湿る家

名々井コウ

湿る家

 白檀の匂いが、雨上がりの土間に残っていた。九条家の玄関は、濡れた傘のしずくと、古い木の呼吸を拾って重く鳴る。

 九条豊治は靴を脱ぎ、耳鳴りに指を当てた。じい、と細い音が骨の内側で伸びる。梅雨の、こういう日だけはひどい。白檀が、いつもより甘ったるく鼻に絡む。


「お父さん、戻った?」


 襖の向こうから、三女・葉月の声。寝不足の子どものように軽い咳。


「戻った。――美月は」

「静か。静かなんだけど、静かすぎて、怖い」


 座敷の障子を開けると、そこはまるで別の家だった。湿りと寒さの、別の家。畳の目が黒ずみ、床の間の掛け軸がわずかに揺れている。窓は閉めてある。風は入らない。けれど、薄い布が呼吸するように引き寄せられ、吐き出される。

 美月は、座布団の上に膝を揃え、手を膝に置いていた。まっすぐ座って、微動だにしない。目は伏せられ、眠っているのかと思うほど穏やかだ。だが、眉の形が違った。長い睫毛の陰から、ときおりゆっくり視線が上へ上がる。そのたびに豊治の耳鳴りが、ひと目盛り強くなる。


「――お帰りなさいませ、旦那さま」


 低く、柔らかい声。娘の声帯が、知らない誰かの重さを覚えている。


 葉月が身をすくめる。


「さっきから、それ。さっきから“旦那さま”って」

「美月、ふざけるな」

「ふざけてはおりませんよ。……私は、夏希と申します」


 豊治は座布団に手をついた。畳の湿りが手のひらに移る。白檀の匂いが濃くなる。


「夏希?」

「はい。かつて、このお屋敷でお世話になっておりました者です。旦那さまの、お祖父さま――菊太郎さまのお仕えを。……このたびは、勝手ながら“座”をお借りしております」


 葉月が顔を上げる。


「何それ、降霊? 憑依? やめて、美月姉さん。冗談だって言ってよ」


 美月――いや“夏希”は、静かに首を振った。


「冗談で座を借りたりはいたしません。お許しあれ。……今、お屋敷の周りに、よくないものが集まっております。わたしは、その邪気に押し出されて、たまたま座の軽いお嬢さまにだけのこと。恨みごとを申しに来たのではございません」

「じゃあ、何をしに」

「お願いに参りました。供養と、払除を。――私のことも、そして、この家の“湿り”のことも」


 襖が音を立て、長女の五月が入ってくる。黒いタイトスカート、白いブラウス。いつものように端正で、いつもより血の気がない。


「……始まってるの?」

「始まってる。美月姉さんが、姉さんじゃない」


 葉月が嗄れた声で言う。

 五月の視線が美月の姿に落ち、呼吸が詰まった。


「誰」

「夏希と申します」

「――ふざけないで。そんな古臭い芝居みたいな」


 そのとき、廊下の向こうから水の音がした。ぽたり、ぽたり、と間遠く落ちる。雨はやんでいる。屋根も樋も手入れは怠っていない。廊下の板は乾きにくく、ところどころ灰色を溜めるが、水の音はそこからではない。

