雨宿りの君

舞夢宜人

この雨が、僕らを二人だけの世界に閉じ込めた。

 ### 第一話:始まりの雨


 俺たちの高校三年生の五月は、不順な天候が続いていた。


 梅雨にはまだ早いというのに、連日厚い雲が空を覆い、突然の雨が街を濡らす。県立富岳高校も例外ではなかった。


 高校三年生、進路に悩む時期。

 佐藤悠真が率いる剣道部の勇ましい声が体育館から響き、田中翔太のような不良仲間が屋根の下で煙草の煙をくゆらせている。生徒たちは皆、それぞれの場所で未来への道を模索し、あるいは今を謳歌していた。

 俺には、どちらも遠い世界の出来事だった。


 俺は、そんな日常の喧騒から逃れるように、校舎の隅にある立ち入り禁止の扉を開けた。重く錆びたその扉は、俺の心を外界から隔てる壁のようだった。

 階段を駆け上がり、たどり着いた屋上は、俺の唯一の居場所だった。フェンスの向こうに広がる街並みは、騒がしい日常とは隔絶した、静かな世界を形作っていた。遠くには、厚い雲に覆われてその姿が見えない富士山。その雄大な姿が見えないのは、俺の心の中の希望が見えない現状と重なるようだった。


 コンクリートの床に座り込み、リュックを抱える。

 頬に冷たい雫が落ちてきた。ぽつり、ぽつり。やがてそれは、ざあざあと降り注ぐ雨音に変わる。雨は街の音をすべて吸い込んでいく。


 その雨の中、俺はフェンスの向こうに人影を見つけた。

 制服のスカートに雨が滲み、白いブラウスが透けている。手には一冊の本を抱え、ただ静かに、空を見上げていた。雨に濡れた黒髪が頬に貼りつき、その肩が小刻みに震えている。

 結城葵。クラスで誰からも慕われる、完璧な優等生。いつも笑顔を絶やさず、学業も部活動もそつなくこなす、雲の上の存在だ。


 そんな彼女が、なぜこんな場所にいるのか。そして、なぜ泣いているのか。

 俺は、葵の頬を伝う一筋の雫が、雨ではなく涙であることを理解した。その姿は、まるで降り止まぬ雨に打たれ、透き通ってしまいそうなガラス細工のようだった。完璧な仮面を脱ぎ捨てた彼女の姿に、俺の心は静かに揺さぶられた。


 無意識のうちに、俺は葵のもとへと歩みを進める。

 一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、彼女の震えが、孤独が、そして彼女の心を覆う雲の重みが伝わってくるようだった。

 錆びた扉が隔てていたのは、外界の喧騒だけではなかった。扉の向こう側で震える彼女の中に、俺は自分と同じ、行き場のない孤独の影を見た。


 「……大丈夫か?」


 不器用な声が、雨音の中に響く。

 葵は驚いたように顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。彼女の瞳は、普段の自信に満ちた輝きを失い、深い悲しみを湛えていた。

 俺は何も言わず、ポケットからくしゃくしゃになったハンカチを取り出し、そっと彼女に差し出した。

 葵はしばし躊躇したが、やがて震える指でそのハンカチを受け取った。彼女の指先は驚くほど冷たかった。


 二人の間に言葉はなかった。

 ただ、雨音が響き、屋上という閉ざされた世界が、彼らを二人だけの空間に閉じ込めていた。

 それは、俺と葵の、始まりの雨だった。


 ### 第二話:言葉のない会話


 翌日、空はからりと晴れ渡っていた。

 屋上のコンクリートは昨日の雨を吸い、まだひんやりと冷たい。俺は、授業をサボってここに来た。

 いつも通り、フェンスの向こうの街並みを眺める。その視界の奥には、昨日とは打って変わって、くっきりとその輪郭を見せる富士山があった。雄大なその姿は、まるで俺の心に、わずかな希望の光が差したことを象徴しているかのようだった。


 しかし、屋上には誰もいない。

 俺は、葵が来ないことに、昨日まで感じたことのない寂しさを覚えた。彼女の存在が、俺の孤独を埋め始めていたことを、俺はまだ自覚していなかった。

 俺は無意識のうちに、昨日葵が座っていた場所へと足を運んだ。そこには、忘れ去られたかのように一冊の本が残されていた。表紙は少しふやけている。雨に濡れたのだろう。


 俺は本を拾い上げ、埃を払った。

 タイトルは『報われぬ愛の物語』。

 俺は、その本を開いた。風が乾いてパリパリになったページを、ぱらぱらと優しくめくっていく。

 本に挟まれていたのは、図書館の貸出券だった。そこに書かれた「結城葵」の名前を見て、俺の胸は小さく高鳴った。


 俺は、座り込んで本を読み始めた。

 物語の主人公は、決して報われることのない片思いに身を焦がす少女。彼女の心の葛藤や、報われぬ恋の切なさが、丁寧な言葉で綴られていた。

 葵は、この物語に自分を重ねていたのだろうか。そう思うと、俺には、昨日彼女の頬を伝っていた涙の意味が、少しだけ分かった気がした。

 完璧な優等生の仮面の下で、彼女もまた、一人で戦っていたのだ。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 太陽は傾き、ビルの谷間に沈みかけていた。屋上は、穏やかな夕日に照らされ、温かい光に包まれていた。

