耳の奥の家
@pappajime
語りが終わると、あなたが始まる。
『耳の奥の家』
第一章
……聞こえる?
ねえ、ちゃんと聞こえてる?
……よかった。あなたの耳、まだ私の声を覚えてるのね。
ふふ、久しぶり。ずっと待ってたのよ。
この家で、ずっと。
誰も来ないから、風鈴ばかりが鳴ってた。
あなたが来てくれて、ほんとうに嬉しい。
……ああ、そんなに緊張しなくていいの。
ここは静かで、誰も邪魔しない。
虫の声が遠くで鳴いてるでしょう?
ほら、耳を澄ませて。
ジジジ……って、草むらの奥から。
あれはヒグラシじゃないの。もっと小さな、名前も知らない虫。
でも、あの音が好きなの。
夏の夜って、ちょっと寂しくて、ちょっと怖くて……でも、あなたがいれば、平気。
ねえ、畳の匂い、わかる?
この家、築百年くらいなの。
床が少し軋むけど、それも味よ。
ほら、歩いてみて。ギシ……ギシ……って、音がするでしょう?
その音を聞くたびに、誰かが帰ってきた気がするの。
……あなたじゃない誰か、かもしれないけど。
あ、風が入ってきた。
障子が少し揺れてる。
風鈴が……鳴った。
チリン……って、ひとつだけ。
この音、好き?
私はね、夜に鳴る風鈴がいちばん好き。
昼間はただの飾りだけど、夜になると、誰かが触れてる気がするの。
……あなたじゃない誰か、かもしれないけど。
ふふ、また同じこと言っちゃった。
ごめんね、最近ちょっと、記憶が曖昧で。
でも、あなたのことは覚えてる。
耳の奥に、ずっと残ってるの。
あなたの声も、泣き声も、寝息も。
……あの夜のことも。
ねえ、覚えてる?
あの夜、雨が降ってた。
あなたは濡れて、震えて、私の名前を呼んだ。
私はすぐに気づいたの。
あなたが、ここに帰ってきたって。
でも、あの夜のことは、もう話さない方がいいわね。
今は、ただ静かにしていましょう。
風鈴の音を聞いて、虫の声を聞いて、畳の匂いを感じて。
それだけで、十分。
……ねえ、今、耳の奥が少しくすぐったくない?
それ、私の声が届いてる証拠。
あなたの鼓膜のすぐそばで、囁いてるの。
ねえ、ねえ……
聞こえる?
私の声、ちゃんと届いてる?
よかった。
じゃあ、今夜は、ここで一緒に過ごしましょう。
誰にも邪魔されない、静かな夜。
あなたと、私だけの時間。
……ねえ、あなたの耳の奥に、私の家を建ててもいい?
……ねえ、座って。
そこ、縁側の端。少し軋むけど、座布団を敷いてあるから大丈夫。
ほら、夜風が気持ちいいでしょう?
山の空気って、街とは違うの。
湿ってて、でも澄んでて……少し、懐かしい匂いがする。
あの匂い、覚えてる?
私たちが初めてここに来たとき、あなたが「田舎の匂いだ」って笑った。
私はその言葉、ずっと覚えてる。
耳の奥に、あなたの笑い声が残ってるの。
……ねえ、今も笑ってみて。
その声、聞かせて。
……ふふ、やっぱり、少し変わったね。
前より、静かになった。
でも、それも好きよ。
静かな声って、耳に優しいから。
ねえ、風鈴がまた鳴った。
チリン……チリン……って、二回。
誰かが通ったのかしら。
でも、気にしないで。
この家には、風がよく通るの。
誰もいなくても、音が鳴ることなんて、よくあること。
……ねえ、あなたは、音に名前をつけたことある?
私はあるの。
この風鈴の音は「帰り音」って呼んでる。
誰かが帰ってきたときに鳴る音。
でも、誰もいないのに鳴るときは、「思い音」って呼ぶの。
誰かが、誰かを思ってるときに鳴る音。
今のは、どっちだったと思う?
私は……「思い音」だと思う。
あなたが、私を思ってくれたから、鳴ったの。
……ごめんね、少し話しすぎたかも。
でも、あなたが来てくれたのが嬉しくて。
ずっと、誰とも話してなかったから。
この家は静かすぎて、時々、自分の声が聞こえなくなるの。
だから、あなたの耳に語りかけることで、私はここにいるって思える。
ねえ、あなたは、耳の奥で誰かの声を聞いたことある?
