羽とソウゾウ、下
アヅキが飛翔準備訓練を受けたことがないと聞いたダイナは、昨日のうちにツキトジ先生に掛け合っていた。
「アヅキに訓練を受けさせたい?」
「はい。二、三回、体験だけでも」
ツキトジ先生は、はじめは渋い反応で頭をかいた。
「う~ん。あいつ、乗ってくれるかな。こういうのはぐらかすから」
だてに一年近くも保健室登校をやっていない。大人が背中を押そうという空気は察しやすいようで、母親が相手でなければトカゲのようにするするとお茶を濁して逃げ出す。
「君にはあえて優しく言わないけど、アヅキの世話なんてしてる暇があるのかな。君は君で、向き合わなきゃならないものがあるはずだよ」
「……わかってます」
ツキトジ先生といえど、アヅキの繊細な部分は無理に動かしたくないらしい。しかし、ダイナは食い下がる。
「でも先生が訓練見てくれたらあいつも、少しはやる気出すんじゃないですか」
「……本気で言ってる~?」
そんな簡単じゃないよ、とその時は言っていた。
「戴翼式。来たるその日、卒業を認められた君たちの背中には突然羽が生える。まもなく旅に出ることになります」
学校での学びを正しく修了し、旅に出る子どもたちを送り出すための最後のセレモニー。いわゆる卒業式である。
「羽を戴いてすぐに頼るものもない旅に出なければいけない。それじゃあんまり殺生だろう。ねえ、ずっとぬるま湯で育てられたガキんちょどもが向かい風にうまく対応できるわけないわけ」
「センセ~出てます、お口の悪さが」
「ま、すなわち、羽が生えてすぐにでもうまく飛べるように事前にイメージトレーニングを重ねておくのが飛翔準備訓練。訓練とはいうけどイメトレだから。今日はね、別にいっぱい体を動かしたりはしません」
指導教員の代わりにオリエンテーションを始めたツキトジ先生。のんびりついてきてくれた先生は案外しっかり訓練を見てくれるつもりのようだ。
「保健室はいいんですか」
そう聞くと、「呼ばれたらわかるから大丈夫」とのことだった。
「さ、外を見て。ここは地上からだいたい十二メートル。君たちがいつも暮らしてるのが二階までだからなかなか壮観でしょう。いい景色~!」
「先生」
体育館は塔の五階に位置している。大木のように天へ向けてなだらかに細まっていく塔の中で体育館だけが展望台のように膨らんでおり、壁は全てガラス張りで全方位からデルタコロニーを見渡せる。それはまさに飛翔準備訓練のための施設なのだ。
自由に展望をし始める養護の先生をダイナが引き戻して言った。
「やってくれるならちゃんとしてください」
「はいはい。我々
そう言ってアヅキを窓辺に立つよう促す。アヅキは「おお」と感心の声を上げた。
「いい眺めだ」
「そうでしょう」
ちょうど雲ひとつない青空。ここまでキラキラと反射の光る広大な川に、木々と並び立つささやかな家々。それから何も邪魔することのないブルーグリーンの地平線。
思わず深呼吸したくなる、美しい景色だった。
しばらく言葉を置いて見惚れていたアヅキは、ツキトジ先生の視線に気付くとぷいと後ろを向いた。
「そこまででもないかな」
「あら」
ダイナに目配せをして、ツキトジ先生は肩をすくめた。そう一筋縄ではいかないぞ、と。
「てか、あれは? 仮の羽は?」
「ダヴ先輩がつけてたやつならないぞ」
「あれ五年生用だよ」
「ええ!」
「アレは本物の羽とだいたいおんなじ大きさ、重さをしてるのさ。身体も未発達な君たちにはまだ早~い」
「へえ……」
少し残念そうな声が上がる。なんだよ、とダイナは思った。仮と言っても背中の羽は子どもたちの将来であり、ロマン溢れる夢だ。お前もちょっと期待してたんじゃないか。
「初めての訓練は葦の原っぱからなんだけど、空に近い方が実感も湧きやすいかと思ってね。ほらほら、柵を掴んで。窓に向かって座ってください」
言われた通り二人並んで座り、ガラスの前にあった、腰の高さほどの柵に掴まる。