 その時、錆びた扉が開く音がした。

 俺は顔を上げ、視線を向ける。そこに立っていたのは、葵だった。制服のシャツは、昨日とは違う。彼女は少し驚いたように、しかし、どこか安心したように微笑んだ。

 彼女の表情は、いつもの完璧な笑顔ではなかった。どこか憂いを帯びた、切ない笑顔だった。


 二人の間に、言葉はなかった。

 俺は、自分が読んでいた本を、葵に見せるようにそっと膝の上に置いた。

 葵は、その本を一目見て、小さく頷いた。

 「……私の、本。」

 彼女の声は、昨日の雨音のように、静かで柔らかかった。


 「……雨に、濡れてたから。」

 俺は、それだけを言った。

 葵は、そのぶっきらぼうな言葉に隠された優しさを感じ取ったのだろう。彼女は、静かに、しかし心からの感謝を込めて微笑んだ。


 二人の間に再び沈黙が訪れる。

 夕日は、屋上のコンクリートをオレンジ色に染め、二人の足元を明るく照らしていた。

 その光は、閉ざされた二人の世界に、かすかに差し込んだ最初の光のようだった。

 言葉はなくとも、二人の心は、確かに、繋がっていた。


 ### 第三話:雨上がりの昼休み


 屋上で葵と別れてから、俺の日常は少しだけ変わった。

 相変わらず授業には集中できない。だが、窓の外に広がる曇り空を見ては、ふと、あの日の雨を思い出すようになった。

 教室の隅に座り、無意識のうちに葵の姿を探してしまう。彼女はいつも通りの席に座り、凛とした姿勢で授業を受けている。時折、友人と楽しそうに話す完璧な笑顔は、クラスの誰もが憧れる結城葵そのものだ。


 (俺は、何をしているんだ……)


 俺は、彼女に視線を向ける自分に戸惑いを覚えた。今まで、誰のことも気にしたことなどなかった。自分の世界を外界から隔てることで、安心していたはずだった。

 それが、たった一度、屋上で言葉を交わしただけで、こんなにも日常が変わってしまうとは。葵は、俺の世界に静かに侵食してきた。


 昼休みになり、弁当をリュックから取り出した俺は、なんとなく屋上へと足を運んだ。しかし、今日は彼女の姿はない。

 俺はため息をつき、再び階段を下りる。

 すると、中庭のベンチに座り、友人たちと談笑している葵の姿が目に入った。

 彼女の隣には、親友の高橋凛がいる。二人は楽しそうに何かを話しているが、その話題はきっと、俺とは無縁の、勉強や進路のことだろう。

 葵の笑顔は、完璧だった。太陽の光を浴びてキラキラと輝き、まるで何も悩みなどないかのように見えた。


 (……そっか、そういうことか。)


 俺は、彼女の笑顔を見つめながら、昨日の屋上での彼女の涙を思い出した。あの笑顔は、彼女にとっての仮面だ。周囲の期待に応えるために、必死で貼り付けている偽りの表情。

 俺だけが、あの仮面の下の切なさを知っている。

 この事実が、俺の胸に、特別な、そしてどこか温かい感情を抱かせた。それは、孤独を共有する者同士にしか分からない、特別な絆だった。


 その時、おしゃべり好きな美咲が、悪戯っぽく笑いながら言った。

 「ねぇ、知ってる?昨日、優等生の結城さんと、不良の坂木くんが一緒にいるの見たんだよ。」

 美咲の声は、澄んだ青空に響き渡る。悪気のない、ただの好奇心からくる言葉だった。

 その言葉は、まるでさざ波のように、静かに、しかし確実に、クラス中に広がり始めた。

 俺は、その噂の波紋を遠巻きに眺めながら、思わず胸を締め付けられた。

 俺の世界と彼女の世界が、交わり始めた瞬間だった。


 ### 第四話:偽りのない時間


 噂は、思っていたよりも早く、そして粘着質に広がっていった。


 教室に入れば、どこからか聞こえてくるひそひそ話。廊下で視線を感じて顔を上げれば、楽しそうに話していた友人たちが、急に黙り込む。


 (そんなに、不思議なことかしら……)


 私は、心の中でそう呟きながら、湊くんのいる屋上へと向かう階段を昇っていた。

 この関係が、周囲からどう見られているか。優等生の私と、不良の湊くん。ありえない、不釣り合いだ、と誰もがそう思っている。分かっていた。分かっていたけれど、それでも私は、ここに来ることをやめられなかった。


 重く錆びた扉を開けると、そこには、いつものようにフェンスに寄りかかって街を眺める湊くんがいた。

 彼は、私が来たことに気づくと、視線をこちらに向け、小さく微笑んだ。

 その笑みに、私は心が軽くなるのを感じた。


 「……今日も、来たんだな。」

 「ええ。……湊くんは、来ないと思った?」

 「……いや。なんとなく、来るような気がしてた。」


 私たちは、横に並んでフェンスに寄りかかった。

 放課後の屋上を照らすのは、傾きかけた太陽の優しい光。その光は、私と湊くんの顔に、柔らかな影を落としていた。

 私たちが持っている、表と裏の顔のように。


 「ねぇ、湊くん。私、剣道部の試合、見に行ったことがあるの。」

 「……いつ?」

 「去年。夏の大会。……あなたの試合、すごく綺麗だったわ。誰よりも速くて、誰よりも真っ直ぐで。……まるで、剣が光を放っているみたいだった。」


 私の言葉に、湊くんは少し驚いたように、そして寂しそうに微笑んだ。

 「……もう、過去の話だ。」

 「どうして、辞めてしまったの?」

 私の問いかけに、湊くんはしばらく黙り込んだ。そして、ゆっくりと、語り始めた。才能の壁、限界、そして、夢を追いかける情熱を失ってしまったこと。

 彼の言葉は、とても静かで、だが、その奥には深い苦悩が滲んでいた。


 私は、彼の言葉を遮らず、ただ静かに聞いていた。

 そして、彼の話が終わった後、今度は、私の番だった。

 「私ね、湊くん。いつも、笑ってるでしょう?……でも、それは、本当の私じゃないの。」

 私は、ゆっくりと、しかし、偽りのない言葉で語った。周囲の期待に応えなければならないという重圧、完璧でなければならないという呪縛、そして、誰にも本音を言えない孤独。