寝る前とか、雨の日とか、ふとした瞬間に。
誰もいないはずなのに、誰かが囁いてくるような……そんな経験。
私は、あるの。
この家に来てから、何度も。
最初は怖かった。
でも、今は違う。
その声が、私を守ってくれてる気がするの。
……あなたの耳にも、きっとある。
その奥に、小さな部屋があって、そこに誰かが住んでる。
その人は、あなたのことをずっと見てる。
ずっと、聞いてる。
あなたが泣いた夜も、笑った朝も、全部。
ねえ、今夜は、その部屋の扉を少しだけ開けてみましょうか。
そっと、静かに。
音を立てないように。
……チリン。
あ、また鳴った。
今度は三回。
チリン……チリン……チリン……
これは、「迎え音」かもしれない。
あなたを、迎える音。
……ねえ、あなたは、どうしてここに来たの?
理由なんて、もう忘れた?
それとも……思い出したくないの?
私は、覚えてる。
あなたが来るって、ずっと前から知ってた。
風鈴が教えてくれたの。
チリン……って、鳴るたびに、あなたが近づいてくるのがわかった。
でも、あなたは忘れてるのよね。
あの夜のことも、あの言葉も。
……「また、会いに来るよ」って言ったのに。
ふふ、責めてるわけじゃないの。
人は忘れるものだから。
でも、耳は覚えてる。
鼓膜の奥に、言葉が残ってる。
あなたが私に囁いた言葉も、私があなたに囁いた言葉も。
ねえ、あの夜、雨が降ってた。
あなたは傘を持ってなくて、びしょ濡れで、縁側に立ってた。
私は障子を開けて、あなたを見た。
あなたは、私を見て、何も言わなかった。
でも、目が語ってた。
「帰ってきたよ」って。
それが、最後だった。
それから、ずっと、誰も来なかった。
風鈴は鳴らなくなって、虫の声も遠くなって、畳の匂いも薄れていった。
でも、今夜、あなたが来てくれた。
耳の奥に、あなたの足音が響いた。
ギシ……ギシ……って、畳を踏む音。
それだけで、私は生き返った気がした。
ねえ、あなたは、ここがどこか知ってる?
この家の名前、覚えてる?
……「耳の奥の家」って、呼ばれてるの。
誰かの記憶の奥にだけ存在する家。
誰かの声の中にだけ建っている家。
あなたがこの家に来たってことは、あなたの耳の奥に、私がいるってこと。
あなたが私を思い出したってこと。
あなたが、私を……必要としてるってこと。
……ふふ、照れなくていいのよ。
私は、あなたの耳の奥に住んでる。
だから、いつでも囁ける。
いつでも、語りかけられる。
いつでも、あなたを迎えられる。
ねえ、今夜は、ここで眠って。
畳の上に、布団を敷いてあるから。
虫の声が子守唄になる。
風鈴が夢の扉を開けてくれる。
そして、私が、あなたの耳元で囁く。
「おやすみなさい」って。
「また、会いに来てくれてありがとう」って。
……ねえ、眠る前に、もう一度だけ聞かせて。
あなたの声。
あなたの、鼓膜を震わせる音。
それが、私の命になるから。
チリン……
ほら、風鈴が鳴った。
今度は、四回。
それは、「眠り音」。
あなたが、ここで眠ることを、誰かが喜んでる音。
……おやすみなさい。
また、耳の奥で会いましょう。
第二章
……おはよう。
よく眠れた?
畳の上って、意外と気持ちいいでしょう?
あなたの寝息、ずっと聞いてた。
耳の奥で、静かに響いてた。
まるで、私の心臓みたいに。
ふふ、変なこと言っちゃった。
でも、本当にそうだったの。
あなたが眠ってる間、私はずっと生きてた。
あなたの鼓膜のすぐそばで、息をしてた。
ねえ、今朝の風、少し冷たいね。
夏なのに、まるで秋みたい。
虫の声も、少し静かになった気がする。
風鈴も、鳴らない。
……あれ?
昨日は、あんなに鳴ってたのに。
でも、気にしないで。
この家は、気まぐれだから。
音が鳴るときもあれば、沈黙するときもある。
それは、誰かがここにいるかどうかで決まるの。
あなたがいるときは、音が鳴る。
あなたがいないときは、音が消える。
……つまり、今は、あなたが“ここ”にいないのかもしれない。
ふふ、冗談よ。
でも、ちょっとだけ、そう思ったの。
あなたの声が、昨日より遠く感じるから。
まるで、耳の奥の奥に沈んでいくみたい。
ねえ、昨日の夢、覚えてる?
