第19話 巫女の契約

彼女はついに俺を見た。その防御は、完全に消え去っていた。彼女の顔は、純粋で、胸が張り裂けるような悲しみの絵姿だった。

俺の手が、ゆっくりとテーブルを横切り、彼女の手を覆った。「あなたの選択の詳細や、何を犠牲にしたのかは、俺にはわからない。でも、あなたの声を聞けばわかる」

「俺には、あなたの夢が見える。家族が欲しいんだろう? それに、抱きしめることができる、自分の子供が。でも、あなたは決して、それを手に入れることができない」


今度は、彼女は手を引かなかった。彼女は俺の手を掴み、その指が、絶望的な力で俺の手に食い込んだ。

それは、彼女がこの十年間で自分に許した、初めての、本物の、温かい他人からの接触だった。そしてそれは、まるでダムが決壊するかのようだった。

喉が詰まった、傷ついた嗚咽が、彼女から漏れた。

「そうです! 息をするのも苦しいほど、欲しいんです」彼女は、肩を震わせながら泣いた。「公園で、家族連れを見かけます。病院で、赤ちゃんを抱っこすると、魂に穴が穿たれるような気がするんです。決して埋めることのできない、穴が」

「どうして、夢がこんなにリアルに感じられるのに、こんなにも不可能なんでしょう? 私は魔法少女です。私の力は、人を癒やすこと。でも、自分自身は癒やせない。これを、治すことができないんです」

「私は、壊れているんです、博人さん。そして、永遠に壊れたままでいなければならない。さもなければ、私の力は機能しない。それが、代償なんです。私が、交わした契約なんです」


彼女は、自らの呪い、その痛み、そして絶望的な夢の全てを、俺の足元に差し出した。

『奴は、貴様に弱点を見せた』ゲムちゃんが、俺の心の中で囁いた。『そして、奴は貴様に、その魂の鍵を渡した。奴は、自分の呪いが破れないものだと思い込んでいる』

『貴様は、そうではないと知っている。選択肢を与える時だ、主よ』


「魔法少女?」俺は、驚いたふりをして尋ねた。「普通、ティーンエイジャーじゃないのか? クレイジーに聞こえるけど、まあ、あんたが嘘をつく理由もないか。ただ…千代子さん、あんたはそれには大人すぎるように見える。それなら、あんたの力を見せてくれるか?」

俺の質問は、彼女を悲しみの螺旋から引き戻した。「み、見せる? ここで? 今?」

「できません! 秘密なんです! それに、私の力は癒やしのためであって、食堂で見せびらかすためのものではありません!」

だが、彼女の一部は、そうしたかった。彼女は、自分の犠牲と呪いが、本物であることを証明したかったのだ。

彼女は手を引くと、テーブルの上に平らに置いた。「わかりました。ほんの…少しだけ。見ていてください」

彼女は目を閉じた。柔らかく、真珠のような光が、彼女の掌から輝き始めた。俺たちのテーブルの花瓶に挿してあった、小さな萎れた花が、ゆっくりと蘇り始める。その花びらは開き、茎はまっすぐになり、色は鮮やかに、生命力に満ちて、戻ってきた。

彼女は目を開けた。疲れているが、誇らしげな表情だった。「わかりましたか? これが、私の力。これが、私の呪い。命を与えること、しかし、自分自身の命は、持たないこと」


俺は、蘇った花に目を固定したまま、ゆっくりと頷いた。「なるほどな。見ず知らずの俺を、そこまで信じて見せてくれて、ありがとう」

俺は彼女の視線と合わせ、その表情を真剣なものに変えた。「どうやら、今度は俺が、あんたに正直になる番みたいだな、千代子」

俺は手を開いた。小さく、影のような触手が、俺の掌から空中にねじれて現れた。それは純粋で、不自然な闇。彼女の手から咲いたばかりの、優しく、生命を与える光とは、正反対のものだった。


