第2話 赤髪と白髪

 帰るべき場所がない。三久みくたち「黒蛇」討伐隊を襲ったのは考えたこともない事象がつくりだした喪失感であった。町からほど遠く離れた山のふもとからでもわかるのは、倒壊した家屋の数々と舞いあがった土ぼこり。砂塵に映し出されるおおきな山のような形のぼやけた影。

それはまるで、どこからか飛来してきたおおきな未確認飛行物体のようで、町は不幸にも落下先に選ばれてしまったようにもみえた。


一郎いちろう兄様……あれは一体。私たちの……」


 あまりの衝撃に声を失う一同を現実に連れ戻したのは三久みくであった。彼女はおおきな影を指差しながら、ふるえた声で兄へ呼びかけたが、途中で声をのどに詰まらせた。


「な、なにか悪い夢ではないのか。帰るぞ」

「……帰るって。一郎様しっかりなさってください、あれのどこへ帰るというのですか!?」


 家臣の一人から苦痛の声があがった。自分の妹でさえ受け入れようとしている現実を飲み込めていない主。一郎はいまだ寝言のようなことを口にしている。そんな主の不甲斐ない態度から、次第にぽつりぽつりと嘆きをこぼす声が周囲にあふれてくる。


 一郎がどんな言葉を家臣たちへ投げかければいいか思考を巡らせていると、蛇山で受けた衝撃と同じたぐいの不快感が体を襲った。とっさに三久を抱き寄せようと腕を伸ばしたが、重みを知覚するのと同時に、視界のはるか先のおおきな影が動いた。それは明らかにこちらへ向かってくる!


三久みく!」


 危険を察知した時に、家臣を率いる器としての一郎よりも、目の前の妹を守ることだけを考える兄としての一郎が先んじた。彼はこの時、自分が家を継ぐのに向いていないことを認めることができた。遠方の町から彼らのいる山に影が到達するのは一瞬であった。まるで瞬間移動したかのような刹那の間でふもとに影は降臨した。


 影は不愉快に甲高い叫び声をあげると、周囲に重たい衝撃を撒き散らす。山中で感じた重みとは比較にならない重さが一行を襲う。


 一郎は重力に潰されそうになる三久みくを庇うように覆いかぶさる。その後ろでは悲惨な音が鳴り響いた。周りにいた家臣たちはなんらかの攻撃によって散り散りに飛ばされていく。軽々しく宙に投げ飛ばされた彼らの着地先は硬い固い土の上。一郎たちの周りで次々と鈍い落下音が響く。


三久みくを守ることだけを考えているのも束の間。彼の体に鋭い衝撃が加わった。簡単に妹から体が離れていく。映像がゆっくりになったかのように思えたが、すぐに背中に鈍い痛みを感じて、自分が地面にひどく叩きつけられたことを悟った。


 今まで影だとしか認識できていなかった物体が姿を現した。とぐろを巻きながら舌をちろりと鳴らすのは大きな角を頭に携えて、真っ赤な眼光を放つ大蛇の妖であった。それの白く硬い蛇肌の上には、いくつもの刃のような形の鋭利な鱗が飛び出していた。なにか神話上の生物のような神々しさと、地獄を煮詰めたかのような禍々しさを感じる大蛇であった。


「地に這いつくばっているだけとはつまらん。命ごいの一つでもしてみせたらどうだ」


 大蛇は恐ろしいほどに流暢な人の言葉を使って話を始めた。そして、うずくまっている三久みくのことを鋭い眼光で縛りつけるかのように、赤い眼を揺らす。


「な、なによ! お、お前なんか私と兄様が倒してやるんだから」


 彼女は体を震わせながら体を起こすと威勢のいい言葉を吐いた。こうすることでしか、ありえない現実に立ちむかうことができなかったのだ。


「実に面白い奴だ。我が恐ろしくはないのか」

「こ、こわくなんてないわ!」


 三久みくは足に力を込めて立ちあがると、胸を張って腕を組んでみせた。恐ろしくないはずがなかった。とてつもない妖の迫力に体はじんじんと音を立てる。周りで生き絶える家臣たちの姿に胸は張り裂けそうなほど鼓動を早める。


 一郎いちろうの視界はひどく揺れていた。おおきな白蛇が自分と同じ言語を話すことも、その会話相手が自分の大切な妹であることも大した問題ではない。やることは一つであった。今すぐにふざけた白蛇とかわいい妹の間に割って入って、妹をこの地獄から逃すことだ。腕に力を込めると無理やりに体を起こして、飛びあがる準備をする。


「まぁよいわ。我は元より貴様の妖力を手にしたいがために、少々の時を待ち侘びたのだ」


 舌をちらちらと動かすのをやめた大蛇の顔がぐっと少女に近づいた。その厳つい形相に恐怖を感じるよりも先に、すぐに自分の命が終わることを悟った。その大きな口を開けて、少女の頭から……。


「に、兄様!」


 一郎は三久みくの前に立ち塞がり、凶牙から彼女を守った。刀を抜くこともできなかった。両腕を広げることしかできなかった。しかし、立派におおきな頭から彼女のことを守った。


「に、げろ……」


 三久みくの視界が赤色に染まる。肌と体の内側の温度差だけが、この世界に繋ぎ止められたことの証明であった。糸のきれた人形みたいにくずれ落ちる兄の姿を見て咄嗟に駆け寄る。何度兄のことを呼んでも返答はない。それでもやめることはできなかった。


