あの子
有線いやほん
I can't forget about the girl.
「子どもって、かわいいよね」
橙色の日差しに目を細めながら、帰りの電車で先輩は言った。
きっかけは、向かいの席の母親が抱いている赤ん坊――生後二ヶ月くらいだろうか――を見つめる先輩に、僕が声をかけたことだった。
先輩は面倒見が良いからいつも周りに頼られていて、まだ二十代だというのに職場では母親のように慕われている。だから当然、先輩は子ども好きだと思っていた。
けれどもそのときの先輩は赤ん坊に対して、慈愛や愛しさというより、むしろ憐れみと憎しみの視線を向けていた。その様子がなんだか僕の知る先輩じゃないようで、まるで誰か別人のようで、僕はどうかしたのかと訊いたのだ。
*****
子どもって、かわいいよね。たぶん誰でもそう言うんだろうね。
でも私はそうじゃないのかもしれない。子ども見てると腹が立ってきちゃって。あぁ、「きゅぅとあぐれっしぶ」ってやつじゃないよ、たぶん。
きっかけかぁ。やっぱ中一のときのアレかな。
私のおじいちゃん、医者だったのね。医者ってよく、浮気しやすいって言われるじゃん? 案の定だったの。浮気してた。
ちゃんと知ったのは私が中一の年の冬休み。『今日は大切な話があります』とか言う母親に連れられて、おじいちゃんと祖母が住んでた家に行ったの。話があるってことしか知らされてなかったから、よくわからないままにリュックだけ背負って電車に乗り込んだ。母親はずっと怖い顔して黙りっきりだったから私は暇になっちゃって。もしかしたら母親はホームで電車に飛び込んで私と心中しようとしてるんじゃないかとか、私の父親が不倫してて離婚することになったから私と一緒に実家に帰ろうとしてるんじゃないかとか、起こり得る最悪の状況を妄想して時間を潰してた。後者の方はわりと惜しかったけどね。
電車を何回も乗り継いでようやく家に着いたら、居間のところでおじいちゃんとその愛人と祖母がそろって待ってて、そのときになってやっと『おじいちゃんが不倫してました』って聞かされた。前から母親の態度がおかしかったし、親戚の集まりにもおじいちゃんだけ理由をつけて来ないことが続いてたから、薄々なんかあるとは思ってたけど、まさか不倫してた上に、
確か女の子とか言ってたかな。化粧が濃くて茶色い髪の毛をくるっくるに巻いた女が、まだ乳幼児の赤ちゃん抱っこしておじいちゃんの隣に座ってて。大人たちから説明される前にそれ見て全部察した。まだ中学生だったのに無駄に頭の回転は良かったから。
話し合いのためか私以外の全員が机を囲んで着席してるのを見回したら、愛人は得意げな顔で鼻をふくらませてて、隣に座ったおじいちゃんは気まずさと煩わしさのごった煮みたいな顔をしてたのが見えた。机を挟んで向かいに座った祖母と母親は、私が見たことないくらいに冷たい目で祖父と愛人のことを睨みつけてた。あのときの私は二人の知らない顔を見て怯えてたけど、今思うと祖母と母親は、私の知らないところでは何度もその表情をしてたんだろうね。
『紹介しまーす! ワタシとタケシさんの娘で生後二ヶ月になります、ツムギちゃんでーす』
愛人が赤ちゃんの手をふにふに揉みながら場違いに陽気に言った。愛人はそんなに若くは見えなかったけどおじいちゃんよりは圧倒的に年下だから、浮かれた声でおじいちゃんのことを名前で呼んでいるのが痛々しくて気持ち悪くって。睨み続けていた祖母や母親は愛人のことをよく直視できるなって、私も場違いに少し感心した。
感情を押し殺したような抑揚のない声で祖母が切り出した。
『本題に入りますが、貴方は夫と別れる気はあるんですか?』
祖母はマスカラやアイシャドーで濃く塗りたくられた愛人の目を見据えて続けた。
『もちろん養育費などは払うつもりです。その上で、貴方は私の夫と別れる気は……』
『何言ってんの、あるわけないでしょ!』
愛人の金切り声が祖母を遮った。
『こんなシワシワのオバサンに縛られて、タケシさんが可哀想だと思わないの!? あんたの方こそ別れなさいよ!!』
『なんですって!? もういっぺん言ってみなさいよ、この泥棒猫!!』
身を乗り出してわめく愛人と祖母の手元で湯呑みが倒れて、緑茶が机に広がっていくのを、そのときの私は少し離れたところに立ったまま無言で見つめてた。おじいちゃんは女同士の争いに怖気づいたのか身体を精一杯縮こまらせて争いに巻き込まれないようにして、母親は興奮した動物二人を必死になってなだめてた。
『あ、そうだ。そこのお孫さん』
初めて愛人に話しかけられて、とうとう怒りの矛先がこっちに向いたかと思って肩を震わせた。
『うちのツムギちゃんのこと、ちょっと預かっててくれる? このオバサンに怪我させられたらたまったもんじゃないから』