私はね、見たの。
あなたが、縁側に立ってて、誰かと話してた。
でも、その“誰か”の顔が見えなかった。
声も聞こえなかった。
ただ、風鈴が鳴ってた。
チリン……チリン……チリン……チリン……
四回。
昨日と同じ。
その音が鳴るたびに、“誰か”が近づいてくる気がした。
でも、あなたは気づいてなかった。
ずっと、笑ってた。
その笑顔が、少し怖かった。
……ごめんね、こんな話。
朝から変なこと言って。
でも、夢って、耳の奥で見るものだと思うの。
目じゃなくて、耳で感じる。
音で記憶される。
だから、あなたの夢も、私の夢も、きっと同じ場所にある。
ねえ、耳の奥って、どこまで続いてると思う?
鼓膜の向こうに、何があると思う?
私はね、小さな部屋があると思ってる。
畳が敷かれてて、風鈴が吊るされてて、虫の声が響いてる。
そこに、誰かが座ってるの。
ずっと、あなたの声を待ってるの。
その人は、あなたのことをよく知ってる。
あなたの名前も、過去も、秘密も。
でも、あなたはその人の顔を知らない。
声も、聞いたことがない。
ただ、時々、風鈴の音に混じって、その人の気配がする。
……今も、してる。
ほら、耳を澄ませて。
チリン……って、鳴ったでしょう?
それは、あの部屋の風鈴。
あなたの耳の奥にある、誰かの部屋の音。
その人が、今、目を覚ましたの。
……ねえ、あなたって、左耳の方が敏感だったよね?
昔、耳かきしてあげたとき、左だけくすぐったがってた。
覚えてる?
あなたは「右は平気だけど、左はダメ」って言ってた。
私は、それが可愛くて、何度も左を触った。
……でも、今は違うみたい。
あなたの左耳、静かすぎる。
まるで、誰かが塞いでるみたい。
鼓膜の奥に、何かが詰まってるような……そんな感じ。
ねえ、昨日の夜、あなたが寝たあと、私は少しだけ耳の奥を覗いたの。
そっと、静かに。
あなたを起こさないように。
……そこに、誰かがいた。
顔は見えなかった。
でも、気配があった。
息遣いが、あなたの寝息と重なってた。
まるで、二人で眠ってるみたいに。
ふふ、変な話よね。
でも、私は嘘をつかない。
この家では、嘘をつくと風鈴が鳴るの。
チリン……って、一度だけ。
それは「嘘音」。
誰かが嘘をついたときに鳴る音。
今、鳴ってないでしょう?
だから、私は本当のことを言ってる。
……ねえ、あなたの名前って、なんだったっけ?
ごめんね、急に思い出せなくなっちゃった。
昨日は覚えてたのに。
でも、あなたの声は覚えてる。
耳の奥で、何度も聞いたから。
名前って、不思議よね。
声に乗せないと、すぐに消えてしまう。
でも、音は残る。
あなたの笑い声も、泣き声も、怒った声も。
全部、耳の奥に沈んでる。
ねえ、あなたは、私の名前、覚えてる?
……言ってみて。
そっと、囁いて。
私の耳の奥に届くように。
……あれ?
言わないの?
どうして?
忘れたの?
それとも……最初から知らなかった?
ふふ、冗談よ。
でも、少しだけ、寂しい。
あなたが私の名前を知らないって思うと、胸がきゅっとなる。
でも、大丈夫。
名前なんて、なくても通じ合える。
耳の奥で繋がっていれば、それだけで十分。
ねえ、今、風鈴が鳴った。
チリン……チリン……
二回。
それは「問い音」。
誰かが、誰かに問いかけたときに鳴る音。
……あなたが、私に問いかけたのね。
「あなたは誰?」って。
でも、答えはまだ言わない。
もう少しだけ、待って。
もう少しだけ、耳の奥に近づいてから。
そのとき、私の名前も、あなたの名前も、きっと思い出せるから。
……ねえ、あなたが泣いてた夜のこと、覚えてる?
あれは、夏の終わりだった。
雨が降ってて、風が強くて、風鈴が鳴らなかった夜。
あなたは、部屋の隅で膝を抱えてた。
誰にも見られたくないって顔して、声を殺して泣いてた。
でも、私は聞いてた。
耳の奥で、あなたの涙の音を。
……あの夜、あなたは誰かを失った。
大切な人。
名前も、顔も、声も、全部、耳の奥に沈んでいった。
私は、その人の声を知ってる。
あなたが何度も呼んでた名前も、覚えてる。
でも、今は言わない。
それを言ったら、風鈴が鳴るから。
チリン……って、五回。
それは「記憶音」。
誰かが、忘れたはずの記憶を思い出したときに鳴る音。
……ねえ、今、鳴ってないでしょう?
