第2話 王太子フレデリック・アレクサンドル・ベネルの策略
混乱の夜会も終わり、夜も更けて王城の廊下の明かりも落ちた頃。
地下へ向かう、暗い石造りの階段を男は降りていた。
カツンカツンと足音が響く中、手提げランプの蝋燭の炎が揺れて、オレンジ色の光が男の長身と淡い金髪を照らす。
本来、地下牢になど立ち入ることはない。白に青と金を配した豪奢な夜会服のままで来た男を、牢を見張る衛兵達は困惑することなく迎え、奥へと通してくれた。
先に到着して男を待つ先客がいたからだ。
「待たせたかい。ウォールトン公」
銀のモール刺繍に装飾された黒い礼装が重鎮らしい威厳と迫力を持つ、この国の宰相に男が声をかければ、彼は恭しく臣下の礼をとる。
「ここまでお越しにならずとも、フレデリック殿下」
「それは公も同じだよ。さて、特別に手配した客間の居心地はいかがかな? アリシア嬢?」
鉄格子と石の壁で囲われた狭い牢の中。
鮮やかなカメリア色のドレスを着た、明るい栗色の髪の令嬢が床に膝と手をついてうなだれている。
「……どういうこと……こんな、おかしいじゃない……こんなのっ、だって……」
「レティシアを排除し、この国の王太子と真実の愛で結ばれたのに?」
「そうよっ! 殿下もあたしを抱きしめていましたよね!? あの場にいた人達から祝福もされてっ!!」
声を張り上げながら、勢いよくアリシアは鉄格子を掴んだ。
フレデリックへすがりつこうとしても、鉄格子に阻まれてできない。
ガシャンと激しい音に、「殿下!」と近くにいた衛兵が表情を険しくする。
暴挙にでた罪人と護るべき王太子の間に入ろうとした彼を、フレデリックは白手袋の手を軽く挙げて制した。そして近くにいる衛兵全員を下がらせる。
地下牢の奥に、王子と公爵と伯爵令嬢だけがいる異様な状況だった。
「抱きしめる? 罪人を拘束していたまでだよ。君があの場でなにを口走るかもわからないしね。レティシアを傷つけられては大変だ」
「はあっ!? あはは、なんの冗談!? 傷つけるもなにも殿下があの女を断罪し――ぎゃあああっ!!」
ガンッ、と牢全体が振動する強さでフレデリックが鉄格子を蹴りつけた。
格子を握っていた指を彼の靴裏に踏みつけられたアリシアが悲鳴をあげる。
踏みつけられた指を庇いながら、ひっと彼女は息を引き込んで、牢の中へと後ずさった。顔は穏やかなまま、荒々しく暴力的な王太子の姿にアリシアは本能的な恐怖を覚えた。
「レティシアは公爵令嬢で私の婚約者だ。呼び方には気をつけて」
「殿下、その娘はまだ罪状確定していません。暴力はお控えください」
「ウォールトン公、その言い方では罪状確定したらどうしてもいいように聞こえるよ。アリシア嬢が怯えてしまう」
「な、なに……なんなの……」
身を縮め、震えるアリシアを見てウォールトン公爵は嘆息する。
公爵は彼女から視線をフレデリックへと移した。
呆れ混じりの非難の眼差しを受けて、フレデリックは肩を軽くすくめる。
「悪かったよ。でも王家を支持する王権派を脅かそうと画策する、どこかの伯爵とその娘のためにレティシアとの時間が削られ続けている。ウォールトン公だってらしくもなく、不正を公のせいにされかけ怒っているくせに」
「至らなさは重々反省しております」
二人の会話を聞いて、訳がわからないという顔をしたアリシアに、おやとフレデリックは思案の表情を見せた。
「本当に、私に取りいるだけだった?」
「殿下、尋問前です」
「情報を与えるなって? でもどうやら収穫は薄そうだ。まあ詳しく聞けば、父親と懇意な者くらいは思い出してくれるよね。アリシア嬢?」
本人はその意味を理解していなくても、父親の言動や交友関係など見ていることは多いはずだ。婚約者のいる王太子を陥落する役で動いていたのだから。
それくらいは役に立ってくれないと困る、とフレデリックは胸の内でつぶやく。
(レティシアはなにも知らないはずなのに……)
国を統べ、動かす者は、時に冷酷で非情な判断を迫られる。
そんな王家や、王家を陰日向と支える公爵家の暗部とは無縁な彼女だが、己の名誉を守るついでに政敵を潰す手掛かりも掴んでくれるのだから。
本当に、フレデリックの婚約者はなにをしても国に貢献しかしない。
「アレクもすっかり公爵家の後継者らしくなったね」
「殿下とある意味、同類ですから。姉の頼みならなんでも叶える」
フレデリックに仕える、公爵令息のアレク・ウォールトンを彼は思い浮かべる。
レティシアが十歳の時、公爵家の跡取りに遠戚から引き取られた、彼女の二つ年下の義弟。
気の優しい弟とレティシアに可愛がられているが、初対面からフレデリックと張り合い牽制してくる。