 太陽の光が、私の顔の半分を照らし、残りの半分を影が覆う。


 「……そっか。知ってるよ。」

 湊くんは、静かにそう言った。

 「あなたの顔、あの日読んだ本の主人公と、少し似てたから。」

 私は、彼の言葉に、心の奥底で張り詰めていた糸が、プツンと切れるのを感じた。

 この時間だけは、偽りのない自分でいられる。

 そう思った瞬間、私の胸に温かいものが広がった。


 互いの存在が、それぞれの孤独を埋めるかけがえのないものになっていく。

 屋上を照らす光と影が、二人の持つ表と裏の顔を象徴するように、私たちの絆は、誰にも見えない場所で、確かに、芽生えていた。


 ### 第五話:噂の波紋


 噂は、まるで校内に渦巻く黒い霧のようだった。


 私が教室に入ると、楽しそうに話していた友人たちの声が途切れる。視線が、一斉に私に集まり、そして、すぐに逸らされる。まるで、見えない何かに触れてはいけないとでも言うかのように。

 私は、その空気が耐えられなかった。優等生として生きてきた私にとって、他者からの視線は、憧れや尊敬の対象であるべきだった。なのに、今は好奇と、どこか楽しげな色を帯びた、不快な視線に変わっていた。


 昼休み、美咲が口を開いた。

 「ねぇ、田中くんがさ、結城さんと坂木くんって付き合ってるんじゃない?って言ってたんだよ。」

 私の親友である高橋凛は、読んでいた参考書から顔を上げ、冷静に美咲に尋ねた。

 「どうして、そんな話になるの?」

 「だって、この前、私が見たんだもん。屋上に行く坂木くんと、後から行く結城さんを。そしたら、屋上から一緒に下りてくるのを見つけちゃって。ね、翔太。」

 美咲の言葉に、面白がって聞いていた田中翔太が笑いながら応じた。

 「おうよ。俺も見たぜ。なんか、すげぇ仲良さそうだった。やっぱ優等生って、ああいうのが好きなのかねぇ。」

 「ちょっと言い過ぎじゃない、翔太。結城さん、気にしてるんだから。」

 美咲は戸惑いを隠せない様子で、翔太を制する。彼女は悪気はない。ただ、面白がってしまっただけだ。だが、翔太は聞く耳を持たない。

 私は、その会話を黙って聞いていた。胸が、ざわざわと波打つ。私の中で、完璧な優等生としての私が、警鐘を鳴らしていた。


 その日の放課後、私と凛は二人で図書館にいた。

 静かな空間で、私は参考書を開きながらも、一向に集中できない。

 「葵。」

 凛の声が、静かに響く。

 「……何?」

 「最近、様子がおかしいわよ。集中できてないでしょう?……噂のこと、気にしてるの?」

 私は、凛の言葉にドキリとした。彼女は、私の親友であり、一番の理解者だ。そして、成績を競い合う、唯一無二のライバルでもある。

 「大丈夫よ。ちょっと、疲れているだけ。」

 私は、いつものように、完璧な笑顔を浮かべて答えた。(このままじゃ、いけない。)凛は、私の嘘を見抜いているようだったが、それ以上は何も言わなかった。


 私は、自分に言い聞かせるように、参考書を閉じた。

 この関係が、私を苦しめている。周囲の期待に応え、完璧な優等生としていなければならない私と、本当の私を受け入れてくれる湊くん。二つの世界は、あまりにも遠すぎた。

 私は、優等生の仮面を守るために、湊くんとの関係を秘密にしようと決意する。


 私は、図書館を出て、屋上へと向かう階段を昇った。

 屋上への扉の前に立ち、錆びた鍵の付いた扉を見つめる。

 湊くんは、きっと中にいるだろう。しかし、私は扉を開けることができなかった。

 この扉を開けたら、私はもう、完璧な優等生ではいられない。

 私は、錆びた鍵の付いた扉を前に、激しく揺れ動く心を持て余していた。

 扉の向こうの、二人の世界に、私はもう、足を踏み入れることができない。

 そんな気がしていた。


 ### 第六話:親友の戸惑い


 その日の放課後、俺は校舎の裏手にあるグラウンドに向かった。

 夕日に照らされたグラウンドの隅で、悠真は一人、素振りを繰り返していた。彼の竹刀が風を切り、乾いた音が響く。剣道着を身につけ、面を外した彼の顔は、練習の熱気で汗ばんでいた。

