僕の前世は弱虫の犬だった
秋色
After Life
前世の事を憶えているなんて話をすると、たぶんどんな相手でも変な顔をするだろう。アブナイ人間だと思われて、距離を置かれるかもしれない。それでもそれが事実だという事に変わりはない。
つまり僕には前世の記憶がある。この人生では行った事のない場所の記憶があり、それらの場所の細かな特徴、土の色合いや匂いまでが鮮やかによみがえる。今でも、知らない土地に来て、きーんと何か刺激が身体を走る事がある。きっと前世でも訪れた場所なんだろう。
土の色合いや匂いなんて気にした事ない人の方が多いから、嘘だと思われるかもしれない。でも本当なんだ。
なぜなら僕の前世は犬だったのだから。
それも、くしゃくしゃの毛のしょぼくれた犬だった。
くしゃくしゃの毛のしょぼくれた犬の僕は、そのうえ弱虫だった。
最初の記憶は、大勢の子犬がいる大きな施設だった。僕も子犬。今考えると、保護された犬を預かる施設だったのかな。
それまでの記憶は一切なく、ただ何となく憶えているのは生まれた時から雑な扱いを受けてたって事。だから施設のニンゲンから乱暴な扱いをされても、あまり腹も立たなかった。これが普通だと思ってたから。
だけど唯一慣れなかったのは、ちょっとキツめの首輪。首輪がキツめのせいで、皮が擦りむけて痛かった。それを必死で「ウンウン」うなって訴えかけるけど、どうにもならなかった。
「オマエも組織の中にいるんだから、首輪に慣れなきゃな。それがこの世のルールってものだ」
そう施設のニンゲンから言われて我慢するしかなかった。
一番楽しかったのは食事の時間。お皿に盛られたポコポコしたご飯を鼻で嗅ぎ、口にいれる時が、そこでの幸せな時間だった。ホントはたぶん上等でないご飯だったかもしれない。いつも器によそってくれるニンゲンが「ほんとこれが好きなんだな。安上がりな子達だ」と言ってたから。でもこれは習性というものなんだと今にして思う。犬というのは、一度好きと思ったものを簡単には変えられないんだ。習性というやつ。それを僕はいつも自分の中に感じていた。
他にも色々習性はある。朝起きてお腹が空いたり、食べると運動したくなったり。自然と身体が憶えて反応するもの。ある刺激でおとなしい犬も闘いのモードになったりする。それはどんな犬でも同じなんだろう。その施設に住む僕達の仲間はさまざまだったけど。
仲間の中には立派な血統書ってやつを持っていそうな子犬もいた。一方、僕よりもしょぼくれてぐったりした子犬もいた。でも僕よりもしょぼくれの犬はすぐにこの世を去るから、僕がその場所でナンバーワンのしょぼくれ犬になるのに、そう時間はかからなかった。
僕はいつも広い場所の隅っこにいた。壁際にいる事もあれば、外との境目に張りめぐされた柵の側にいる事もあった。
他の子犬達が仲良く遊んでいる時には、僕はそれをうらやましそうに眺めていた。
仲間の中には、何匹か兄弟の子犬達もいたし、本当の兄弟でないけど、まるで兄弟であるかのようにいつも仲良く寄り添っている子犬同士もいた。そういう子達は、灰色の施設の中でも幸せそうに輝いて見えた。
でもしょぼくれ犬の僕には、誰も親しくしてくれず、いつでも独りぼっちだった。ちょっと年上の面倒見の良い女の子の犬が、時折声をかけてくれた。「あんた、ぐずぐずしてると食べ物を取られちゃうわよ」とか、「あの大きな声のニンゲンにはおべっか使ってた方がいいのよ」とか。
たまに外から来たニンゲンに気に入られ、その灰色の施設を出ていく仲間がいた。誇らしく尻尾を振って、身なりの良いニンゲンと一緒にピカピカ光る車に乗るのだ。それは他の仲間達にとって憧れの景色だった。仲間達は、いつか自分にもその機会が訪れると信じていた。
それでも僕には程遠い夢のような別世界としか思えなかった。
そんなある日、柵の側で陽の光を背に感じていた僕は、柵の向こうに、履き古した一組の革の靴が止まるのを見たんだ。
それまでも柵の側にいると、さまざまな靴の通り過ぎていく音が聴こえた。軽やかな靴音。重々しい足音。でも僕の事を見るために立ち止まる靴はそれまでなかった。この履き古した革の靴が柵の向こう側で止まるまでは。
それは若くもなく、かと言って年をとっているわけでもない男の人だった。優しい眼で僕をずっと見ていて、そして鉄の扉を開けてもらい、施設の人と話を始めたんだ。その男の人は、僕に近付くと、クシャクシャの毛を撫で、柔らかな声で「安心していいんだよ」というような言葉をかけた。