しかし彼がどれほどレティシアを慕おうと、彼女の婚約者はフレデリックだ。
姉の前では猫を被っているアレクに対し、フレデリックはもちろん将来の兄として親しみを持って接してあげている。
不意に、ごそっと、かすかな衣擦れの音がして、フレデリックは牢の中で震えているアリシアを思い出した。
「ああ、忘れていた」
「っ……! なっ、で、殿下がこんな人だなんてッ……あのおんっ、あああの人……レティシア様も、どうかしてるわっ!?」
「学習能力はあるね。しかし、いやしくも君の自作自演の黒幕にしようとして、レティシアを美しいだけの公爵令嬢と思っているとは。君の父親はただ私を籠絡しろと指示しただけかな?」
彼女を懐柔するか、もしくは父親同様厳しく処するかウォールトン公と共に見極めるためにきた。
夜会を終えて、客間を用意させるとアリシアに告げて、側近の護衛騎士に彼女を任せ、前もって手配していたこの特別な客間に案内させた。
「貴族の食事に野菜を多く使うようになったのは、いつ頃からだと思う?」
「は? え、食事?」
「栄養が大事なんだってさ」
フレデリックの脈絡のない問いかけについていけなかったのだろう。
眉間にしわを寄せて訝しむアリシアに、くすりと彼は笑んだ。
「それに十数年前まで、飲み水は、水に浄化魔法を直接かけるだけだった。もちろん貴族だけが。魔法師は少ないからね」
「……だから……なんの話……?」
「いまは生活用水と排水とを分け、魔法師が作った浄化装置を設置している。おかげで王都も地方も疫病が激減した。他にも色々と、国庫もかつてないほど潤っている。それが全部彼女の言葉をきっかけにしてと言ったら、君は信じるかい?」
ぽかんとフレデリックを見るアリシアの表情に、彼は満足気に口元をつり上げた。
「私の婚約者はね、思うまま話し行動するだけで国に貢献してしまう。おかげで“ウォールトンの知恵姫”なんて異名で一部では呼ばれ、君の父親みたいな王家を貶めたい貴族をはじめ、他国にまで狙われて大変なんだ」
もっとも本人はいたって無自覚で、そのことを知らない。
すべて彼女の父ウォールトン公爵やフレデリックの力を使い、近年では彼女の義弟のアレクも参加して、彼女に敵の真意を知られないよう完璧に処理し守っている。
彼女はいつだって天真爛漫に過ごしているだけだ。できれば窮屈な貴族社会とは距離を置き、静かに暮らしたいと思っていることもフレデリックは知っている。
「殿下、喋りすぎです」
「どうせ貴族社会には戻れないんだ、婚約者自慢くらいさせてよ」
フレデリックの言葉の意味に、さっと真っ青な顔色になったアリシアを見て頃合いかと彼は鉄格子に両手を掛けた。
軽く身を屈め、フレデリックを見上げるアリシアと目線を合わせる。
彼女が向けてきた憧憬や恋情は、この牢とさっきの蹴りで粉々になったはずだ。
幻滅では生温い。フレデリックの仕打ちを吹聴できない恐怖。今後の不安。父親への不信感や家ごと助からない絶望……そこに、ほんのわずかな希望を投げかける。
「アリシア嬢」
夜会で一緒にいた時までの、甘く優しい王子の声音でフレデリックは囁いた。
びくっとアリシアが肩を震わせる。
フレデリックの本性を知った後では、こんな囁きはただ恐怖を煽るだけだろう。
そのことを承知の上で、にっこりと彼は彼女に微笑みかけた。
「いまある証拠だけでも、君も、君の父親も、罪は免れない。けれどもっと根深いところまで一掃したくてね。私の想い人と噂されたよしみで手伝ってもらえないかな」
「あ、あたしは……」
「もちろん尋ねていないよ。これは命令だ」
石造りの牢にうずくまり、哀れに震えるアリシアに向けてフレデリックは笑みを深める。その微笑みはアリシアから見て、彼から向けられた微笑みのなかで一番甘く蠱惑的なものだった。
「それに父親の指示もあってとはいえ、君は、私だから近づいてきたのだろ?」
いまのフレデリックだから。
虚弱で頼りない、次に生まれる王子に期待と言われていた。もしくは傀儡としてなら価値があると揶揄された頃の彼なら、アリシアは関心すら向けなかったはずだ。
八歳で引き合わされた時から、王子でも、王家による政略結婚相手でもない。
ただの同い年の男の子としてフレデリックに接したばかりか、あれこれとお節介を焼いて彼を困惑させたレティシアとは違う。
(レティシア自身で回避したことでも、彼女を陥れようとした罪は償ってもらう)
うなだれて、こくんと小さくうなずいたアリシアに、「では、ウォールトン公」と彼女の処遇と対応は任せてフレデリックは地下牢を後にした。
*****
夜会から二週間と少しが過ぎた頃――。