 あの日、俺が剣道を辞めて以来、二人の間には言葉にできない溝ができていた。悠真は俺を呼び止めることもなく、俺もまた、彼から逃げるように顔を合わせるのを避けていた。

 だが、今日は違った。俺は、彼に話さなければならない、そう思っていた。


 俺が近づくと、悠真は素振りを止め、静かにこちらを向いた。

 「……久しぶりだな、坂木。」

 「ああ。」

 「何か用か?俺はこれから、補習がある。」

 彼の声には、僅かに冷たさが混じっていた。


 「……葵のこと、聞いたか?」

 俺がそう言うと、悠真の表情は、一瞬にして硬くなった。

 「ああ、聞いた。まさか、お前があんな子と……」

 悠真は、そこで言葉を切った。そして、深く息を吐き出す。

 「……坂木。お前は、どうしてあんなことをするんだ?」

 「あんなことって、なんだよ。」

 「とぼけるな。お前が剣道を辞めた時、俺は何も言わなかった。お前にはお前の事情があるんだろうと、そう思ったからだ。だが、今、お前がやっていることは、違う。」


 夕日が、悠真の顔を赤く染めている。彼の瞳には、俺への失望と、悲しみのような色が浮かんでいた。

 「……俺は、お前の剣道が好きだった。誰よりもひたむきで、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも強かった。……だが、今のお前はどうだ?自分の道から逃げて、今度は真面目な子まで道を踏み外させようとしているじゃないか。」


 彼の言葉が、胸に突き刺さった。

 俺は、葵と会うことで、初めて自分自身と向き合えた気がしていた。屋上は、逃げる場所ではなく、俺が俺でいられる、本当の居場所だったはずだ。

 だが、悠真には、俺がただ、別の場所へと逃げているようにしか見えない。

 俺は、何も言い返すことができなかった。


 悠真は、そんな俺の様子を見て、悔しそうに拳を握りしめた。

 「……昔のお前なら、自分の弱さから逃げるような真似はしなかったはずだ。……俺は、そんなお前を、尊敬していたんだ。」

 彼の言葉には、強い怒りと、それに勝る悲しみが込められていた。

 二人の間に、再び重い沈黙が降りる。

 夕日の光が、俺の足元に長々と影を落としている。悠真の光り輝く今と、俺の影を帯びた今を対比させるかのように。


 悠真は、俺に背を向け、グラウンドの隅にある水道で汗を洗い流した。

 「……もう行け。お前が本当に、あの子のことを思うなら、もう関わるな。」

 彼の言葉は、俺の胸に突き刺さり、深く、重く沈んだ。

 俺は、葵のためにも、自分のためにも、この関係を続けるべきなのか。

 俺は、夕日の光に照らされたグラウンドの真ん中で、一人立ち尽くしていた。

 そして、どうすればいいのか、分からなかった。


 ### 第七話:それぞれの孤独


 葵が、来なくなった。


 あれから一週間。俺は放課後になると、毎日屋上へと足を運んだ。重く錆びた扉を開け、いつものようにフェンスに寄りかかる。だが、そこには、もう誰もいなかった。

 屋上は、再び俺だけの場所に戻っていた。

 それは、俺が望んでいたはずの孤独だった。誰も俺の世界に踏み込んでこない。だが、今はその孤独が、ひどく冷たく、虚しく感じられた。葵がいた時の温かさが、嘘だったかのようだ。


 (俺は、また逃げているだけなのか。)


 俺は、悠真の言葉を反芻した。

 自分の不甲斐なさから逃げ、剣道を辞めた。そして、葵との関係からも、逃げようとしていた。俺は、葵に「大丈夫か」と尋ねたが、結局、俺が一番大丈夫じゃなかった。

 屋上の片隅に、一冊の本が残されていた。葵が読みかけのまま置いていった本。そのページに挟まれたしおりが、風に吹かれてひらひらと揺れている。

 まるで、二人の関係が、風前の灯火であるかのように。


 俺は、その本を拾い上げ、読み始めた。

 物語は、悲しい結末に向かって進んでいた。主人公の少女は、結局、報われることなく、一人、孤独な道を歩む。

 葵は、この物語に、自分の未来を重ねていたのだろうか。

 そうだとしたら、俺は、彼女を孤独にしてしまった。俺が逃げたせいで、彼女はまた、一人になってしまったのだ。


 (違う。俺は、もう逃げない。)


 俺は、本を力強く閉じた。

 あの日の雨の屋上で、彼女は俺に、弱さを見せてくれた。完璧な仮面を外してくれた。そんな彼女を、俺は放っておけない。俺が、彼女の孤独を埋めてやりたい。

 屋上は、俺の逃げ場所だった。だが、葵と出会ってからは、俺が俺でいられる、本当の居場所になった。

 そして、今、その居場所は、葵の隣にしかない。


 夕日が、校舎の窓をオレンジ色に染めている。

 俺は、本をリュックにしまい、屋上のフェンスに背を向けた。沈みかけた夕日は、一日の終わりを告げている。

 それは、俺の迷いが、今日で終わることを告げているようだった。


 俺は、屋上から階段を下り、一階へと向かう。

 もう、屋上には用はない。

 俺が行くべき場所は、葵がいる場所だ。

 彼女の、完璧な世界だ。

 俺は、葵のクラスへと向かって歩き始めた。


 ### 第八話:決意の夜


 完璧な優等生に戻ろうと決意してから、一週間が経った。


 私は、朝から晩まで、教科書と向き合い、問題集を解き、完璧な笑顔をクラスメイトに向けた。だが、どれだけ努力しても、どれだけ笑っても、私の心は満たされなかった。

 屋上に行かなくなった。湊くんとも、もう話していない。

 なのに、彼のいない毎日は、以前よりもずっと空虚だった。

 完璧な仮面は、私を周囲の好奇の視線から守ってくれた。だが、その裏側にある心の傷は、癒えるどころか、ますます深く、鋭くなっていった。


 (私は、何をしているんだろう……。)


