの故郷は
「うん。以前連れて行ってもらった。もっと北だけど夏だったからとても緑が綺麗で涼しくていいところだった。村の側に渓流があったから、釣りをするとこんな大きな魚が捕れた」
くすくす、と陸議が笑っている。
「徐庶さんは釣りが好きなんですか?」
前もそういう話を聞いたと思って、尋ねてみた。
「好きっていうか……。……でもそうだな気付いたらよくしてるかもなぁ」
最初否定しようとしたようだが思い起こして、徐庶は自分の頬の辺りを掻いた。
「私は釣りはしたことがなくて……どういうところがお好きで楽しいのでしょう? やはり釣れたとき嬉しいのでしょうか?」
涼州の庵に行った時も、料理をしたことがないと言っていたからだ。
普通の家庭でも恐らく親の料理の支度くらい手伝うだろうから、彼は誰か作ってくれる人がいたということになる。
親はいないが、養父がいると言っていた。
その養父は戦で亡くなったが「立派だった」と言っていたので、もしかしたら
というのも、そうでなければ恐らく、親に「家の手伝いをしなさい」と言われなければ、親の手伝いをしないような青年に、彼は見えなかったからである。
明確に下働きの人間に家事が任されている家だ。
そういう場合は確かに家事に接する機会も少ないはずだった。
釣りは学士でも好む人間はいるので、特別高尚な趣味というわけではないが、興味深そうにそんな風に言った陸議に、徐庶は笑う。
「食べるものが無い時は、確かに釣れた時が一番嬉しかったけど。
俺が釣りをし出したのは【
「あそこに行った時、俺はお尋ね者だったので、あまり人付き合いをしなかった。
水鏡先生は俺のような人間も屋敷に置いてくれたけど、そこに通う人の中には立派な家柄の人も多かったからね。当然だと思う。
それで一緒に講堂で話は聞きにくかったから、講義が始まると時間があったから、屋敷の側の池や川で釣りをしてた。時間を潰していたんだよ。
そこでは食事の材料とかはあったから、魚を調達しなければならないわけじゃなかった。
釣ったら魚は放してたよ。そしたらまた釣れるからね」
司馬孚が声を出して笑っている。
「分かります。私も釣りが好きです。釣るのが目的じゃなくて、なんかいいんですよね。釣り糸を垂らしながらボーッとしたり、友人と取り留めも無く話したりして、話が切れても何となく水面を見ていればいいから気まずくならず。無心になれます」
「分かります。いっぱい考える時もあれば、何にも考えない日もある」
「私も怪我が治ったら釣りをしてみたいです」
司馬孚が笑っている。
「釣りに流派や正しいやり方などはありませんから。
怪我が治ったら私が釣りを教えて差し上げます」
陸議は嬉しそうに頷いた。
「徐庶さん、食事をどうぞ」
「ありがとうございます」
「
陸議は片腕は動いたが、いずれにせよ不自由なので司馬孚が食事を食べさせてやっていた。この二人は本当に側で見てると兄弟のように仲が良くて微笑ましかった。
……
それでも助命されて共に来いと言われた時に、以前とは違う戸惑いを徐庶は確かに感じた。
決して魏への忠誠心や愛着でないことだけは確かだと言えるのだが、以前はもっと劉備の許へ行きたかったという想いが強かったのに、
共に来ていいと声を掛けられたとき喜びより戸惑いがあった。
(完全に俺は行くべき道を見失った)
かつて涼州に留まり
今回魏軍と涼州騎馬隊の徹底的な交戦というのは避けられたが、涼州騎馬隊が南下し
蜀に行った涼州騎馬隊はいずれかならず北伐に出て来るはずだ。
その時、魏軍が防衛戦を真正直に行うとは限らない。
……守るもののいなくなった北を今度こそ自分達の手で焼き、南の涼州騎馬隊を牽制するかもしれないのだ。
(剣を持つから、争いの最中に呼ばれるのかもな)
陸議は傷が塞がっても完全に隻腕になるかもしれないのだ。
哀れむべきなのだろうが、
隻腕になれば、戦場で剣を振るうような役も免除されるかもしれない。
このままでは陸議や
(利己的な人間というのは俺のような者のことだよ、黄巌)
どこにいても、ここではないどこかに行きたいと願う。
だがそのどこかが分からないのだ。
(【
他のどこかに行きたいなんて思わなかったのに。
ふとその時徐庶は、別に
大した理由が無かったことは覚えているのだが、ある日突然旅に出た。
(どうしてだったか……)
思い出せないことに若干自分でも呆れながらも、何となくその理由を思い出したくて、徐庶は考え込んでいた。
【終】
花天月地【第78話 ここではないどこか】 七海ポルカ @reeeeeen13
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます