私の「戦争体験」V.2.2
@MasatoHiraguri
第1話 第0話 「戦争を知らない子供たち」
私は80年前の戦争のことは知りません。
しかし、父母や祖父母、或いは叔父や伯母、また当時の日本人からいろいろな話(肉声)を聞いてきたので、いま大学で日本拳法をやられている若い方達よりは、ずっと身近に先の戦争について知っています。
もちろん、それらは科学的な検証などできない話であり、万国共通・普遍の論理というものではありません。個人的な体験(話)ですから、良い悪いという一般的な評価はできない。あくまで、こういうことがあった、こんな話を聞いた、というだけです。
しかし、「人づてに聞いた噂」ではなく、当人たちがその時・その場で実際に体験した事実です。それらは極めて限られた個人的な事実ではありますが、そんな現実をベースにした上で、本や新聞・テレビに於ける報道を自分なりに取捨選択しています。
欧米人が聖書(②(the Holy Bible)旧約聖書・新約聖書の総称。バイブル。広辞苑)という、現実に起きた話・事実の書かれた書、それは3,500~2,000年かけて「世界中の人間の常識」によって鍛え上げられてきた書であり、出版されて数年・数十年で消え去るような「ノンフィクション」とは違うのですが、その「事実」を精神的な規範として、いま目の前にある様々な問題を解きほぐしていく、というアプローチの仕方と同じです。
いまの若い方は本やマスコミの報道という知識がすべてかも知れませんが、私の場合は、「人の肉声という現実」を判断基準にした上でのものの見方・考え方なのです。
第1話 私の「戦争」体験
① 10数年前、台湾は高雄の師範大学内にある語学学校にいた時のことです。
月曜から金曜まで9時から12時までの授業で3ヶ月間でしたが、終わりの一ヶ月間、金曜日は自由選択授業(書道・台湾料理・手芸等を通じて台湾文化を学ぶ)ということになりました。
私は「台湾の原住民文化」を選択したのですが、当時の客家系の古参教師によって、勝手に「時事問題」なんていうクラスに変えさせられてしまいました。
初日行ってみると、韓国人男性3人、同女性4人、インドネシア人とフランス人各1名、そして日本人の私でした。7割が韓国人というのは何か恣意的なものを感じたのですが、案の定、取り上げられた時事問題とは「従軍慰安婦」でした。
客家の若手教師(女性)が、台湾で出版された、ある老婦人(一人)の戦争体験のうち、従軍慰安婦に関する話の部分を英語と中国語で解説し、それについての各人の意見を来週述べよというものでした。
ハッカ【客家】
(Hakka)漢族の下位集団の一つ。広東省を中心に中国南東部に居住。古く華北から南下移住してきた漢族の子孫として、独特の方言・文化を保つ。東南アジアの華人に多く、また台湾にも居住。広辞苑
翌週、それぞれが5~10分程度の意見を述べましたが、私は開口一番「従軍慰安婦について興味は無い。戦争に関して私の話したいことはこれです。」と言い、全員にA4一枚の私の意見を配布しました。その内容は「日本は日露戦争に勝ってアジアの平和を守った」というものでした。
1853年7月(嘉永6年6月)日本侵略の為に東インド艦隊を率いて日本を脅かした米国のペリー(1794~1858)によって、日本は伝統的な鎖国政策を無理矢理放棄させられた。
その後、日本人は刻苦勉励して欧米の技術を学び、逆にアジアを侵略しようとしたロシアを中国大陸(満州)で撃退し、日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を撃滅させた。
A4の資料には「日本海」を中心にした日露戦争に関する地図が貼り付けてあります。浪人時代に10回も読んだ司馬遼太郎「坂の上の雲」の話を思い出しながら、私は何度も「日本海での海戦」を叫びました。)
翌週の授業から、韓国人男性全員と女性4人のうち2名は欠席(自由選択なので出席日数には影響しない)、私と韓国人女性2名、そしてインドネシア人・フランス人の5名による授業(ゼミみたいなもの)になりました。
客家の女教師は、なんとか「従軍慰安婦問題」を話題にしたがっていたのですが、フランス人女性の「個人と政治の問題は別なのよね。討論したい人はすればいいでしょうけど、こういう話は政治家同士で話し合うべきことではないかしら。」というひと言で、この話題は消えてしまいました。
この中国語学校は、初級から上級まで世界各国から来た老若男女40人くらいでしたが、私が仲良くなったのは、元日本IBMの技術部長の日本人男性(奥さんが台湾人)の他には、このクラスで残った2人の韓国人女性、そしてフランス人で、以後、ランチに行ったりしました。
この3人の女性は「事実には違いないかもしれないが、それを使って政治的・倫理的に殊更誇張した話題にすることを好まない、素直・純朴でリベラルな体質の人間」なのだ、と私は感じました。
教訓
○ 韓国人や台湾客家という三国人は、ただただ日本人を困らせたい、へこませたい、辱めてやりたいという人間が多い(教師を入れて7人のうち5人)。
こういう人性(人の本然の性。人の性質)というのは、日本の警察官や警察官出身者に多い。必死に・一生懸命汗水流さなくても(遊び半分でやっても)警察手帳を出せば、人がペコペコしてくれる。飯が食える。そんな「空虚な生活・やり甲斐のない人生」を10年も送っていると、そうなるのでしょう。
○ フランス人とは、さすが戦って自由を勝ち取った民族。
2021年コロナ禍の最中(さなか)、フランス大統領の護衛官(日本でいえば皇宮警察官)100人全員が一度に辞めました。リーダーに拠れば「彼(大統領)は我々が命を賭けて守るに値しない人間」と。フランス人には、韓国人などにはない気骨があるのです。
これが私にとって(現在のところ)一番印象深い「戦争体験」です。