やがて施設の人と話がついたのか、しばらくするとその男の人は僕を引き取りに来た。
他の子犬の時のように立派な車なんかではなかったけど、心の中では誇らしく感じていた。だから僕は自然と尻尾を振っていたんだ。
それから全てが変わった。
僕はその男の人の所で生活するようになった。つまりその人が僕の飼い主になったという事。
初め革の靴の人は、新しい首輪を付けようとしたけど、僕があの痛みを思い出してブルブル震えると、「いやならもういいよ」と二度と首輪を付けようとはしなかった。
そして施設のニンゲンみたいに嫌な態度は一切取らず、毎日、朝と夕方、近所に散歩に連れて行ってくれた。色々な心地よい匂いの立ち込める道を風を受けて歩くのは気持ち良かった。
朝の散歩の後、朝ごはんを食べると革の靴の人は仕事に出かけ、夕方帰って来てまた散歩に出かける。
夜は、ゆっくり音の出る箱を聞きながら過ごした。それはラジオであったと今では思う。たまには絵の出る板を見て過ごす事もある。それはテレビであったと今では思う。
革の靴の人は、よく紙に絵を描いて過ごした。そして同じ部屋に寝そべる僕に何度か話しかける。ニンゲンの話す言葉を知っていたわけではないけど、でもいつも大体言おうとしている話の内容を理解できていた。優しい言葉だったから。
革の靴の人が僕に芸を教えたり、何かを無理強いする事はなかった。僕に何も望もうとしなかった。一緒にいる事以外は。
革の靴の人が仕事に出かけて留守の間は、独りぼっちで部屋の中で待った。今頃あの革の靴をかつかつと鳴らし、どこかの街角を歩いているのだろうかと考えると、楽しくなった。
そして、かつていた施設で、仲良しの子犬同士がなぜ毎日幸せそうにしていたのかが分かるようになった。
でも穏やかな日は永遠には続かない。ある時から革の靴の人はやせ始め、常に体の具合が悪そうに見えた。そして長い間僕を友達の夫婦に預ける事が増えてきた。しばらくぶりに革の靴の人が僕を引き取りに来ると、僕は喜んでまつわりついた。もう二度とどこにも行かないでと泣きついた。もちろん犬の言葉で。
やがてある日、革の靴の人は、僕を連れて遠出した。籠に入れられ、ゴトゴト鳴る電車というものに乗って辿り着いた場所は、懐かしいような香りのするとても広い場所だった。そして革の靴の人は、「ほら、これが潮の香りだよ」と言った。そして「これを一緒に見たかったんだ」
そう言って見せてくれた眩しいような一面の風景は、だんだんまろやかな感じに変わっていった。
「きれいだろ? 夕陽のオレンジ色」と言った。それで僕には色というものは分からなかったけど、このオレンジ色を僕と一緒に見たかったんだと思った。
「僕が今度病院に入ったら、もう二度と一緒に暮らせはしないだろう」というような事も言ったと思う。僕はそれに情けない声を上げて抗議するしかなかった。
革の靴の人の命が残り少ない事を感じていた。でも結局僕が革の靴の人の死を悲しむ事にはならなかった。
なぜなら、僕の方が一足先に死んだのだから。
その旅の終わりに土手を歩いていた時、革の靴の人がふらふらと倒れかけ、それに驚いた僕はとっさに駆け出し、繋がれてもいなかったから、土手から転げ落ちてしまった。そして命を失ったんだと思う。最後に憶えているのは、僕を撫でている誰かの優しい手だった。
***
「夕陽のオレンジ色、きれいでしょ?」
「好きな人が出来たら一緒に見たかった風景があるって言うから、何かと思った。夕暮れの海だったなんてね。遼人君ってほら、何ていうかな?」
「何?」
「あれよ。よく社長さんが言う。あ、そう、『ロマンチック』」
「よくそんな言葉知ってるな。こないだまで日本語苦手だったのに」
「技能実習生だもん。でも遼人君こそ、日本語あまり話せなかった私なんかでも普通に接してくれてうれしかったよ」
「そう?」
――前世は犬だったくらいだから言葉なんてどうでもいいさ――
僕はそう心の中で呟いていた。
「きっと海とオレンジ色が好きなんだね」
それに僕は答えられなかった。と言うか、心の中で答えていた。
――好きな人と見たい風景はこれしかないって信じてるから。
きっと習性なんだよ、犬の時の。
信じてるものは永遠に変わらない――
〈Fin〉
僕の前世は弱虫の犬だった 秋色 @autumn-hue
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