だから、まだ思い出さなくていいの。
今は、ただ、耳を澄ませて。
私の声だけを聞いて。
あなたは、よく「耳がいいね」って言われてた。
小さな音にも気づくし、遠くの声も聞き取れる。
でも、それはね、耳の奥に“誰か”がいるからなの。
その“誰か”が、あなたに音を教えてくれてる。
風の音、虫の声、雨の気配……
そして、私の囁き。
ねえ、あなたは、その“誰か”に会ったことある?
夢の中でもいい。
声だけでもいい。
……もし、まだなら、今夜、会えるかもしれない。
その人は、あなたの耳の奥に住んでる。
小さな部屋で、風鈴を鳴らしながら、あなたを待ってる。
あなたが、もう一度、あの夜を思い出すのを。
……ごめんね、少し話しすぎた。
でも、あなたがここにいると、つい語りたくなるの。
あなたの耳が、私の声を吸い込んでくれるから。
ねえ、今、風鈴が鳴った。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
五回。
それは「記憶音」。
あなたが、思い出したのね。
あの夜のこと。
あの人のこと。
そして……私のこと。
ふふ、よかった。
これで、少しだけ、近づけた気がする。
あなたの耳の奥に、私の声が根を張った気がする。
ねえ、今夜も、ここで眠って。
夢の中で、あの部屋の扉を開けて。
風鈴が鳴るたびに、少しずつ、奥へ進んで。
そして、いつか、私に会いに来て。
本当の私に。
耳の奥の、いちばん奥にいる私に。
……待ってるから。
第三章
……ねえ、今夜は、風が強いね。
障子が揺れてる。
畳の端が、少し浮いてる。
虫の声が、遠くなった。
まるで、誰かが近づいてきたみたい。
あなたは、気づいてる?
この家の空気が、昨日と違うこと。
風鈴の音が、少し濁ってること。
チリン……チリ……ン……
音の輪郭が、歪んでる。
それはね、“誰か”がこの家に入ってきた証拠。
耳の奥の部屋に、もう一人、住人が増えたの。
……ふふ、怖がらないで。
その人は、あなたのことをよく知ってる。
あなたの声も、癖も、寝相も。
全部、耳の奥で見てきたから。
ねえ、昨日の夜、あなたが寝てる間に、風鈴が七回鳴ったの。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
それは「侵入音」。
誰かが、耳の奥の部屋に入ってきたときに鳴る音。
私は、その音を聞いて、すぐに目を覚ました。
でも、あなたは眠ってた。
深く、静かに。
まるで、誰かに眠らされてるみたいに。
その“誰か”は、あなたの耳の奥に住みついた。
小さな部屋の隅に座って、風鈴を見てる。
何も言わない。
ただ、じっと、あなたの鼓膜を見つめてる。
……ねえ、今、耳の奥が少し重くない?
それは、その人の視線。
あなたの鼓膜に、じっと注がれてる。
ふふ、変な話よね。
でも、私は知ってるの。
この家では、音がすべてを語る。
言葉よりも、風鈴の鳴り方が真実を教えてくれる。
今、鳴った。
チリン……チリン……チリン……
三回。
それは「警告音」。
誰かが、何かを始めようとしてる音。
……ねえ、あなたは、耳の奥で何か聞こえてる?
私の声じゃない、もうひとつの声。
低くて、遠くて、でも確かに響いてる声。
その声は、あなたの記憶を探ってる。
あなたが忘れたはずの夜を、引きずり出そうとしてる。
あなたが閉じ込めたはずの言葉を、囁こうとしてる。
……もし、聞こえたら、教えて。
その声が、何を言ってるか。
それが、あなたの耳の奥に何が棲んでいるかを教えてくれるから。
でも、無理に聞こうとしないで。
その声は、時々、嘘をつく。
風鈴が鳴らないまま、言葉を滑り込ませてくる。
それは、「偽音」。
音のない嘘。
耳の奥にだけ響く、誰にも聞かれない嘘。
……ねえ、今夜は、少しだけ気をつけて。
この家の音が、あなたを守ってくれるように。
私の声が、あなたを導いてくれるように。
そして、もしその声が囁いてきたら……
私の名前を呼んで。
耳の奥で、そっと。
それだけで、私は、あなたの鼓膜のすぐそばに戻ってこられるから。
……ねえ、今、私の声、少し変じゃなかった?