 私は、自室のベッドで、静かに涙を流していた。

 完璧な優等生であること。それが、私にとっての唯一の存在証明だったはずなのに、今は、それが私の心を縛りつける、重たい枷にしか感じられない。

 心の本当の居場所は、湊くんのそばだった。

 あの雨上がりの屋上で、彼が私に見せてくれた、偽りのない世界。

 あの世界を、私は自分の手で手放してしまった。


 その夜、私は、枕元に置いてあった、湊くんが読んでいた本を手に取った。

 『報われぬ愛の物語』。

 私は、結末に向かってページをめくった。主人公の少女は、結局、一人、孤独な道を歩む。

 私は、その結末に、自分たちの姿を重ねていた。

 このまま、報われぬままで、終わってしまうのだろうか。


 (違う。……私は、報われないままで、終わりたくない。)


 私は、そう心の中で叫んだ。

 もう、完璧な仮面を被って、誰かに操られるような人生は嫌だった。

 自分の人生を、自分の手で選びたい。自分の手で、色を塗っていきたい。

 私は、ベッドから起き上がり、窓を開けた。

 夜空には、昨日の雨が嘘のように、満点の星が瞬いている。街の明かりが、宝石のように輝いていた。


 その光景は、まるで、湊くんが私に見せてくれた、あの雨上がりの街のようだった。

 私は、夜空を見上げながら、遠くに、彼の存在を感じた。

 彼は、きっと今も、どこかで、私のことを思ってくれている。

 いや、そう信じたかった。

 私の心に、一つの決意が生まれた。


 翌朝。

 私は、いつものように制服に着替え、学校へと向かう。

 昇降口を通り過ぎた時、遠くに、人影を見つけた。

 湊くんだった。彼は、いつものように壁にもたれかかっている。だが、その表情は、どこか違っていた。

 彼の瞳には、以前のような諦めの色はなく、何かをやり遂げようとする、確かな決意が宿っていた。

 彼は、ゆっくりとこちらに視線を向け、私に気づくと、小さく頷いた。

 その堂々とした姿に、私の心に、小さな、しかし確かな勇気が芽生えた。


 私は、彼のもとへ向かう。

 もう、後戻りはしない。

 私の物語は、今、この場所から、始まる。

 そんな気がした。


 ### 第九話:君の元へ


 教室の扉を開けた瞬間、空気が一変するのを感じた。


 理系公立コースの成績上位クラス。静かで、真面目な空気に満ちたその教室は、俺のような不良には縁のない場所だ。一斉にこちらを向く視線が、好奇心と警戒心に満ちているのが分かる。

 俺は、気にしないように、まっすぐに教室の奥へと視線を向けた。

 葵が、そこにいた。

 参考書を広げ、熱心に勉強している。彼女の周りだけ、時間がゆっくりと流れているようだった。


 (ああ、良かった。……ここに、いた。)


 彼女の姿を確認できただけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 俺は、迷うことなく、教卓の前に立った。

 「……結城葵。」

 俺がそう言うと、教室中のざわめきが、一気に大きくなった。

 葵は、驚いたように顔を上げ、俺を見つめた。その瞳は、なぜか少し、潤んでいるように見えた。


 「……坂木くん?」

 彼女の声は、震えていた。

 周りの視線が、痛いほど俺に突き刺さる。

 (どうして、ここに……?何しに来たの?私を困らせないで……)

 そんな声が、彼女の瞳から伝わってくるようだった。

 だが、俺は、もう逃げない。

 俺は、真っ直ぐに葵を見つめ、言った。


 「……来いよ。」


 その言葉に、教室中が再びざわめいた。

 葵は、戸惑い、迷い、そして、一瞬だけ、目を閉じた。

 (ああ、やっぱりだ。俺は、彼女を困らせているだけなのか。)

 俺は、そう思った。

 しかし、葵は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、リュックを掴み、一歩、また一歩と、俺のもとへと歩み寄ってきた。

 彼女の足取りは、少しぎこちなく、だが、迷いはなかった。


 教室の入り口まで来た俺は、葵の手を掴んだ。

 彼女の手は、昨日までのように冷たくはなく、温かかった。

 俺は、その温かい手を強く握りしめ、ざわめきが満ちる教室を背に廊下へ飛び出した。

 「おい、坂木!」「何やってんだ、あいつ!」

 後ろから聞こえる友人たちの声。好奇の視線。

 (ああ、これでいいんだ。)