 葉月が立ち上がる。


「井戸だ。井戸の口が、――」

「行くな!」


 豊治が声を荒げた。


「今、外の水に触るな」


 夏希が顔を上げる。


「旦那さま。お手配くださいませ。言周げんしゅうさまを」

「げんしゅう?」

「比叡の山に籠もられたことのある御方。あの方なら、ここに集ったものを“片づけて”くださいます。お坊さまや神主さまでも、今のこれは難しゅうございます。……それと」


 夏希は、少しだけ美月の唇を噛んだ。血がにじむほどではない。


「私のことも。白檀の火の匂いが、まだこの家に残っております。あれを、洗ってくださいませ」


 白檀――豊治の耳鳴りが、さらに細く尖った。


「夏希。お前は……恨んでいないのか」

「恨みは、もう乾きました。溶けて、匂いだけが残っております。私の願いは、ただ静かに、正しく忘れていただきたい。それだけ」


 その日のうちに、豊治は言周に連絡をつけた。誤魔化しのきかない声。こちらが名乗る前に住所を言い当て、「白檀の底が腐っている」と鼻で笑う。


「今から行くわ。三刻もあれば着く」


 日が山に沈み切る前、黒い作務衣に身を包んだ女が門をくぐった。髪は短く束ね、瞳は乾いている。首から細い数珠、腰に麻の袋。


「言周です。さ、通して。湿気が重いのよ。あと、線香と水を用意しといて。白檀は要らない、むしろ捨てる」


 座敷に入ると、言周は一礼もそこそこに、美月の正面へ座った。


「名は」

「夏希と申します」

「そう。座は貸し借り、短くやるわ。――で、九条さん」

「は、はい」

「あなたの長女、五月さん。呪ってるわよ、旦那さんを」


 五月の喉の奥が小さく鳴る。


「……な、何を」

「何を、じゃない。あなた、藁人形は打ってないけど、身代わりのふみを書いて燃やしてる。ネットで覚えた簡易式、ね。火を使った? 白檀と一緒に」


 五月の顔から色が引いた。


「――そんなこと」

「否認してもいいけど、結果は出てる。旦那さん、寝込んでるでしょ。熱、喉の締めつけ、悪夢、そして“水の音”。あなたの呪いは“穴”を開けたの。家に空いた穴は、呼ぶのよ、よくないものを。で、呼ばれて来たのがこの子……だけじゃなく、もっと重たいのが、裏で動いてる」


 言周は、床の間の掛け軸をじっと見た。墨がにじむ。


「九条さん。先々代、菊太郎さん。台風の夜、蔵で人を死なせてる。不可抗力に書き換えたでしょ。“白檀”で上塗りして」


 豊治は、膝の上の手を握りつぶした。


「……事故、です」

「事故よ。事故で殺すこともある。問題は隠したこと。『家のため』ってやつで。あの時の火の匂いと、濁った水の冷たさが、まだ残ってる。――この子は、恨みじゃない。片づけに来たのよ。あなたたちの代わりに」


 沈黙。雨上がりの庭に、鳥の声が一度だけ刺さり、消えた。

 言周は腰の袋から塩と紙を取り出した。紙は薄く、梵字が墨で書かれている。


「まず、家全体の“穴”を閉じる。五月さん、あなたはここに座って。逃げない。泣かない。『ごめんなさい』は後でまとめて言って。いまは、黙って息を整える」


 五月が唇を噛むと、葉月がハンカチを差し出す。しかし、受け取らない。

 言周は部屋の四隅に塩を置き、障子の桟を爪で弾いた。乾いた音が、短く四回。


「これから歩き回るけど、誰も立たないこと」


 そう言って、ゆっくりと、奇妙な足つきで座敷を一巡する。足裏で畳を押し、その圧で湿りを追い出すように。数珠が細く鳴り、指が印を結ぶ。言葉は唱えない。代わりに、息の長さが変わっていく。部屋の空気が、畳の目から抜け、次の瞬間には戻る。白檀の匂いが、薄皮一枚めくれる。


「――よし」


 言周は美月の前に戻り、正面から目を合わせた。


「夏希。あなた、三日間の“線香”で上がれるわ」

「ありがとうございます」

「ただし条件がある。三日間、朝夕に一本ずつ。白檀は使わない。安い沈香でいい。水は井戸の水じゃなくて上水道。茶碗じゃなくてガラスのコップ。位置は蔵の前、敷石の右、割れがある石の上。――九条さん、できる?」

「……で、できます」

「こっちはそれでOK。――で、五月さん」


 言周は長女に向き直った。


「あなたは、今日ここで言いなさい。何をやったか。誰に何を望んだか」


 座敷に白い静けさが落ちた。

 五月は、膝の上で握っていた指をほどいた。


「……私、夫を、殺そうとは思っていませんでした。ただ、苦しめば、少しは――」


 葉月が息をのむ。


「五月姉さん……」


 五月は自分に言い聞かせるように続ける。


「……父の会社の、若い子がいて。――それは、私が悪い。私が、弱かった。夫はやさしいけど、それだけで、何も決めない。私ばかりが正しさを背負って、息が詰まった。……ネットで見たの。紙に名前を書いて、白檀の香で燻して、燃やして流せば“離れる”って。軽い気持ちだった。だけど、夫は倒れて。夢に、階段と水と……女の人が出るって」