「あのさ、」アヅキが横から囁いてくる。「ずっと気になってたんだけど、なんでわたしたちハーネスなんてつけられてるの?」
体育館に入るとすぐに肩、胸、胴をがっちり固めたリュックのようなハーネスを装着させられる。そして身体と柵とを繋げられていて、中心の太い柱に届くくらいの距離にしか行けなくなっている。
ダイナはにやっと笑った。
「……五秒もしたらわかる」
「え?」
見ろ! とせき立てられてアヅキは慌てて顔を上げた。
ゴオン、と重々しい音が頭上に鳴り響く。
「ウワァァ!」
屋根が自動的に折りたたまれて、みるみる柱に収納されていく。ガラスだった側面も一緒に仕舞われてしまって中にいたアヅキたちを守るものは柵しかない。上にはまだ塔の階が続いているのに、まるで屋上の展望台にいるような感覚だった。
「何これ!」
「体育館、訓練用フォルムの完成~」
操作盤に鍵をかけながら先生は言った。
「いい風じゃん」
柵の間から見える景色は窓があった時と同じ。
けれど全く違った。顔に直接浴びる風や匂い。より近く、より広い。
ジオラマでない、本物の世界だ。
「ダイナ、君は無理しなくていい」
「……大丈夫です」
見透かされているのが少し悔しくて、ダイナは耳打ちしてきた先生を突っぱねた。養護の先生に手の震えは隠せないみたいだった。
すると特に何も言わずツキトジ先生は指導に戻る。
「どう、アヅキ。仲良くなれそう?」
「なにと?」
「風と」
先生は追い風をつかむような仕草で手を伸ばす。
「私たちは風に力を借りなければ飛べないんだ。会話できるくらい仲良くなれたとき、一人前の鳥になるんだよ」
「センセ~も?」
「先生はあんまり」
がくりとずっこける生徒二名。
「オトナってみんな飛べるんじゃないの」
「飛べないなんて言ってない。でも疲れるし」
毎日保健室の机で悠々と珈琲を啜っていれば、確かに体力は落ちる。それでも大人だ。ツキトジ先生も、旅立ちを経験しているはず。
「ま、私の場合、羽が生えるまで訓練なんて一切してないから。訓練自体はどうしてもやらなきゃいけないってわけでもないんだよね。生えたら自然に飛べるようになるものさ」
「そんなもの?」
「また適当なことを……」
ツキトジ先生の言うことは雲を掴むよう。簡単に鵜呑みにしてはいけないのだろうと、ダイナは今回も指摘を見逃す。アヅキの方はもっと先生の言動に慣れていて、早々に興味を変えていた。
「センセ~、センセ~、羽広げて見して」
「ああ卒業の日はここから飛び立つんだもんな。ちょっと見てみたいかも」
しかし先生は露骨に面倒そうな顔をして、ええ、と低く鳴いた。
「年度末に見れるじゃん、フレッシュな旅立ちを」
結局先生は一度も白衣から羽を出してはくれなかった。
「結局ゼンゼン運動しなかったな。着替えた意味ってあった?」
「ハーネスつけるためだよ。体育館内周走れって言ったらお前やってたか?」
「…………」
ツキトジ先生が職員室にいくと言うので二人で帰り支度をしていると、ちょうど放課のチャイムが鳴る。
「……おなかすいた。お昼食べたのに」とアヅキがお腹を押さえる。「さっきのとこで食べたら気持ちよかったんだろうなあ」
体育館はもちろん飲食禁止だ。欲望に忠実なやつ、と一周回って感心した。
「……あのさ」
「ダイナ」
ダイナが言おうとしたタイミングでアヅキも口を開く。発せられた声が冷淡で、ダイナはぎくっと足を止めた。
「余計なことしないで。センセ~も巻き込んで」
「……アヅキ、」
「なんつって。ウソウソ!」
ぱあ、と両手を開いてこちらに向ける。目の前にぴょんと割り込んできた顔がいつもの覇気のないあっけらかんとした表情で、虚をつかれた。
「は? こいつ」
アヅキは怒ったダイナの腕に抱え込まれながら、満足そうに言った。「ねえ、気にしてるでしょ、わたしのお母さんに啖呵切ったコト。セキニン取ろうとして、頑張ってくれてるんだよね。それはわかる」
ダイナは責任感が強いもんねと知ったようなことを言う。そしてダイナの力が緩むとそれを押し戻して這い出た。