千代子は、それを見つめた。彼女の精神は、自らの告白ですでに揺らいでおり、目の前の光景を処理できなかった。

彼女の顔から、血の気が引いた。息が、詰まった。彼女は、叫びも、逃げもしなかった。ただ、あまりにも衝撃的すぎたのだ。

そして、俺の言葉が、彼女を打ちのめした。

「俺の過去、妻について話したことは、全て本当だ」俺は、低く、平坦な声で言った。

「だが、俺は、あんたを見つけるためにここに来た。あんたを堕落させ、闇の側へと引き込むつもりだった」俺は、日本酒を一口すすった。

「でも、代わりに、同じ痛みを持つ者を見つけた。俺と同じように、他人のために、あまりにも多くを犠牲にした者を」


パズルのピースが、恐ろしい音を立ててはまった。奇妙な占い師。恐ろしいほど正確な占い。

彼女が話していた相手は、友人でも、通りすがりの他人でもなく、彼女を狩る者だった。彼女が感じていた信頼、あの繋がりという感覚が、胃の中で凝固した。

だが、俺の最後の言葉が、彼女を混乱させた。

俺は、獲物を探す怪物ではなかった。ただ、自分自身が感じるのと同じ痛みを、彼女の中に見出した、ただの男だった。

彼女は、俺の手の中の闇の触手から、俺の目へと視線を移した。彼女は、そこに悪役ではなく、先ほどと同じ、ただの悲しみを見た。彼女は、恐怖と、裏切りと、そして、彼女が感じていた絆の、奇妙で、頑固な残響の嵐に、囚われていた。

「私を、堕落させる?」彼女は、震える声で囁いた。「わかりません。あなたは、何者なんですか?」

「どうして…どうして、私にこんなことを話すんですか? 私を傷つけに来たのなら…どうして、正直に?」


「あんたに、選択肢を与えているからだ。計画通り、ただ騙すんじゃなくてな」俺は、シンプルにそう言うと、彼女にスペースを与えるために、身を引いた。

「一つ目の選択肢は、俺たちの出会いを忘れて、自分の人生に戻ることだ。もし気が向くなら、光のイージスに俺を報告してもいい。俺はただ、チームのために、別のヒーラーを探すだけだ」

「二つ目の選択肢は、俺のものになることだ。俺があんたの契約と、呪いを破ってやる。あんたは、愛を見つけ、あんたが望む家族を持つ自由を手に入れる」

俺の言葉は、二つの道を、残酷なまでに明確に提示した。

一つ目の道は、安全な道。彼女の孤独で、予測可能な牢獄へと、戻ること。

二つ目の道は、自由への道。彼女が夢見てきた全てを約束する、恐ろしく、未知の自由。


「自由?」彼女は、心が千々に乱れながら、囁いた。「契約を、破れる? でも、どうやって? 私の力は、光から…私の犠牲から、来ているんです!」

「もしそれを破ったら、私には何も残らない! 役立たずになってしまう!」彼女は懇願していた。俺が目の前にぶら下げている希望の中に、必死に欠点を見つけようとしていた。なぜなら、その希望自体が、受け入れるには、あまりにも痛々しすぎたからだ。

