花天月地【第78話 ここではないどこか】
七海ポルカ
第1話
目の前を白い雪が舞い落ちていった。
「また降ってきましたね……」
このあたりの雪も深くなって来た。
後ろから付いて来ている
彼は今回の涼州遠征の総大将である
初めての従軍となるので重い任は負っていないが、怪我などなく帰してやらなければならない。
「人の気配がまるでしない。
そろそろ日も傾いてきます。司馬孚殿、この辺りで戻りましょう」
「はい」
足下に気をつけながらも、司馬孚は頷いた。
「涼州は本当に森が深く、方向感覚を失いますね……私も山に入った時からどうにか、方向だけは捉えておこうと気には掛けましたが……、北はあっちだとは思うけど、自信がありません」
「私も北は向こうだと思っています」
「涼州騎馬隊は、この山を縦横無尽に駆け巡っても尚、方向を見失うようなことはないと聞きました。何故そんなことが可能なのでしょう?」
「涼州の友人はただひたすらの慣れだ、とは言っていましたが。
自分のずっと住んでる家などは、目を瞑っていようと何となく歩き回れるものです。
他人にそれは無理ですが、その家の者なら出来る。
言葉で言うとそういうことだと思いますが。いずれにせよ彼らにとってはこの深い山も自分の庭のようなものなのでしょう。
我々には特徴が全くないように見えても、木の形や大地の落差などの組み合わせから、非常に細かい正確な地理を常に把握しているようでした」
「そうなのですか。すごいなぁ……それは確かに涼州では涼州騎馬隊が無類の強さを発揮するわけだ」
しきりに
徐庶が今日、山の方に出て来たのは、
黄巌から頼まれたわけではない。
彼からは北の方で遭遇したことだけを聞いた。
ただ【
兄の方は
積雪もあったため、多分遺体も隠れてしまったのだろう。
【烏桓六道】の里は大陸北東にあるという。
彼らは復讐のためだけにこの大陸北西の涼州にやって来た。
そしてこの地で果て、やがてこの地の土に埋もれていく……。
「今頃、涼州騎馬隊は【
「涼州騎馬隊の南下の報せは送りましたが、彼らは早い……
とすると、我々の報せは間に合わない可能性が高い」
涼州騎馬隊が本陣に現れた時、迎撃出来たと怒りを露わにした
普通はそう考えるだろうなと徐庶でも分かる。
(軍師は、敵の姿を明確に捉えていないと機会を逃す)
郭嘉が、賈詡と司馬懿は敵に回すなと忠告を与えてきたが、確かに今回のことで彼らは大いに自分に不信感を抱いただろう。
不信感を抱き、同じ戦場に徐庶がいると目障りになるからと帰還命令を出してくれればいいのだが、問題は処罰がどのようなことになるかだ。
徐庶がやったことは、軍規違反に抵触する。
涼州騎馬隊殲滅が今回の涼州遠征の一つの目的であると司馬懿や賈詡が定めれば、それを独断で邪魔した徐庶の軍規違反は重い。
郭嘉、
徐庶に残された道は、自分を付け狙っていた敵の姿を知りたがっていた郭嘉に黄巌から聞いた話をして、真実を探り出してくれれば長安に帰って望む任務に戻れるように計らう、と言っていた郭嘉に期待することだけだったが、自らの手で【烏桓】を仕留めた以上すでに郭嘉は【
今更彼らの正体など、郭嘉の心を引き寄せるものにはならないのかもしれない。
だが郭嘉があそこで死んでいたら、そもそも自分の命運は賈詡と司馬懿に託されて、あいつは信用ならないと思われれば、先はなかった。
自分の人生が良い方向に向かっているのか、
悪い方向に向かっているのか、全く分からない。
ただ一つ見失っていないことは、極限の状態においても、やはり徐庶は
彼だけは魏軍の陣から無事に送り出して、涼州の人々の許に帰してやらなければならなかった。
その時ふと、先を見た。
雪が一カ所だけ積もってない場所があり、徐庶が気付いた。
「人が……」
徐庶が馬から下りて行く。
少しだけ雪が積もっているが、それを避けると女であることが分かった。
涼州の民ではなく戦装束だ。
涼州騎馬隊とも明らかに異なる。
それに女で戦装束というのも、涼州では非常に珍しい。
