第6話 家事をしよう

 昼頃に引っ越してきてから早四時間。気づけば時計の針は十六時半を指していた。


「……早い、もう夕方か」


 荷物の片づけを終えた花は、スマートフォンの画面を操作していた手を止める。一人で暮らしていたこの一か月、この時間になると夕飯を作り始めていたんだっけ、と思い返す。と言っても、一応の家族がまだ存在していたときも自炊はしていたが。


「やよいさん、何をしているんだろう」

 花はスマートフォンを充電コードにつなぐと、部屋を出て階下へ降りた。


「やよいさん、そろそろご飯とか作るんだったら手伝いますよー」


 そう言いながら花はリビングに入ったが、その瞬間に彼女は驚いて目を丸くした。


「……え、もう準備してあるんですか?」


 食卓の上。そこに花の目は釘付けだった。綺麗な陶器の大皿にきれいに並べられた刺身と三人分にしては少々多すぎるくらいに炊かれている白米。炊き立てなのか、白米の入れられている大きな入れ物からは湯気が立ち上っていた。


「おー、花。片付けは終わったのか?」

「あ、はい。終わりました。その、何か手伝おうと思って降りてきたんですけど……」


 花が正直にそう言うと、やよいは明るく笑った。


「あはは、ありがとうね。でも今日は必要ないかも。お刺身は買ってきちゃったし、ご飯も今ちょうど炊き終わったところなんだ。あとは酢飯のもとを混ぜるだけだし」

「……じゃあそれやります! やらせてください!」


 反射で思わず手を挙げていた。なんだかしのびなかったのだ――ただただ「お世話になっている」という今の状況が。きちんと自分用の部屋まで用意してもらえて、家具も揃えてもらっていて、お刺身というご馳走も出てきていて、それで自分は何もやらないなんて、花は耐えられなかった。


「そんな必死そうに言われたら任せるしかないわな」


 やよいは笑いながら、冷蔵庫から酢飯のもとを出して花に手渡した。


「じゃあ、これ頼むよ。分量見ていい感じに飯に味付けてくれ」

「はい!」


 花はそれを受け取って、ホカホカと湯気をたてている白米の前に立つ。――と、そのとき。


「魔女。俺も何かやる」


 リビングの扉の前に人影が立った。琥太郎である。


「琥太郎も降りてきたの……? あ、さては花が手伝いに来たのを見て、まずいと思ったんだろう」


 やよいがにやにやとしながら尋ねる。すると琥太郎は思い切り顔をしかめた。


「っせーな、んなわけねーだろ。世話になってばかりいて、恩着せがましく後から何か求められても嫌だしな。……ま、その様子だと飯関連はもういい感じか」

 琥太郎は踵を返した。

「風呂沸かしてくる」


「結構琥太郎も、気が利く人間よな」


 やよいが誰に聞かせるともなく呟いた。花はそれに同意しながら、酢飯を作る作業に戻った。


 ◇◆◇


「じゃあちょっと早いが、疲れて腹もすくころだと思うからご飯にしようか」


 やよいの声掛けで、再び花と琥太郎はリビングに集まる。三人で小皿や醬油を出してから、席に着いたやよいが言う。


「酢飯の上に刺身を乗せて海鮮丼にするもよし、海苔もあるから手巻き寿司にしてもよし、とにかく今日は新生活幕開けのお祝いだ。食べまくるぞー! いただきまーす!」

「いただきます!」

「……いただきます」


 花と琥太郎もそれぞれ手を合わせてから箸を取った。


 どんぶりにご飯を盛って、刺身を上に乗せる花。


「お、花は海鮮丼にするんだな」

「はい。やよいさん、醤油取ってもらってもいいですか」

「あいよ」


 花はマグロとご飯を同時に口へ運んだ。醤油のしょっぱさと、マグロの新鮮さと、酢飯の味が舌の上で広がる。


「……おいしい」

「まあ、魚はあたしが釣ったわけじゃないけどね。そう言ってもらえてよかった」


 やよいは琥太郎の方にも目をやった。


「琥太郎は? さっきから黙ってずっと食べ続けているところを見ると、さてはおいしいと感じてるな?」

「ああ、うまいよ。いちいち構うな、俺はまだお前のことを信用していないんだからな」

「はいはい」


 素直ではない琥太郎に、花もやよいも少し笑う。


「何がおかしい、花」

「いや、なんでも? 琥太郎」


 いつの間にか下の名前で呼び合うようになっている二人を見て、やよいは驚く。


「あれ、仲良くなったんだ」


「……まあ、仲良くなったっていうか」


 花が琥太郎を見て言った。


「なんか琥太郎が勝手に私の部屋に侵入してきて」

「誤解を招くようなこと言うな」

 琥太郎は咳ばらいをして続ける。

「なんかこいつが、お兄ちゃんとか呼んできやがったからな。それよりはっていうことで呼び方を決めたんだ」

「ふぅん、お兄ちゃんでもよかったのに。その方が家族っぽいし」


 やよいの一言に、琥太郎はため息をついた。


「出会ったばかりの他人から呼ばれるのはハードル高いだろ」

「まあ、それもそうか」


 やよいが納得したところで、花は訊いてみた。


「あの、私と琥太郎は兄妹って感じで外面は保とうと思うんですけど……やよいさん、あなたのことはどう呼べばっていうか、どう見ればいいんですか?」


 時に若く、時にものすごく長い時を生きているように見える宮月やよい。彼女のことはどうとらえればいいのだろうか。


「お母さん……にしては若すぎるし」

 

 ふと、死んだ母のことが頭をよぎる。彼女は何歳だったのだろう。家族が花の誕生日を祝わなかったのと同じように花もまた母と父の誕生日にも年齢にも関心がなかった。死亡診断書のどこかに享年が書いていた気もしなくもないが、もう覚えてはいない。


「そうだな……」

 やよいは少し唸ってから、こういった。

「年の離れた姉にしよう。無理があるとは言わせないぞ。二十代に見えるように少し頑張って、そしたら琥太郎と十ほど違う姉になれそうだからな」


 彼女がそう言った瞬間、花の目に映るやよいは、少しだけ年齢が変わって見えるような気がした。何か明確にここが変わった、というべきところはない。しかし、今年齢を聞かれれば確実に「二十代」だと答えるだろう。


 琥太郎も同じ変化を目の当たりにしていたらしい。


 ホタテを口に運びながら、つぶやいていたのが聞こえてきた。


「化け物かよ……」


 さすがは魔女。花は驚きと尊敬の目で、「姉」を見つめたのであった。

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