思いの外マトモな内容だったから、祖母と母親が呼び止めるのを聞かないふりして、赤ちゃんを抱き上げて和室に引っ込んだ。親戚のこんな修羅場、中学生に見せるもんじゃないから、ちょっとだけ愛人に感謝だよね。
本棚にあった万葉集だかの本だけ暇つぶし用に引っ張り出して、居間を横切ってさっさと和室に避難した。埃っぽい濃い紫の座布団の上で胡座をかいて、赤ちゃんは膝の上にのせたの。和室ではちょうど今みたいに夕暮れの日差しが磨り硝子から差してきてて、橙色に照らされた襖の向こうから大人たちの声が聞こえてた。なんて言ってるかまではよく聞き取れないけど、怒鳴り合ってるってことはわかった。聞き馴染んだのよりもずっと荒々しい祖母と母親の声。久々に聞いた祖父の声と、まだ聞き慣れない愛人の甲高い怒鳴り声。たまに食器の割れるような音もした。懐かしい石油ストーブのにおいが部屋に広がっていて、いつもの祖父母の家のはずなのにまるで現実感がなくて、昼間っから夢を見ているみたいで頭がふわふわした。暖かかったけど空気が乾燥してて、私はページをめくる指先がカサカサするのを気にしてた。ううん、気にしようとしてた。
『………………』
膝の上にのせてた赤ちゃんが私のことをずっと見てきてて、私は無言のまま、その子と目を合わせないようにしてた。たまに本越しに見ると赤ちゃんは何の感情もない顔で私のことを見つめてて。可哀想だよね。何もわかっていないんだから。すぐ隣の部屋で怒声が聞こえても、自分の実の母親と、実の父親の妻が罵り合いしてても、自分のことを抱いてるのが自分の姪っ子でも、そういうのを何も理解してないんだから。
『この*****め!』
『*****ねよ、このク**バア!!』
『**なし女こそ***っちまえ!!』
私はその子に目を向けないようにしながら、襖越しの大人たちの声も聞きたくなくてずっと本を読んでた。少し黄ばんだ紙には見開きごとに歌と解説が載ってて、かなりページが多かったから飽きることはなかった。万葉集って恋の歌が多いからさ、「あなたを忘れない」とか「ずっと待っている」とか、そういう内容ばっかなの。そんな恋なんてまわりに迷惑なだけなのにって実感した。
でも本なんて読んでても怒鳴り声が聞こえなくなるわけじゃないからさ。嫌な言葉を耳が拾うたびに大人たちを恨んだ。なんてもん子どもに聞かせてるんだ、って。普段優しい祖母が、母親が、声を荒げるのを黙って聞くのは、想像以上にメンタルにきて、だから私は気をそらしたくて考え事してた。刑事罰って十四歳からだっけ、とか、これがドラマや映画なら赤ちゃんの首を絞めてるところだろうな、とか。あぁ、安心して。実行はしてないから。でもまぁ想像はしたよね。
薄い座布団の上で万葉集を読み続けて、日もほとんど沈んだ頃。だから一時間半くらいした頃かな。げっそりした母親と目のあたりを赤くした祖母が襖を開けて、私を部屋から出した。二人とも口を利く気力もなかったみたいで、私と母親は無言のまま家を出て、無言のまま電車で我が家まで帰ったの。一言も話さなかった。目も合わせなかった。赤ちゃんの方は愛人が抱っこしてどっかに連れてったみたいだから、その後はわからない。
赤ちゃんを愛人に抱き渡したとき、私は愛人の頬に赤い手形が残ってたのに気づかないふりをした。化粧の濃い目が合ったとき、私はおじいちゃんと祖母の孫だから嫌な顔をされると思ってたのに、愛人はバサバサの睫毛でにっこり笑ってきた。たぶんご機嫌取りだろうとは思うけど、不気味だよね。よくもまあ笑えるよ。赤ちゃんの方はあいかわらず無表情で私の方を見てたけど。あの表情が私にとって、あの子の最後の記憶になったの。
*****
もう十三年も前のことだけどね、と言って先輩は締めくくった。
あぁ、そうか。先輩は目の前の赤ん坊を通して、十三年前のあの日の祖父母のことを、母親のことを、愛人のことを、自身の叔母のことを見ていたのだ。
「あの子も今はあの時の私と同じ歳のはずだけど、やっぱり私の中では赤ちゃんのままなんだよね」
スーツを着て髪をひとつにくくって、すっかり社会人となった先輩は、今は十三歳になった少女のことを「あの子」と呼んだ。先輩の中での「あの子」は、祖父の愛人の娘であり、自身の叔母であり、何も知らない無垢な赤ん坊なのだ。
向かいの席の赤ん坊が、小さな笑い声を上げて先輩に手を伸ばした。先輩はなんだか、懐かしむような憐れむようなにっこりとした表情を返した。
その目は、十三年前の「あの子」に向けられていた。
あの子 有線いやほん @SpnSil319
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