 俺は、そう思った。

 俺が望んでいたのは、こういうことだったのかもしれない。

 誰にも邪魔されない、俺と、葵だけの世界。


 俺は、人目を気にせず、ただひたすらに階段を駆け上がる。葵も、息を切らしながら、俺の後についてきた。

 そして、ついにたどり着いた屋上。

 重く錆びた扉を開け、俺たちは、再び二人だけの世界へと入っていく。

 夕日に照らされた屋上の空気は、温かく、そして、安堵に満ちていた。

 俺は、葵の呼吸が落ち着くのを待って、その手を離した。

 葵は、息を切らしながらも、少しだけ、泣きそうな顔で、俺に微笑みかけた。


 「……よかった。」

 「ああ。」


 二人の間に、静かな、しかし、確かな時間が流れる。

 俺たちは、また、ここに、戻ってきた。

 俺は、葵を見つめ、そう思った。

 そして、屋上を吹き抜ける風が、俺たちの背中を優しく撫でた。

 この場所が、俺たちの本当の居場所だった。

 そう、確信した。


 ### 第十話:本心を伝える勇気


 屋上へとたどり着いた私たちを、温かい夕日が迎えてくれた。

 息を切らしながらも、私は湊くんの隣に立ち、フェンスに手を置いた。隣に彼がいる。その事実だけで、心が震えるほどの安堵に包まれた。


 「……なんで、私なんかを、探しに来たの?」

 私は、震える声でそう尋ねた。

 湊くんは、私の質問には答えず、ゆっくりと、私の方を向いた。彼の瞳は、夕日の光を受けて、まるで深い琥珀のように輝いていた。

 「……お前が読んでた本。……報われなくても、本当の気持ちは、そこにあったんだろ。」

 彼の言葉に、私の胸は、グッと締め付けられる。

 「……どうして、それを。」

 「雨に濡れてたから、読んだんだ。……勝手に、ごめんな。」


 彼の言葉は、私の心を優しく撫でた。

 (彼は、知っている。私が報われない愛の物語に自分を重ねていたこと。完璧な優等生の仮面の下で、一人で泣いていたこと。)

 私は、彼がそこまで深く、私の心に寄り添ってくれていたことに、言葉にならない感動を覚えた。


 「……俺は、不良でもいい。お前は優等生じゃなくてもいい。」

 彼の声は、夕日のように穏やかだった。

 「お前がどんな人間でも、俺は、お前のそばにいる。」

 その言葉は、まるで魔法のようだった。


 心の奥で、ずっと私を縛り付けていた鎖が、カラン、と音を立てて解けていくのが分かった。もう、自分を偽る必要はない。

 完璧な優等生という、重たい仮面を被り続ける必要はない。

 私の瞳から、止めどなく涙が溢れた。それは、悲しみの涙ではなかった。解放と、安堵と、そして喜びの感情が混ざり合った、温かい涙だった。

 夕日の光を浴びて、私の頬を伝う涙が、まるで宝石のように輝く。


 湊くんは、何も言わず、ただ静かに、その涙を見つめていた。そして、ゆっくりと、私を抱きしめた。

 彼の腕の中に抱きしめられると、私は、初めて、自分の弱さも、不完全さも、すべてを許されたような気がした。

 私の身体から、何かが抜け落ちていく。

 それは、長年私を苦しめてきた、偽りの自分だった。


 私は、彼の胸の中で、子供のように泣き続けた。

 夕焼けに染まる屋上は、まるで私たち二人だけの世界だ。

 温かい光が、二人の心を包み込み、満たしていく。

 ああ、これが、私にとっての「本当の居場所」だったのだ。

 私は、彼の腕の中で、そう確信した。


 ### 第十一話:屋上の誓い


 どれほどの時間が経っただろうか。

 俺は、泣き疲れて眠ってしまったかのような葵を、ただ静かに抱きしめていた。その身体は、もう震えていない。温かく、柔らかい。

 夕日の光が、屋上のコンクリートをオレンジ色に染め、街を深いグラデーションで彩っていた。


 葵が、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、もう涙に濡れてはいない。澄んだ空のような、綺麗な色をしていた。

 「……ごめんね。変な私を見せちゃって。」

 「別に。……そんなこと、ねえよ。」

 俺は、そう言って、優しく彼女の頭を撫でた。


 俺たちは、再びフェンスに寄りかかり、並んで街を眺めた。

 遠くに見える富士山は、夕焼けに照らされ、美しいシルエットを描いている。その姿は、もう俺の心に絶望を映し出すことはなかった。

 「……なあ、葵。お前は、これからどうするんだ?」

 俺は、自分の進路の悩みも、彼女に話すことにした。

 「俺は、正直、まだ何も決まってない。剣道しかやってこなかったから、何をしていいか、分からなくて。」


 俺の言葉に、葵は静かに頷いた。

 「……私は、美術大学に進もうと思ってるわ。本当は、ずっと絵を描くことが好きだったの。でも、優等生として、安定した道を選ばなきゃいけないって、自分を騙してた。」

 葵は、そう言って、空っぽになった心の内を俺に明かしてくれた。

 「だけど、もう違う。……私は、自分の手で、自分の人生を色で塗っていきたい。それが、私の夢なの。」


 彼女の言葉は、まるで夕日のように、俺の心を温かく照らした。

 (葵は、俺と同じように、孤独に戦っていた。だが、彼女は、自分の夢を諦めなかった。俺は、何をしてたんだ。)