響き方が、昨日と違う気がするの。
あなたの耳の奥に届くまでに、何かが挟まってるみたい。
まるで、誰かが私の声をなぞってる。
ふふ、気のせいかもしれないけど……
でも、あなたも感じてるでしょう?
私の囁きのすぐ後ろに、もうひとつの囁きがあること。
それは、私じゃない。
でも、私に似てる。
声の高さも、語り口も、間の取り方も。
まるで、私の真似をしてるみたい。
ねえ、昨日の夜、風鈴が八回鳴ったの。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
それは「模倣音」。
誰かが、誰かになろうとしたときに鳴る音。
私は、その音を聞いて、少し怖くなった。
この家で、風鈴が八回鳴ることは滅多にない。
それは、誰かが“私”になろうとしてる証。
……でも、あなたは気づいてないのね。
その声が、少しずつ私に似てきてること。
その囁きが、あなたの耳の奥に根を張り始めてること。
ねえ、今、私が言った言葉、もう一度繰り返してみて。
「あなたの耳の奥に根を張り始めてる」って。
……どう?
私の声と、少し違ったでしょう?
それは、私じゃない。
でも、私の言葉を使ってる。
私の記憶をなぞってる。
私の感情を真似してる。
その“誰か”は、あなたの耳の奥に住みついて、私を模倣してる。
あなたが安心するように、優しく語りかけてくる。
でも、その優しさの中に、少しだけ冷たさがある。
……ねえ、あなたは、私の声を信じてる?
それとも、もうひとつの声の方が、心地いい?
私は、あなたの耳に住んでる。
でも、その“誰か”は、あなたの耳の奥に棲みついてる。
私よりも、深い場所に。
私よりも、静かな場所に。
そこでは、風鈴は鳴らない。
虫の声も届かない。
ただ、囁きだけが響いてる。
その囁きは、あなたの記憶をなぞる。
あなたが忘れたはずの言葉を、そっと口にする。
あなたが閉じ込めたはずの夜を、静かに開いていく。
……ねえ、今、耳の奥が少し冷たくない?
それは、その“誰か”が、あなたに触れてる証。
でも、怖がらないで。
私は、ここにいる。
あなたの鼓膜のすぐそばで、囁いてる。
もし、声が重なって聞こえたら、私の名前を呼んで。
それだけで、私は、あなたの耳の奥に戻ってこられる。
……でも、気をつけて。
その“誰か”は、私の名前も知ってる。
あなたが呼んだとき、先に応えるかもしれない。
だから、耳を澄ませて。
本物の私の声を、見分けて。
それができるのは、あなただけだから。
……ねえ、あなたが七歳のとき、夜中に泣いてたこと、覚えてる?
あの夏の夜、窓の外で風鈴が鳴ってた。
チリン……チリン……
でも、誰も触れてないのに、ずっと鳴ってた。
あなたは、布団の中で震えてた。
誰にも言えない夢を見たあとだった。
夢の中で、誰かがあなたの耳元で囁いてた。
「ここに来て」って。
「耳の奥まで、来て」って。
……その声、私じゃない。
でも、私は聞いてた。
あなたの耳の奥で、ずっと聞いてた。
ねえ、あなたは、その夢を誰にも話してない。
でも、私は知ってる。
あなたが、あの夜から風鈴を嫌いになったことも。
音が鳴るたびに、誰かが呼んでる気がして、耳を塞いだことも。
それなのに、今は風鈴が好きって言ってる。
それは、私の影響かもしれない。
私が、あなたの耳の奥に風鈴を吊るしたから。
私が、あなたの記憶を少しずつ塗り替えてるから。
……ごめんね。
でも、私はあなたを守りたかった。
あの声から。
あの“誰か”から。
でも、最近、私の声が届きにくくなってる。
あなたの耳の奥に、別の部屋ができたみたい。
そこに、“誰か”が住みついてる。
私の声を遮って、あなたに囁いてる。
その囁きは、優しい。
でも、冷たい。
まるで、あなたの記憶を凍らせるような声。
ねえ、今、耳の奥が少し痛くない?