彼らは一丸となって涼州を守ろうとしているが、涼州では戦場に立つのは男であり、女子供は戦に関わらせないというのは共通で持っている意識だと黄巌からも聞いた。
恐らく彼女が、
「
簡単になりますが埋めてあげたい」
「も、勿論です。お手伝いします」
鞘に入った剣を使って側の土を掘り始めた徐庶に、慌てて司馬孚が加勢した。
「すみません。貴方にこんなことをさせて」
「とんでもありません。私の知り合いや友人が同じ状況になったら、縁の無い方でも徐庶殿のように哀れんで埋葬してくれる方がいたら嬉しいですから」
同じように腰の剣で掘り始めた司馬孚を、
彼は司馬懿の実の弟で、同じ家で育って来たのに、何故こんなに考え方が違うのだろう。
不思議だった。
確か陸議が、司馬孚は学ぶ事が好きで、役所勤めをしながら学者のような生活がしたいと望んでいたらしい、というようなことを言っていた。
「陸議殿が貴方のことを話していました。
私塾で、国に関わらず友人が多く、例え別の国に帰ってもまた機会があれば集まって話す仲間がいると。なんて言ってたかな……確か……『いつか天下が太平になったら』……」
司馬孚が笑って頷いている。
「『いつか天下が太平になったら、また四海の士を批評しよう』です」
「そうだ。いい言葉だね」
「ありがとうございます。陸議様もそう言って下さって。
父や兄はいつまでそんなことをして遊んでいるんだ、って叱られるんですが」
司馬家は魏の名門で、確か司馬懿の父である
司馬懿は少しその中では異質だと聞いた。
徐庶がそんな風に考えていると、
「ああでも
あの方は昔から、私のそんな暢気な日常でも「やめろ」と叱ったり司馬家の恥だとか言ったりしたことないんです。
そんなに私に期待してなかったということもあるでしょうが、基本的にあまり司馬家の隆盛などには興味がないらしく、したがって司馬家にあまり貢献しない私でも、他の兄のように邪険にしたりしなかった。
勿論喜んでいるわけではないでしょうが『お前にはそういう生き方が合ってる』と肯定して、ほっといてくれました」
「へえ……」
意外だ。
甘い考えは持ってない人物だと思っていたが、司馬孚のそういう生き方を黙認し、肯定していたとは。
陸議が何故司馬懿の側にいるのか徐庶には全く分からなかったが、自分の知らないそういう面が、陸議には見えているのかもしれない。
「確かに国にひたむきに貢献することは尊いですが。自分以外の国の人とも分け隔てなく知識を語り合って交友を深められることは、俺は素晴らしいことだと思いますよ」
「あ、ありがとうございます」
確かに徐庶は
涼州の人々に対して少し肩入れするような所があるのも、
一時のことでも、徐庶は涼州騎馬隊の同意を取り付け魏軍と共闘させた。
これはすごいことだと司馬孚は思うのだ。
戦わないで済むなら一番それがいいと思う。
蜀にも呉にも、他の土地にも、司馬孚は友人がいた。
今は違う場所に住んでいるが、涼州の出身者もいた。
戦わないで自分達の国境を維持出来るならば、今の三国の状況でもいいのではないかと彼は思うのだ。
話を聞くと、
長江を明け渡さないための
謎めくのは
今まで彼は流浪の軍だったから行方が定まらなかったが、ついに
劉備も、聞いた限り侵略に心を注ぐような人間だとは思えないのだが、しかし劉備は
天子を曹魏が保有し、政を取り仕切っている状況を彼がどう捉えるかはまだ分からなかった。
しかし自分の国を持ち、これで国を栄えさせればそれでいいではないかと思う人間なら、そこまでこれからは劉備は激しい戦をしないのではないか……そう考えもする。
これは
『己の国を持ち、内政に努め、曹魏に天子を預ければ、時が経てば経つほど恐らく納得しない者が出て来る。
そのあたりで保身に入るのはかつての
劉備は袁紹の志の低さを嫌って離れた。
その自覚があれば恐らく劉備は頃合いを見て、また出て来るはずだ』