 俺は、彼女の言葉に触発された。

 「……俺も、お前みたいに、自分の手で、何かを表現したい。……剣道以外の道で。」


 葵は、少し驚いたように、そして、心から嬉しそうに、俺に微笑みかけた。

 「……湊くん。」

 彼女の笑顔は、偽りのない、心からのものだった。


 夕日は、地平線に沈み、街には無数の明かりが灯り始めていた。それは、まるで二人の心に灯った希望の光のようだ。

 俺は、彼女の手を握りしめた。

 「葵。この場所は、俺の逃げ場所だった。だが、お前と出会ってからは、俺の居場所になった。……そして、これから、俺たちの、約束の場所にしよう。」

 葵は、何も言わず、ただ、強く俺の手を握り返した。


 屋上を吹き抜ける風が、二人の背中を優しく撫でる。

 俺たちは、互いの弱さを受け入れ、ありのままの自分を肯定し合う絆を、この屋上で、確かに、見つけた。

 そして、この屋上を「約束の場所」として、これからも互いを支え合い、困難を乗り越えていくことを誓い合った。

 二人の心は、夕焼けに染まる屋上で、満たされていた。


 ### 第十二話:再構築の季節


 屋上で、湊くんと本心を語り合ってから、私の心は少しずつ変わり始めていた。


 完璧な仮面を被ることをやめたわけではない。ただ、その仮面が、以前ほど重たく感じられなくなった。湊くんの言葉が、私の心に確かな居場所を作ってくれたからだ。

 教室の空気も、少しずつ変わっていった。噂のざわめきは、いつの間にか静まり、好奇の視線は、いつもの日常に戻りつつあった。


 そんなある日の昼休み、美咲が私の席にやってきた。

 「あのね、葵。……ごめんね。」

 美咲は、戸惑いながら、しかし心からの謝罪を口にした。

 「何が?」

 私がそう尋ねると、美咲は俯いて、小さな声で言った。

 「その……坂木くんとの噂、私が……面白がって話しちゃって。翔太くんも、調子に乗って広めて……。本当に、ごめん。」

 美咲の声は、震えていた。彼女は、自分の軽率な行動が、私をどれだけ傷つけていたかを知ったのだろう。


 「……いいのよ。ありがとう、美咲。話してくれて。」

 私は、そう言って、美咲の肩にそっと手を置いた。

 「え……でも、私、ひどいことしたのに……。」

 「大丈夫。もう、終わったことだから。」

 私は、美咲の謝罪を受け入れた。それは、私自身が、完璧な優等生という仮面を脱ぎ捨てたことへの、一つの区切りでもあった。

 美咲は、私の言葉に安堵したように、顔を上げ、涙ぐみながら微笑んだ。


 放課後、私は湊くんと校門で待ち合わせた。

 すると、そこに、翔太がやってきた。

 「……おい、坂木。」

 「なんだよ。」

 湊くんは、いつものようにぶっきらぼうに応じる。

 翔太は、視線を逸らし、居心地悪そうに言った。

 「……その、悪かったな。噂、広めちまって。」

 湊くんは、翔太の言葉に、何も言わず、ただ、静かに頷いた。

 翔太は、それだけで、湊くんが自分を許してくれたことを理解したのだろう。彼は、照れくさそうに頭を掻き、去っていった。


 五月が終わり、六月に入った。

 季節が変わるように、二人の関係も、周囲の理解を得ることで、ゆっくりと、しかし確実に、変わっていった。

 私たちは、もう屋上を「秘密の場所」として使う必要がなくなった。

 下校中、私たちは校門の前で友人たちと談笑し、時には一緒に帰るようになった。

 もう、ひそひそ話をする生徒も、好奇の視線を向ける生徒もいない。

 校舎に差し込む、やわらかな午後の光が、私たちの関係を優しく包み込んでいるようだった。

 私は、湊くんの隣を歩きながら、ようやく、この学校に、そして、この世界に、本当の居場所を見つけられたような気がした。

 私の物語は、ようやく、再構築の季節を迎えたのだった。


 ### 第十三話:友の背中


 放課後、俺は悠真を校舎裏のグラウンドに呼び出した。


 あの日、夕日に照らされたこの場所で、俺は悠真の言葉に何も言い返せなかった。だが、今は違う。葵との再会が、俺に勇気を与えてくれた。もう、俺は何も逃げない。

 グラウンドの隅にある水道の前で、悠真は黙って俺を待っていた。手に握られた竹刀が、彼の揺るぎない決意を示しているようだった。

 「……悠真。ちょっと、話があるんだ。」

 俺がそう言うと、悠真は静かに、しかし力強く頷いた。


 「……俺が、剣道を辞めた本当の理由。……あれは、才能の壁とか、そういうんじゃなかった。」

 俺は、あの時、自分の弱さから逃げたのだと正直に話した。剣道は俺のすべてだった。だが、すべてを捧げたからこそ、その道で限界を感じた時、俺は自分自身を否定されたように感じた。そして、その苦しみから逃げるように、剣道を捨てたのだ。

 悠真は、俺の言葉を黙って聞いていた。


 「……だけど、俺は、葵と出会って変わったんだ。」

 俺は、葵の孤独な姿、優等生の仮面の下にある本当の彼女の姿を話した。そして、彼女が自分の道を見つけたように、俺もまた、自分の道を見つけたいと思うようになったのだと。