 言周はうなずかない。ただ、見ている。


「言い終わった?」

「……はい」

「なら、やることはひとつ。あんたが開けた穴は、あんたが閉める。――夏希、この子はあなたの“片付け”の邪魔をした。許せとは言わない。ただ、あなたが去る時、いらないものを一緒に連れて行って」


「承りました」


 夏希が深く頭を垂れる。その所作は、長年仕えた者のそれだった。


* * * * *


 夜の九条家は、家の形をやめて、湿りの塊になった。廊下は長く、曲がり角は別の場所に繋がる。天井の木目がゆっくり流れ、障子の紙の繊維が、水草のように揺れる。

 豊治は言周の指示どおり、蔵の前へ線香と水を用意した。敷石の右、古い割れ目。割れ目には、昔の白檀の粉が入り込んでいる。小さな光る粒が、夜目にちらつく。

 ガラスのコップに透明な水。線香の火は淡い橙。煙が立ち上がる。まっすぐではなく、ゆっくり曲がる。蔵の庇に当たり、戻ってくる。


「旦那さま」


 背後から、夏希の声。美月の体の温度は低い。


「昔のことを、お話ししてもよろしゅうございますか」

「……聞かせてくれ」

「私は、蔵の“隠し床”が好きでした。爪弾きの板を開けると、白い埃が丸くのぼって、子どものころからの宝箱の匂いがいたします。ある夜、台風で、蔵の一階に水が入って、菊太郎さまが、お鏡を上へ、と。私は、火皿を持って、上がりました。――板が、膨れておりました。蝶番が、ぎいと鳴って、足が滑って。……あとは、音と、匂いしか覚えておりません。白檀が、胸に刺さって、吐き気がして、水が、冷たくて。旦那さま。私は、恨んではおりません。ただ、匂いだけが、残ってしまったのです」


 白檀の匂いが、線香の沈香の上にうっすらと被さる。

 豊治は、ガラスのコップの縁に指をあてた。冷たさが骨に伝わる。


「夏希。すまない」

「謝るなら、私ではなく」

「――祖父に、か」

「いいえ。家に、でございます。家は人の形をしておりません。形がないぶん、濡れ続けます」


* * * * *


 その夜、悟はうなされて目を覚ました。寝間に妻はいない。喉が焼ける。額に冷たい水が欲しい、と腕を伸ばすと、指先が濡れた。コップではない。冷たい木。

 ――階段? 暗い、狭い、冷たい木。


「……さ、む」


 喉の奥で言葉が砕けた。次の瞬間、障子が勢いよく放たれ、言周が立っていた。


「起きなさい。息を長くして。――そう、背中に手を当てて」


 悟は言う通りにした。呼吸が深くなるたび、階段の冷たさがほどけて、布団の綿の柔らかさが戻る。


「あなたは、奥さんから穴を開けられたの。可哀想ね。でも、あの子も可哀想。穴を開けた指で、自分の胸も突いてる。……明日、謝らせるわ」


* * * * *


 三日間、線香と水。朝は白く、夜は青い。煙は細く、時折、蔵の中へ吸い込まれ、また吐き出される。

 一日目の夕刻、庭の井戸の口が、静かに閉じた。誰も触っていないのに、蓋の石がぴたりと落ちる。

 二日目の朝、床の間の掛け軸の墨のにじみが止まり、葉月の咳が軽くなった。葉月はカメラを持ち出し、蔵の前を撮った。レンズの中で、煙は一本の白い糸になり、誰かの指先に巻かれているようだった。