『しかしそれは私欲では? 国を興し、その王になれば、その国の民を守る使命が王にはあります。漢王室の権威を守るために蜀の安寧などどうでもいいと考えるのならば、それは国を持つ王の正しい考え方ではないと思います』
『劉備はそのあたりが今後どう出て来るかだ。
若い頃は袁紹に楯突いても、こうして一国の王となって位を極めれば、魏や呉などと戦をするのは愚かだと考える可能性が無いわけではない。
しかし劉備の許には、漢王室復興の大義を同じくして集った者達も多い。
そういう者は、劉備が保身に走るようになれば反意を抱く可能性もある。
逆らった時そいつらを劉備がどう処理するかでも、あの男の本質が見えてくるはずだ』
『つまり、兄上はまだ劉備という男を全てにおいて判断なさったわけではないのですね』
『あいつが面白くなるのは、むしろこれからだ』
劉備は蜀を得て、これからは内政に徹する気がしていた
これからは司馬懿の側にいるのだから、あまり確信を得るまではこういった考えを口には出さない方がいいだろう。自分の考えが浅いと思われれば、司馬懿の益にはならない。
土は連日の雨が原因でまだ柔らかかった。
一時間ほど掘ると、十分な深さになる。
「もっと雪が降り積もって時が経てば、土も硬くなってこんなに掘れなかったと思います」
「女性のようですね。この辺りの人というよりは旅装束のようにも見えますが……」
「胸に刃が刺さっています。襲われたのでしょう」
徐庶がそう言うと、司馬孚は表情を曇らせた。
「……女性を襲うとは、酷いことを……そうだ、馬に防寒用の布を付けてきましたから、それで包んであげましょう」
手首を見ると翡翠のような腕輪があった。これなら形見になりそうだ。
それを抜いて懐に収めると、胸に刺さった短剣をゆっくりと抜く。
傷跡を隠すように女の手を胸に重ねてやる。
短剣の柄に見覚えのある模様があった。
……やはり彼女だ。
「徐庶殿」
「ありがとう」
徐庶は慎重に彼女を抱えるようにして大きな布で体を包み込むと、その体を持ち上げて穴の側に下ろす。
身軽に穴の中に下りると「私が」と司馬孚が女の体を持ち上げ、徐庶が受け止められるように渡した。
受け取った徐庶が穴に彼女を横たえる。
徐庶は土壁に足を掛けて、自分で出て来た。
「日が落ちて来た。急ぎましょう」
徐庶が言うと司馬孚が頷き、二人で土を急いで穴に戻していく。
彼が言った「共に生きたい人がいる」というのは、彼女のことだったのだろうか?
しかし
だが彼女と一度生きたいと真摯に黄巌は願い、そのつもりで家庭を持ちたいからと
馬超は涼州を離れ、成都に向かった。
黄巌は
もう救えないと思ったことで、彼女と刃を交わすことになったとしたら。
このあと黄巌はまたあの明るい男のままでいられるのだろうか?
完全に土で埋め、人や獣に掘り起こされないように踏み固めた。
あとは雪が降り積もり、春には何もかも消え去っているといい。
ただ
最後にそこで二人、手を合わせる。
「行きましょうか。
司馬孚は首を振った。
「とんでもありません。徐庶殿は優しい方ですね」
気遣う、優しい声で司馬孚が言ったが、徐庶は微かに笑んだだけだった。
多分自分がこういうことをするのは、純粋な優しさなどではないのだ。
かつては、こういう路傍の骸を自分の手で生み出していた。
それは間違っていたと思うから、こうして同じような生き倒れた骸があると、罪滅ぼしのように埋めてみたりするが、それは全く本当は罪滅ぼしにもなっていない。
空には星が見えていた。
しかし山を下りた頃、舞い散っていた雪の粒が大きくなり始めて、本格的に降り始めた。
「雪は、晴れているのに降るんだなあ」
司馬孚が隣を走らせながら、空を見上げた。
息が白い。
「徐庶殿、あそこに灯りがあるということは、
遠くに見える山だが、灯りは目立った。
「はい。築城に入った魏軍の灯りです」
「本当に降って来た。今頃
風邪を引かないか心配です。
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