品よく整えられた幽閉塔の一室のソファに掛けて、フレデリックは愛する婚約者との再会を果たした。
「レティシア、君の名誉は回復したよ。出てきてくれないかな?」
「どうして……」
「君が義弟殿に命じ、バルドズ卿の悪事を暴く手掛かりを掴んでくれたのだろ? おかげで迅速に処理できた」
夜会の出来事は、すべてウォールトン公爵ならびに王太子の婚約者レティシアを陥れる陰謀を暴くための、フレデリックの策略と発表した。
同時にバルドズ伯爵他、一連の関係者の罪状や証拠も公表した。
断罪劇に静かに応じたレティシアは、婚約者として王太子の考えを察して対応し、自身の潔白を立証する手立ても講じていたことも、フレデリック自ら説明している。
正直、貴族達が騒いだ宰相に対する陰謀などより重要だ。
私の婚約者を称えよとフレデリックが言うまでもなく、レティシアの冷静さは王太子妃、未来の王妃に相応しいと評判は上々である。
断罪劇後にフレデリックとアリシアの真実の愛を祝福した、彼等の気まずさの裏返しなのはもちろん計算の上だ。
(とはいえ、レティシアが簡単に出てくれるとは思えない)
彼女好みに整えられた部屋を見て、フレデリックは確信した。彼女は幽閉を盾に、王太子妃を辞退どころか貴族令嬢としての義務からも、快適に逃れるつもりだ。
まず、アリシアに関する誤解を解いた。レティシア以外を思うなどありえない。
アリシアは情報を絞りとるだけ絞りとり、温情で北の山脈にある、この国で最も厳しい修道院送りとした。
厳しい大自然の中で神に仕えれば、罪も清められることだろう。
「そう仰いましても、一度は裁かれ世間を騒がせた身ですから無理です」
フレデリックはレティシアの言葉に、やはりそうきたと胸の内でつぶやく。
子供の頃からフレデリックはレティシアを見ている。
王妃の資質は十分。
しかし本人の望むところは、平凡かつ平穏で気ままに過ごせる生活。
敵を欺くためと発表しても、レティシアが幽閉を盾に取ることは目に見えていた。
しかしレティシアが狙われていた以上、現状最も安全なのはこの幽閉塔でもある。
(王太子は辞められるものではないし、彼女を完璧に守るためにもその力は必要だ)
妃教育への疲れとしても、あっさり否定される。まあそうだろう。
柔らかな藤色の瞳が幼い頃の可憐さを残す、レティシアの顔を眺めながら貴族的な攻め方は通用しないとフレデリックは判断した。
顔見知りの公爵家の侍女が出したお茶のカップを口に運んで、一呼吸置く。
ここが王城と違い、人の目を気にしなくて済む幽閉塔なのは都合が良い。
「ねえ、レティ。教えて欲しいんだけど」
王太子から幼馴染の口調に切り替え、彼は手に持っていたカップをテーブルに置いて立ち上がると、レティシアの座るソファへ移動し、隣に強引に座った。
「な、なに急にっ」
「まあいいじゃない、ここは幽閉塔だしさ」
「ですね、王太子がくるところじゃないですねっ……って!」
彼女の手からカップを取り上げて、テーブルへ置く。そのまま華奢な両手を捕まえて、同じソファの上で向き合い、にっこりとフレデリックはレティシアを見つめた。
「アリシア嬢へのものすごく微妙な嫌がらせとか、私に向けた言葉とか、少しは嫉妬が――」
「ないです」
「言い終える前から即答しないで。本当に? ひとかけらも?」
「な・い・で・すっ」
ぶんぶんとフレデリックの手を外そうと腕を上下に振りながら、むきになって言うレティシアが可愛い。
ご要望通りに解放するかわりに、フレデリックは彼女の耳の後ろへと右手を差し込み、引き寄せて口付ける。
軽く触れ合わせるくらい許されるだろう。だって、
「〜〜っ!」
フレデリックを引き離そうと両手で押してきたが、その力は弱い。
子供の頃にレティシアがフレデリックの手を引き、外へ連れ出そうとした時の方がよっぽど強引で力強かった。
小さくてかわいかったのに……と、なんとも形容し難いしかめ面でぶつぶつ呟いているレティシアに苦笑しながら、もう一度フレデリックは問いかける。
「本当に、レティ?」
「……砂粒一つくらい、なら……」
ぼそっと答える婚約者が可愛過ぎて、フレデリックはようやくここ何ヶ月かの彼の苦労が報われた気がして、ぎゅっとレティシアを抱きしめた。
(彼女のお望み通りに、ここに囲ってしまうのもいいかもしれない)
レティシアが「はーなーしーてー」と身を捩りって訴えるのをフレデリックは無視する。婚約者として、砂粒一つでも嫉妬させた責任があるのだから。
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