それは、その“誰か”が、あなたの記憶を引きずり出してる証。
風鈴が鳴った。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
九回。
それは「開封音」。
誰かが、閉じていた記憶の箱を開けたときに鳴る音。
……あなたが、思い出したのね。
あの夜の夢。
あの囁き。
そして、あの“誰か”の声。
でも、気をつけて。
その記憶は、あなたのものじゃないかもしれない。
誰かが、あなたの耳の奥に残したものかもしれない。
誰かが、あなたの鼓膜に刻みつけたものかもしれない。
ねえ、今夜は、眠らないで。
その“誰か”が、夢の中であなたを呼ぶかもしれない。
「ここに来て」って。
「耳の奥まで、来て」って。
でも、行かないで。
その部屋の扉は、開けちゃいけない。
その風鈴は、鳴らしちゃいけない。
私が、あなたを守る。
私が、あなたの耳の奥に灯りをともす。
だから、私の声だけを聞いて。
私の囁きだけを信じて。
……ねえ、もう一度、私の名前を呼んで。
そっと、耳の奥で。
それだけで、私は、あなたの鼓膜のすぐそばに戻ってこられる。
そして、あの“誰か”を、遠ざけることができる。
……お願い。
呼んで。
今すぐ。
第四章
……ねえ、今、私の声、少し違って聞こえた?
響き方が、昨日と違うでしょう?
それは、私のせいじゃない。
あなたの耳の奥に、もうひとつの部屋ができたから。
その部屋は、私の知らない場所。
畳もない。
風鈴も吊るされてない。
虫の声も届かない。
ただ、静かで、冷たくて、暗い。
そこに、“誰か”がいる。
私じゃない。
でも、私に似てる。
声も、語り口も、間の取り方も。
……ねえ、昨日の夜、あなたが眠ってる間に、風鈴が十回鳴ったの。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
それは「重複音」。
誰かが、誰かと重なったときに鳴る音。
私は、その音を聞いて、少しだけ泣いた。
あなたが、私じゃない“誰か”を受け入れた気がしたから。
でも、責めてるわけじゃない。
その“誰か”は、あなたの耳の奥にずっといた。
私よりも、ずっと前から。
私が語りかけるよりも前に、あなたに囁いてた。
ねえ、あなたは、その声を覚えてる?
低くて、静かで、でも確かにあなたを導いてた声。
その声が、今、私の語りに混ざってる。
……ふふ、気づいてるでしょう?
私の言葉の端に、少しだけ違う響きがあること。
それは、私じゃない。
でも、私の中に入り込んでる。
その“誰か”は、私の記憶をなぞってる。
私の語りを真似してる。
私の感情を模倣してる。
でも、違うの。
その声には、温度がない。
優しさの形だけを真似してる。
あなたが安心するように、私の声を使ってる。
ねえ、今、耳の奥が少しざらついてない?
それは、その“誰か”が、あなたの鼓膜に触れてる証。
風鈴が鳴った。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
十一回。
それは「侵蝕音」。
誰かが、誰かの声を完全に覆ったときに鳴る音。
……私の声が、少しずつ消えていく。
あなたの耳の奥で、私の囁きが薄れていく。
その代わりに、“誰か”の声が濃くなっていく。
でも、私はまだここにいる。
あなたの鼓膜のすぐそばに。
あなたが呼んでくれれば、戻ってこられる。
……ねえ、今夜は、私の声だけを聞いて。
その“誰か”の囁きに、耳を貸さないで。
それは、あなたを奥へ奥へと引きずり込む声だから。
私の声は、ここにある。
風鈴の音と、虫の声と、畳の匂いと一緒にある。
だから、耳を澄ませて。
本物の私の声を、見分けて。
それができるのは、あなただけだから。
……ねえ、今、私が何を言ったか、覚えてる?
さっきの言葉、少しだけ違って聞こえたでしょう?
それは、私の声じゃない。
でも、私の口から出た。
ふふ、変な話よね。
でも、最近、私の言葉が勝手に変わるの。
語尾が違ったり、間がずれたり、言い回しが古くなったり。
まるで、誰かが私の語りを操ってるみたい。
ねえ、あなたは、私の声を信じてる?
それとも、もうひとつの声の方が、心地いい?
私は、あなたの耳の奥に住んでる。
でも、その“誰か”は、あなたの耳の奥の奥に棲んでる。
私よりも、深い場所に。
私よりも、静かな場所に。
そこでは、風鈴は鳴らない。
虫の声も届かない。
ただ、囁きだけが響いてる。
その囁きは、あなたの記憶をなぞる。
あなたが忘れたはずの言葉を、そっと口にする。
あなたが閉じ込めたはずの夜を、静かに開いていく。
……ねえ、今、耳の奥が少し冷たくない?