「でも、べつにいいよ。わたし自分のことしか考えられないからさ。ダイナにそうやって勝手に頑張られても……重荷っていうか」
アヅキは笑って言う。
いつも冗談を言っている時とおなじふうに。
「……なんだよ、それ。じゃあなんで」
保健室を訪れた生徒が教室へ戻っていくたびに、それを見送るお前は寂しそうな顔をしてるんだ。
アヅキの手をぎゅっとつかんだ。
「……今日、一緒に帰るぞ」
「え、ムリ。逆方向じゃん」
「いいから」
ダイナにじっと見つめられ、アヅキはまたも断る余地がないのを悟るのだった。
「今日はエスコートされる日かな……?」
「ほら」
「え?」
学校から下流に沿って歩いていって、しばらくすると手渡されたのは紙の筒。細い持ち手の部分と、火薬の入った太く包まれた部分のあるそれは……手持ちの花火だった。
「学校帰りに花火とは」
あのダイナがこんなことを勧めてくるなんて。意外すぎて、しばらく口が空いたままになる。
「不良少女だね~」
「うるさい。ここだったら落としたりしても火事の心配がないしな」
なぜか持っていた安全仕様のライターで自分のを、それからアヅキの分を当てた。すると順番に先端が燃え、いきおいよく火花が噴射され始める。
「わ~、キレ~」
浅い水の澄んだ鏡が下から花火の光を写し取り、同じ光を何重にも増やして。ポロポロと落ちる火の種が水に波紋を与えては消えていく。派手にして儚い。ずっと眺めてしまえそうな光景だった。
「だろ。見つかったら怒られるけど破る価値はある」
これはきっと前にもやったな、と隣を見ると、花火に釘付けなはずのローズの虹彩と目が合った。
「共犯、な」
にやっと口角を上げるダイナが、やっぱり花火よりも近くて、眩しく映るのだ。
「俺が保健室を出ることになっても先生には言うんじゃないぞ」
「ええもう……わかったよ」
アヅキはよく分からないまま秘密を承諾した。
花火が満足げに沈黙を始めたころ。
「あれ? ダイナ?」
「ダイナじゃん!」
よく通る声がダイナの名を呼んだ。振り返ればばしゃばしゃと水を蹴散らして二人が駆け寄ってくる。その馴染みのある顔はダイナのクラスメイトたちだった。
「ノル、スズ!」
ダイナの声も心なしか弾む。数日間ぶりの友達との再会は嬉しいものだった。
ノルは長い髪を大きなお団子に括った子で、スズは制服の上にカーディガンを羽織って前髪に飾りをつけている。
「事故があってから会ってなかったけど、なんだ、元気そうだね」
「あは、ダイナはそうでしょ」
スズがダイナを観察するようにじっと見て、ノルは腕を組んでしたり顔で言った。
「そっちのひとは?」
「こいつは……」
ダイナの肩に隠れていたアヅキに気付いて、スズが首を傾げた。アヅキは彼らとも同級生だけれど、ダイナが気付かなかったようにアヅキの存在はやっぱり影に埋もれているようだった。
しかしノルはまた答えを遮った。
「何、保健室でトモダチ作って遊んでんの? ダイナ。あんたのせいで怪我したミトのこと忘れたんだ。あんたが突き落としたみたいなものなのに」
「…………」
ピン、と、張り詰めた糸を弾くような静寂。
友達同士の会話を息を潜めて聞いていたアヅキがそっと顔を上げると、ダイナの顔からみるみるうちに色が失われていくのを見てしまった。
静かに、ダイナは言った。
「……あいつは……勝手に飛び降りたんだよ」
「勝手に?」
二人の同級生の目は冷たいままだった。二人は口々に言う。
「あんたが焚き付けたんでしょ。ミトの足を引っ張りたくて」
「ダイナ、いつもミトに負けててさ、悔しかったんでしょ? ミトのこと、消えてほしいって思ってたんじゃないの」
ダイナの呼吸が少しずつ短く、細くなっていく。
容赦なくクラスメイトは言った。
「あんたのせいでミトは怪我したのに、なんであんたが休んでるの?」
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