 「……俺は、もう逃げない。俺は、俺の道を見つける。……葵のために、そして、俺自身のために。」


 俺が、そこまで言い終えると、悠真は、大きく息を吐いた。

 「……そうか。分かったよ。」

 彼の声は、安堵に満ちていた。

 「お前は、逃げたんじゃなかったんだな。……ただ、立ち止まっていただけだったんだ。……俺は、ずっと、お前が逃げたと思っていた。」

 悠真は、そう言って、静かに、しかし心から微笑んだ。その瞳には、失望の色はもうなかった。

 「……ごめん。俺も、お前に、ひどいことを言った。」


 その時、風が強く吹き、グラウンドの隅に溜まっていた、葵に関する噂話のメモが、舞い上がった。

 俺は、そのメモが風に舞い散るのを、ただ見つめていた。

 だが、悠真は、その中の一枚を、素早く拾い上げた。

 「『優等生のくせに、不良とつるんでる』……か。くだらねえな。」

 悠真は、そう言って、そのメモを強く握りしめた。

 そして、そのメモを、迷うことなく、近くのゴミ箱に捨てた。


 「……坂木。」

 悠真は、俺にまっすぐ向き直った。

 「お前が選んだ道だ。……俺は、お前の親友として、お前の道を応援する。……お前が、どんな道を選ぼうと、俺は、お前のそばにいる。」

 悠真の言葉は、俺の心を温かく包み込んだ。

 俺たちは、言葉を交わすことなく、ただ、静かに、互いの肩を叩き合った。

 夕日の光が、俺たちの背中を優しく照らしている。

 二人の友情は、この場所で、再び、確かなものになった。

 それは、俺が葵と再会した時と同じくらい、心が震える瞬間だった。

 悠真の背中は、いつの間にか、俺を支える、頼もしいものになっていた。


 ---


 ### 第十四話:二人の道、未来へ


 卒業式を迎え、校舎の周りの桜は、まるで祝福の紙吹雪のように舞い散っていた。


 俺と葵は、校門の前で、それぞれ違う進路へと旅立つ。

 「……私、美術大学、合格したの。」

 葵が、少し照れたように、でも、心から嬉しそうに微笑んだ。

 「そうか。おめでとう、葵。」

 俺は、彼女の夢が叶ったことを、心から祝福した。彼女の顔には、もうあの頃のような悲しみの色はなかった。ただ、希望に満ちた、輝く瞳があった。


 「……湊くんは、どうするの?」

 彼女の問いに、俺は正直に答えた。

 「俺は、浪人して、もう一年、頑張ってみる。……別の道で、表現する道を探すために。」

 俺の言葉に、葵は静かに頷いた。

 「きっと、見つかるわ。湊くんなら。」

 彼女の言葉は、まるで魔法のように、俺の背中を優しく押してくれた。


 校舎の屋根を越えて、遠くに見える富士山は、卒業シーズン特有の雪化粧をまとい、その雄大な姿を、静かに見守っていた。

 俺は、富士山を見つめ、思った。

 あの日の雨の中、雲に隠れていた富士山は、俺の心の中の希望を象徴していた。だが、今は違う。雪を被り、静かに佇むその姿は、俺たちの未来を、力強く見守ってくれているようだった。

 俺たちは、これからそれぞれの道を歩む。

 離れても、互いの夢を応援し、支え合う。それが、この屋上で誓い合った、俺たちの「約束」だ。


 校門の向こうで、美咲や翔太、そして悠真が、それぞれ自分の道を歩き始めている。

 悠真は、俺に深く頷き、力強く手を振った。彼の瞳には、もう過去の失望はなく、未来への期待が満ちている。

 俺と葵も、それぞれの進路へと向かう。

 「……じゃあ、またね。」

 「ああ。またな。」


 私たちは、お互いに背を向け、それぞれの道を歩き始めた。

 桜の花びらが、風に舞い、二人の背中を追いかける。

 俺と葵の、新しい人生の始まりだった。


 ### 第十五話:約束の場所


 あれから、数年の月日が流れた。


 高校を卒業し、俺たちはそれぞれの道を歩み始めた。葵は、東京の美術大学に進学し、絵画に打ち込んでいる。俺は、一度は浪人したが、写真を撮るという新たな道を見つけ、今はフリーの写真家として活動している。


 久しぶりに、俺たちは再会した。

 場所は、いつもの、あの屋上。


 錆びた扉を開け、屋上へと足を踏み入れる。

 そこは、もう孤独を癒す「秘密の場所」ではない。俺たちが成長し、本当の自分を見つけた「約束の場所」となっていた。

 フェンスに寄りかかって街を眺める葵の背中を見つけ、俺は声をかけた。

 「久しぶり、葵。」

 葵は、ゆっくりと振り返り、心から嬉しそうな、満面の笑みを浮かべた。その表情には、もうあの頃のような悲しみの色はなかった。


 俺たちは、それぞれの近況を語り合った。

 そして、俺は、一枚の写真を取り出した。

 それは、高校の屋上から見下ろした、あの雨の日に似た、しかし虹がかかった街の風景だった。

 「……俺、写真家になったんだ。」

 葵は、その写真を見て、瞳を潤ませる。

 「俺の始まりは、全部お前なんだ。……あの日、お前の涙に心を動かされて、俺は写真を撮り始めた。だから、俺は、お前が描く絵を、自分の写真で表現したい。」


 葵は、彼の言葉と写真に感動し、そっと自分の手を彼の手に重ねる。

 「…ありがとう、湊くん。あなたの写真、とても綺麗だわ。あの日、雨の中で泣いていた私の涙が、こんなにも美しい色に見えるなんて、知らなかった。」

 彼女は、真剣な眼差しで、俺を見つめ返した。

 「私、写真と絵画って、違う分野だと思っていたの。でも、あなたの言葉を聞いて分かったわ。同じなのね。二人で一つの作品を作れるんだって。」


 葵の言葉は、俺の心を震わせた。

 俺たちの関係は、もう互いの弱さを埋め合うだけのものじゃない。互いの人生を、より豊かにする、共創者としての絆に変わっていた。

 葵は、続けた。

 「だから、今度は私の絵で、あなたの写真集の出版を応援させて。だって、今度は私が、あなたに『本当の居場所』をあげたいから。」

 俺は、彼女の言葉に、何も言わず、ただ、強く彼女の手を握り返した。


 夕日が、屋上をオレンジ色に染めていく。

 屋上から見える街並みは、あの頃とは少し違って見えた。

 それでも、俺たちの心に灯った希望の光は、あの頃よりもずっと、明るく、強く輝いていた。

 俺たちは、これから、それぞれの道を歩んでいく。

 だが、もう一人じゃない。

 二人は、未来への希望を語り合いながら、夕焼けに染まる街を眺めた。

 俺と葵の物語は、これからも、ずっと、続いていく。


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雨宿りの君 舞夢宜人 @MyTime1969

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