② 40年前、アメリカの駐在員であった時、ある半導体製造装置の会社を訪問した時、待合室に一人の東洋人がいたので、声をかけた所、彼は韓国人でした。当時は半導体開発・製造に関しては、日本とアメリカの独占状態で韓国も台湾も中国も大きく出遅れていました。
この日、私が訪問した半導体製造装置の会社でインターナショナル・マーケティングをやっている男に言わせると「これら3国が満足に半導体を作るには、あと30年かかるだろう」と言っていたくらいです。COCOM(対共産圏輸出統制委員会)があるので、中国はもう少しかかるだろう、とも。
私が「日本にも半導体製造装置を作る会社(露光装置のニコン等々)はたくさんあるね」と言うと、彼はニヤリと笑いながらこう言うのです。「韓国人は日本人が好きじゃないから」と。
いきなりけんか腰というか、これが日本人に対する韓国人特有の「嫌がらせ」です。話の初っぱなで日本人に罪の意識を与える、韓国人に対する罪悪感・劣等感を抱かせることで、その後の話を有利に展開しようという(対日本人にだけ有効な)狡い手口です。
「郷に入っては郷に従え」「目には目を歯には歯を」それが彼らのスタイルなら、こちらも合わせるしかありません。
私は中高時代に在日韓国人と付き合いがあったので、心の中で「ハハーン」と思い、彼の耳元に顔を近づけてこう応えたのです。「私たち日本人も(韓国人が嫌い)だよ」と。すると、彼は顔を曇らせてうつむいてしまいました。
警察官も韓国人も、相手の弱みを握って(知って)いないと、話ができない。
対等の関係で議論・討論ができないのです。
これもまた、私にとって思い出深い「戦争体験」です。
第2話 私が直接お聞きした現実に戦争時代を生き抜いた人の体験談
① 「バスに乗り遅れるな」理念やポリシーなどない韓国脳体質
40年前、ボストンでお会いした元東大教授(明治生まれ)はこう仰いました。
「平栗さん、日中戦争・太平洋戦争とは、ただただ『バスに乗り遅れるな(強い国にくっついて生きる)』という、国民というよりも自分たち支配者だけの都合で国家の舵を取る、さもしい(卑屈な)精神から始まったのです。
大恐慌(1929年)後の政治と経済の不振を軍事力で解決しようとしたが、それもうまくいかない為に、地球の裏側で破竹の勢いで領土を広げていたドイツに頼ったのです。
そして、この『東大と陸軍士官学校・海軍兵学校体質(強い国にくっついていればいい)』とは、この先30年、再び日本に戦争を招くでしょう。」
この先生、こんな話を東大の学生(理系)にしていた為、定年まで何年もあるのに、ある日突然、教授の職を解任され、たこ部屋(畳3畳くらいの窓のない書類置き場)に机と椅子のみで閉じ込められ、これに憤慨して1ヶ月で辞め、元教え子たちの会社でコンサルタントとして働いていたのです。
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1940年(昭和15年)東条英機が陸軍大臣になった時、陸軍の中央部の要職はほとんど幼年学校のドイツ班で占められた。全員ドイツ語がわかる、ということは統制派の軍人の連中はみな親ドイツ派。
ヒットラーはフランスを破り、バルカン半島を制圧する。この勢いでは世界を制覇するのは時間の問題、という情勢を見た大日本帝国陸海軍、そしてその総元帥であった天皇ヒロヒトは、「バスに乗り遅れるな」とばかり、ドイツとの同盟に躍起になり、1940年9月27日、日独伊三国同盟を締結。翌1941年10月18日 東條が内閣総理大臣に就任すると、一気に世界相手の無謀な戦争に突入した。
この時点で、日本の中国侵略は失敗していた。それを糊塗する(国民の目から逸らす)為に太平洋戦争に突入した。「北(中国)が駄目なら南(太平洋)へ侵攻」ということだったのでしょう。
天皇ヒロヒト・東条英機首相による独裁国家大日本帝国に、国家としてのポリシーだの理念はない。ただただ「ドイツについていけば間違いない」という、韓国脳体質の偶像崇拝心のみであった。
国家の指導者が、その政治や経済の失策を軍事力(戦争を起こす)によって誤魔化す。90年前はナチスドイツにべったり、2025年のいまは、ただただアメリカ(将来は中国?)に隷従していれば、国民は振り回されて疲弊するが、支配者(政治屋・銀行・マスコミ屋・警察屋・戦争屋)は安泰。
これこそ、韓国(南朝鮮)の支配者であった両班(ヤンパン)という貴族階級が2000年間、大国中国に対して執ってきた政策と同じなのです。
第3話 戦争を知らない子供たち
<引用始め>
「戦争を知らない子供たち」 作詞:北山修
戦争が終わって 僕らは生まれた 戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる 平和に歌をくちずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい 戦争を知らない子供たちさ
青空が好きで 花びらが好きで いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ きれいな夕日が 輝く小道を
僕らの名前を 覚えてほしい 戦争を知らない子供たちさ
約50年前に発表された歌です。第2次世界大戦から25年、また1955年から1975年まで20年間続いたベトナム戦争の真っただ中の、“ 僕らは戦争しないぞ、戦争のない世界を子供たちに残すぞ ”の歌です。
当時は、「戦争の経験のない若者が、何を甘っちょろいことを言っているのだ」「戦死者を屈辱するな」などの批判があったようです。・・・
https://www.km-clinic.jp/genki/no/307.html
<引用終わり>
2025年08月18日(月)
V.1.1
2025年08月20日(水)
V.2.2
平栗雅人
私の「戦争体験」V.2.2 @MasatoHiraguri
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