 二日目の夜、五月は悟の枕元に座った。


「……ごめんなさい」


 悟は弱い笑いをした。


「謝るのは、僕も。きみの“正しさ”に全部寄りかかった。きみが怒っていることにも、気づかないふりをした」


 五月がうなずく。


「私、別れる。会社の子とは。――あなたと、また、寝室で眠れるようになりたい」


 悟は目を閉じた。口元がほどけて、眠りに落ちた。夢の中の階段は、木ではなく畳になっていた。

 そして三日目の明け方、蔵の前の敷石に、薄い水の膜が張っていた。雨は降っていない。線香の煙がその上に映り、白い影が二重になる。

 夏希は座り、深く頭を下げた。


「旦那さま。ありがとうございました」

「行くのか」

「はい。――その前に、申し上げたいことが」


 豊治は背筋を伸ばした。


「どうか、白檀を、捨ててくださいませ。家を清めるつもりの匂いが、わたしを、そしてこの家の“湿り”を繋ぎ止めてしまいます。香は、人のために焚いてください。家のためではなく」

「わかった。……ほかに、するべきことは」

「蔵の蝶番を、もう一度替えてください。割れた石は、割れたままに。跡を消さずに、手入れを」

「――ありがとう」


 夏希は微笑んだ。美月の顔に、見たことのない静けさが灯る。その静けさは、朝の水の膜と同じ、薄くて消えるもの。


「言周さまにも、どうぞよろしく」


 言周は、縁側に座っていた。数珠を弄り、空を見ている。


「行く?」

「はい」


 夏希の声が、ふっと軽くなる。


「おかげさまで」

「じゃ、いらないのを持っていって」

「承知しました」


 言周の視線が、座敷の隅――五月の落としたハンカチへ向く。そこには見えない小さな塊が、じっと座っていた。湿りのような、影のような、言葉にならない重さ。

夏希は立ち上がり、そっと両手ですくう仕草をした。何もない空間から、何かを抱き上げる。白檀の匂いが、最後に少しだけ濃くなる。


「――さようなら」


 そう言って、夏希は消えていく。

 美月の身体が、ゆっくりと揺れ、前へ倒れかかった。豊治が抱きとめる。体温が戻っている。指先に、温かさ。

 耳鳴りが止まった。

 白檀の匂いも、しない。

 四日目の朝、九条家の庭は乾いていた。

 悟は布団から身を起こし、驚いたように自分の手を見た。軽い。喉も、胸も。


「……おはよう」


 五月が座っている。眼の下の影が薄い。


「おはよう」


 悟は笑って、言った。


「水の音が、しない」

「もう、しないよ」


 蔵の前では、豊治が蝶番を外していた。職人を呼ぶ前に、自分で一度、手で触っておきたかった。蝶番は新しいはずなのに、古い匂いがする。油を差し、布で拭き取る。

 言周が近づく。


「あんた、手つきは悪くない」

「家業ですから」

「じゃ、やり続けなさい。跡を消さない形で。――白檀は?」

「全部、処分しました」

「よろしい。香は人に焚きなさいね。家は勝手に息するから」


 言周は門口で一度振り返った。


「この家は、たぶん、まだ湿るわよ。古い家はみんなそう。だから、湿るたびに干す。干し方を、今日覚えたと思いなさい」


 豊治は深く頭を下げた。


「お世話になりました。……ご、言周さん」

「“ご”は余計。代金はあとでいいわ。あと――五月さん」


 呼ばれて、五月が縁側に出る。


「あなた、会社の子には自分で言うこと。『私が間違った』って。誰のせいにもするな。――それで、旦那さんの手をもう一度持ちなさい。正しさじゃなく、温度で」


「……はい」


 言周は踵を返し、軽い足取りで去っていった。背中が小さくなるにつれ、庭の空気が乾いていく。蝉が、遅れて鳴き始めた。


 葉月がカメラを構え、蔵の前に立つ父を撮った。


「ねえ、お父さん。写真、別にいらない?」

「撮れ。残せ。――跡を消さないのが、今日の教えだ」


シャッター音が、朝に小さく吸い込まれた。

 美月は縁側の端に座り、手のひらを見つめる。指の腹に、うっすらと白檀の粉がついている気がした。指をこすり合わせると、ただの光の粒になって、陽の中に散った。


「……ありがとう、夏希さん」


 誰も答えなかったが、風が一度だけ、蔵の庇を撫でた。白檀ではない、ただの風の匂い。九条家の朝は、ようやく、家の匂いになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

湿る家 名々井コウ @nanaikou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説