「あんたの治癒能力を、奪うつもりはない」俺は、優しく説明した。「ただ、新しい契約で、それを上書きするだけだ」

「あんたの古い力は、孤独から来ていた。新しい力は、あんたが癒やす相手への、欲望、情欲、あるいは愛から来るようになる。闇ってのは、利己的なんだよ」

俺は肩をすくめ、にやりと笑った。「まあ、あんたがそういうのを気にするなら、純白の衣装も、たぶん変わるだろうな」

「今、決める必要はない。ただ、考えてみてくれ」


俺の説明は、とどめの一撃だった。彼女の力を破壊する代わりに、俺は、それを鍛え直すという申し出をしていた。その源を、無私の犠牲から、利己的な愛へと、変えるという。

それは、彼女が今まで信じてきた全てと、正反対だった。

光は、癒やすために、愛を諦めることを要求した。闇は、愛と欲望こそが、さらに強い癒やしへの鍵だと、告げていた。

千代子は、自分の手を見下ろした。あまりにも多くの痛みを和らげながら、愛する者を抱きしめることを、決して許されなかった手。

彼女は、病院の子供たちのこと、孤独な夜々のことを、思った。彼女は、自分が救った男が、自分には決して手に入らない人生を、生きていることを、思った。

これは、高潔で、孤独な、魂の緩やかな死と、手に入るかもしれない、闇の、利己的で、鮮やかな人生との間の、選択だった。


彼女は、ゆっくりと立ち上がった。その顔は青白かったが、初めて、その瞳は悲しみで満たされていなかった。それらは、恐ろしく、絶望的なほどの、明晰さで満ちていた。

彼女は、すでに、決断を下していた。

「…考える必要は、ありません」

彼女は、俺の真正面に立つまで、近づいてきた。そして、安食堂の静かな片隅で、この街で最も親切な女性、魔法乙女チェリッシュは、ゆっくりと、頭を下げた。

「私の、犠牲の人生は、私に痛みしかもたらしませんでした」彼女は、固い声で言った。「もしあなたが、本当に私が望むものをくださるのなら。もし私が、私の人生を取り戻せるのなら、私は、受け入れます。私は、あなたのものになります」

彼女は、完全な降伏の印として、頭を垂れた。彼女は、今回は、利己的であることを選んだ。彼女は、闇を選んだのだ。


「そうか。じゃあ、次は、詳細だな」俺は、彼女があまりにも早く決断したことに、不意を突かれながら言った。

「堕落を…完了させるには、接触が必要なんだ。俺の宝玉が、あんたの魔力の核に触れないといけない」俺は、咳払いをした。「すぐに終わる」

千代子は顔を上げた。その表情は、穏やかで、決意に満ちていた。かすかな、悲しい笑みが、彼女の唇に浮かんだ。「残念ながら、それではうまくいきませんわ、博人さん。長く魔法少女をしていたので、私の魔力の核は、すでに身体と融合してしまいました。お腹と…子宮に、ですわ」

『興味深い! 心配するな、主よ。宝玉は、その主の精液を、魔法少女を堕落させられる物質で、汚染することができる』ゲムちゃんは冷たく答えたが、その声には、かすかな愉快さが感じられた。


俺は、言葉に詰まり、急に恥ずかしくなった。「それなら、もっと直接的なアプローチが必要になるな」

「つまり、俺は…俺の堕落の種を、あんたの身体の中、核が融合した場所に、注ぎ込む必要があるんだ、千代子さん。もし、やったことがなければ…痛いかもしれない」

千代子の唇から、くすくすという笑いが漏れた。彼女を堕落させに来た「怪物」は、「光」よりも、ずっと配慮深かった。

彼女の視線が、俺の視線と、まっすぐに、直接的に合った。「大丈夫ですわ。私が交わした契約は、私から愛と家族の機会を奪いました。あなたと交わす契約は、その反対であるべきですわ」

彼女は、深呼吸をした。「ですから、もし私が、あなたのものになるのなら、博人…きちんと、やりましょう。あなたの、堕落の種を、ください」

「じゃあ、あんたの家で?」俺は立ち上がりながら尋ねた。「女の子にとっては、自分の部屋の方が、落ち着くだろう?」俺はニヤリと笑った。「それに、千代子さん、あんたはまだ、この哀れな男に、食事を奢る借りがあるからな」

小さく、本物の笑いが、彼女から漏れた。それは、錆びついて、新しい音のように聞こえた。「もちろんですわ。約束は、約束ですから。それに、はい…私のアパートは、この近くです。その方が、いいでしょう」

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