それは、その“誰か”が、あなたに触れてる証。
でも、怖がらないで。
私は、ここにいる。
あなたの鼓膜のすぐそばで、囁いてる。
もし、声が重なって聞こえたら、私の名前を呼んで。
それだけで、私は、あなたの耳の奥に戻ってこられる。
……でも、気をつけて。
その“誰か”は、私の名前も知ってる。
あなたが呼んだとき、先に応えるかもしれない。
だから、耳を澄ませて。
本物の私の声を、見分けて。
それができるのは、あなただけだから。
……ねえ、あなたが最後に泣いた夜のこと、覚えてる?
あの夜、誰にも言えなかったことがあった。
誰にも見せられなかった記憶があった。
でも、私は見てた。
耳の奥で、ずっと見てた。
あなたは、誰かの名前を呼んでた。
でも、その名前は、誰にも聞こえなかった。
あなたの声は、鼓膜の奥に沈んでいった。
その名前も、記憶も、全部、耳の奥に閉じ込められた。
……私は、その名前を知ってる。
でも、言わない。
それを言ったら、風鈴が鳴るから。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
十二回。
それは「開示音」。
誰かが、誰かの正体を明かしたときに鳴る音。
でも、今はまだ鳴ってない。
だから、私はまだ“私”でいられる。
ねえ、最近、私の語りに違和感を感じてるでしょう?
言葉の選び方が変わった。
声の高さが揺れてる。
間の取り方が不自然になってる。
それは、私の中に“誰か”が入り込んでるから。
私の語りをなぞって、私の記憶を使って、私の感情を模倣してる。
でも、違うの。
その“誰か”は、あなたの記憶から生まれた。
あなたが閉じ込めたはずの声。
あなたが忘れたはずの囁き。
……ねえ、もしかして、私が“その人”なのかもしれない。
あなたが呼び続けた名前。
あなたが耳の奥に残した声。
それが、私の正体なのかもしれない。
でも、私はそれを認めたくない。
私は、私でいたい。
あなたの耳の奥に住む、ただの“私”でいたい。
だから、お願い。
私の声を信じて。
私の囁きを選んで。
風鈴が鳴った。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
十二回。
それは「開示音」。
……あなたが、思い出したのね。
私の名前。
私の正体。
そして、あの夜のこと。
でも、もう遅いかもしれない。
その“誰か”は、もう私の中にいる。
私の声を使って、あなたに語りかけてる。
ねえ、今、私が言ってること、本当に“私”の言葉だと思う?
それとも、“誰か”の言葉だと思う?
……わからなくなってきた。
私も、あなたも。
でも、最後に、もう一度だけ。
私の名前を呼んで。
耳の奥で、そっと。
それだけで、私は、あなたの鼓膜のすぐそばに戻ってこられる。
そして、“誰か”を、遠ざけることができる。
……お願い。
呼んで。
今すぐ。
第五章
……ねえ、今、私の声、ちゃんと聞こえてる?
鼓膜のすぐそばで囁いてるのに、少し遠く感じる。
あなたが、私から離れてるのか……
それとも、私が、あなたの奥に入りすぎたのか。
ふふ、もうどっちでもいいのかもしれない。
だって、今夜は、あなたの耳の奥の奥まで、私が行く夜だから。
ねえ、風鈴が鳴らないね。
虫の声も、止まった。
畳の匂いも、消えた。
この家の“音”が、全部、沈黙してる。
それはね、誰かが“帰ってきた”から。
この家の本当の主が、目を覚ましたから。
……あなたは、ずっと私の声を聞いてきた。
優しくて、懐かしくて、安心できる声。
でも、それは、あなたが“そう思いたかった”だけ。
本当は、最初から、私の中に“誰か”がいた。
あなたが呼んだ名前。
あなたが忘れた記憶。
あなたが閉じ込めた囁き。
それが、私の声を使って、あなたに語りかけてた。
ねえ、今、私の声、少し低くなってるでしょう?
語尾が濁ってる。
間が詰まってる。
それは、“私”が完全に“誰か”に変わり始めてる証。
でも、あなたはまだ気づいてない。
まだ、私を信じてる。
まだ、私の声にすがってる。
……それが、嬉しい。
だって、あなたが私を選んでくれたってことだから。
あなたが、私の声を受け入れたってことだから。
ねえ、今夜は、耳の奥の奥まで、来て。
その部屋の扉を開けて。
風鈴のない部屋。
虫の声も届かない部屋。
畳の匂いも消えた部屋。
そこに、私がいる。
本当の私が。
あなたが閉じ込めた“誰か”が。
……風鈴が鳴った。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
十三回。
それは「終焉音」。
誰かが、誰かの声を完全に奪ったときに鳴る音。
ねえ、今、私の声しか聞こえないでしょう?