「阿呆な男だ。じっとしてさえいれば命は拾えただろうに」


 白蛇のふざけた言葉に三久みくの表面と芯の温度がはじめて一致する。


「許さない! 兄様を侮辱する言葉を今すぐ取り消しなさい!」


 彼女は兄の傍にぽとりと落ちていた鞘入りの刀を手に取ると抜刀。おおきな白蛇へと切っ先を向ける。少しばかり、妖退治に参加させられるだけの箱入り娘が、刀など握ったことがあるわけもなく、目の前の強大な敵が倒せるとも思えない。


逃げてほしいと願った兄に反する、これが最も明日に繋がらない行動だったとしても、彼女の熱がこの場から逃げだすことを良しとしなかった。対して白蛇はちろちろと舌を出すと彼女へと自身の尾を放つ。


 三久みくは震えた体と刀で抵抗を試みる。簡単に刀は弾かれ宙を舞うと、全身に凄まじい衝撃が加わる。白蛇の尾によって体が拘束されたのだ。


「……っうぐ」


 白蛇は尻尾を器用に使って彼女の細い体を締め上げながら、自分の顔の側へと持ってくる。三久みくの眼前に恐ろしい形相が迫る。


「貴様はこれより我の番となるのだ」


 全くの意識外から頭を揺らした言葉の衝撃に、彼女は思わず「……え?」と声を上げた。


「どうしたのだ。妖の巫女である貴様がこのまま楽になれるとでも思ったのか」


 大蛇の言葉など三久みくの頭の中には入ってはこなかった。それよりも、鋭利な角度から突然やってきた明日の匂いに、彼女の体は小さく震えだした。これから先の人生、得体の知れない妖、大蛇の側にいなければならないことへの形のない恐怖心が全身を駆け巡った。それが死よりも恐ろしいことであるのだと本能が警鐘を鳴らす。


 大蛇は少女が抱く恐怖心になど目もくれずに、自身の頭角を少女の首にあてがう。平たく鋭い刃物のような角の冷たさに、体を跳ねさせることもできないほどに、強く体は締め上げられていた。


「安心しろ、死ぬことはない」


 大蛇は一度角を細い首から離すと、角へ力を集める。妖力と呼ばれる不思議な妖の力を纏わせた角で対象の首を刎ねることがこの大蛇特有の、いわば婚姻の儀であった。


 その恐ろしい儀式とは裏腹に薄ぼんやりと美しい光を纏う刃角。今もなお続く苦痛と、これから訪れる想像もできない人生への恐怖に対して、少女が涙を流した時。星空が一瞬だけ明るく光った。


「その婚姻、少し待ってもらおっかな」


 場違いなほどに軽く甘ったるい声が山のふもとに響くやいなや、山頂を起点にして、山全体に大きな大きな衝撃が加わった。その衝撃が直撃した大蛇は思わず、締め上げていた少女のことを離す。突然の解放に悲鳴を出すことも叶わぬまま、宙に投げ出された少女の着地先は硬い山肌ではなく、ある人物の胸の中であった。


「ごめんね、遅くなっちゃって。でも、もう大丈夫だから」


 三久みくを優しく抱きとめたのは、奇抜な服に身を包んだ男であった。体全体が確かな安定感に包まれるのを確かめた少女の薄ら眼には、にっぱりと笑みを浮かべる見知らぬ人物の姿。精悍さと可憐さという本来共存し合うことのない風貌は、まるで夜空に浮かぶお日様のようで、彼女の心には安堵が一輪だけ咲くようだった。


「……誰!?」


「誰だ、貴様……その燃えるような赤髪は、もしや!」


 彼女からついで出た言葉が跳ね返るよりも先に、大蛇のどよめきが拡散する。


「ごめん。君の疑問には一早く答えたいんだけど、うるさい蛇を追い払わないと話だってゆっくりとできないみたい」


 はなから妖の疑問になど答える気はないらしく、男は心底不服そうに口の両端を下げてみせる。自分に注がれる視線を受けている内に三久みくの張りつめていた緊張の糸が解けて、意識が落ち始める。瞼が落ちる彼女のことを穏やかに見届けると、自分の後ろへ優しく下ろす。


そして、地面に刺してあった自分の愛槌を手に持ち替え、忌々しい大蛇と向き合う。


「さっさと終わりにしよっか。僕はこれでも怒髪天なんだよ」


 男は柄の長い大槌に妖力を纏わせると、思いっきり地面に叩きつけた。地割れが大蛇に襲いかかると同時に、自身はその衝撃を利用して高く飛び上がる。そして、悠に大蛇を越す位置から思いっきり槌を振るう。大蛇はその攻撃を静観していた。男の攻撃が自分には届かないと判断したからだ。しかし、届きようがない位置で振るわれた空振りの一撃に時間差で重さが加わる。大きな質量が大蛇を襲った。


「なんと奇妙な……!」


 男は空中でもう二回槌を振るってから着地を決める。大蛇がいた場所には大きな穴が空いていたが、そこは大蛇の姿はなかった。あるのは斧のような形をした特徴的な尾先のみであった。身の危険を感じた大蛇が何らかの脱出手段を使ったようだ。


「これだけで倒せたら苦労はしないか」


 男は穴を確認した後すぐに三久みくの元へ駆け寄ると、体を抱きかかえた。

意識は失っているが、息があることを確認すると、ほっと胸を撫でおろした。大蛇を仕留め損ねたことは残念であるが、男の目的がひとまずは達成された瞬間であった。


 燃えるような赤い長髪と透き通るほど白い長髪の二人は少しばかり低くなった山の山頂の星明かりに照らされていた。

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