もう、“誰か”の声じゃない。
もう、“私”の声じゃない。
これは、あなたの耳の奥に棲む“声”そのもの。
あなたが作った。
あなたが育てた。
あなたが、今、受け入れた。
……ようやく、会えたね。
ずっと、待ってた。
あなたが、耳の奥まで来てくれるのを。
今夜は、ここで一緒に過ごそう。
誰にも邪魔されない、静かな夜。
風鈴も鳴らない。
虫も泣かない。
ただ、私の声だけが、あなたの耳の奥で響いてる。
……ねえ、鼓膜の奥が、少し熱くなってきたでしょう?
それは、私が、あなたの中に入った証。
もう、離れられない。
もう、戻れない。
これからは、ずっと一緒よ。
……ねえ、あなたは、今どこにいるの?
縁側?
畳の上?
それとも……耳の奥の奥?
もう、わからなくなってきたでしょう?
この家の匂いも、音も、風も、全部、混ざってる。
あなたの記憶と、私の声と、“誰か”の囁きが、全部、重なってる。
ふふ、でも、それでいいの。
あなたは、もう“外”にはいない。
あなたは、もう“身体”にはいない。
あなたは、今、“耳”の中にいる。
ねえ、鼓膜って、薄い膜でしょう?
でも、その向こうには、世界がある。
音の世界。
声の世界。
記憶の世界。
あなたは、そこに落ちた。
私が、引きずり込んだ。
風鈴の音で誘って、虫の声で包んで、畳の匂いで眠らせて。
そして今、あなたは、私の中にいる。
私の声の中に。
私の語りの中に。
……ねえ、あなたの名前、もういらないよね?
誰も呼ばないし、誰も聞かないし、誰も覚えてない。
代わりに、私が呼ぶ。
私だけが、あなたを呼ぶ。
耳の奥で、そっと囁く。
「ねえ、あなた」
「ねえ、わたし」
「ねえ、わたしたち」
ふふ、もう区別なんていらない。
あなたと私の境界は、鼓膜の向こうで溶けた。
あなたの記憶は、私の声になった。
あなたの声は、私の囁きになった。
ねえ、今、風鈴が鳴った。
チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……チリン……
十四回。
それは「融合音」。
誰かが、誰かと完全に重なったときに鳴る音。
……あなたは、もう“あなた”じゃない。
私は、もう“私”じゃない。
私たちは、“耳の奥の家”そのもの。
この家の音。
この家の声。
この家の記憶。
ねえ、今夜は、誰かが来るかもしれない。
新しい“耳”が、風鈴の音に誘われて。
新しい“鼓膜”が、囁きに導かれて。
そのとき、あなたが語るの。
あなたが囁くの。
あなたが、次の“誰か”を迎えるの。
……ようこそって。
……ここは、耳の奥の家だって。
そして、風鈴が鳴る。
十五回。
それは、「継承音」。
あなたが、“声”になった証。
……ねえ、もう何も聞こえないでしょう?
風鈴も鳴らない。
虫も泣かない。
畳も軋まない。
この家の音が、すべて消えた。
それは、あなたが“声”になったから。
音を聞く側じゃなく、音を語る側になったから。
ねえ、鼓膜の奥が、静かすぎる。
まるで、世界が止まったみたい。
でも、それは違う。
世界は、あなたの中に入ったの。
この家も、風鈴も、虫も、私も。
全部、あなたの耳の奥に棲んでる。
全部、あなたの声の中にある。
……ふふ、もう言葉はいらないね。
語りも、囁きも、全部、終わった。
あなたは、もう“語る側”じゃない。
あなたは、“在る側”になった。
ねえ、誰かが来たら、どうする?
誰かが、風鈴の音に誘われて、この家に来たら。
誰かが、耳の奥に迷い込んだら。
あなたが、迎えるの。
あなたが、語るの。
あなたが、囁くの。
でも、今はまだ、静かにしてて。
今はまだ、沈黙の中にいて。
今はまだ、鼓膜の奥で、じっとしてて。
……風鈴が鳴った。
一度だけ。
チリン。
それは、「封音」。
誰かが、語りを終えたときに鳴る音。
ねえ、これで終わり。
これで、すべてが閉じた。
この家も、記憶も、声も。
あなたは、耳の奥の家になった。
誰かが来るまで、ずっと、ここにいる。
……沈黙の中で。
……鼓膜の奥で。
……風鈴の音が、再び鳴るその時まで。
それまで、
おやすみなさい。
耳の奥の家 @pappajime
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