秘呪の音織

Tsuzumi

森の狂研1

「それじゃ、行ってきます」

 獣魂族の少年ディーヴァは軽く息を吐き、銀色の髪に映える同色の獣耳をわずかに項垂らせながら、明るい笑顔でお辞儀をした。

「行ってらっしゃい。どうか、どうか気を付けて」

 決意の籠った声への返事は、心なしかどこか揺れていた。

 中年の女性が温かな笑みをたたえつつも、目元に寂しさを滲ませて手を振り、彼女の周りには形も色も異なり個性豊かな雰囲気を漂わせた子供達が寄り添っていた。

 ディーヴァは一歩踏み出すたび、子供達の顔が次第に泣き顔に変わっていく事を知っていた。

―― 大丈夫、必ず手紙を書くから。必ず仕送りを届けるから。約束だ。

 胸に小さな痛みを覚えながら心で呟き、振り返らず、住み慣れた大きなあばら家を後にした。


 今迄小さな背景の一角でしかなかった砂漠の街に、一歩ずつ近づくたび施設で過ごした十四年が思い出されていく。

 皆の笑い声、喧嘩の後和解し、夜空を見上げた静かなひととき。

 一つ一つの場面が、足音に合わせて鮮やかに浮かぶ。

 物心がつく前から育ててくれて有難うございましたと、心の中で何度も感謝を述べながら、ディーヴァは街へと踏み込んだ。


 目に飛び込んできたのは、色褪せた華やかな建造物だった。

 床や柱には複雑な模様が刻まれ、かつての輝きを物語っているが、砂にまみれてくすんでいる。

 それでも、砂漠育ちのディーヴァには、その風情がどこか落ち着いて見えた。

 心が安堵に包まれるのを感じながら、ゆっくりと歩を進めていく。

 何の為に立っているのか不明な背の高い柱がそこら中に建てられ、それぞれに異なる模様が描かれていた。

 殆どの柱に取り付けられている松明と台座は、どれも後からとってつけたようでありつつ古風な雰囲気な物ばかりである。

 行き来する人々はそれらを特に気に留めるでも無く、目的地に真っ直ぐ向かっている雰囲気の者が多い。

 皆服装はばらばらで、砂漠の民では無さそうで場違いにも思える都会的な服装な者や、大きな武器を携帯しこの地域でよく製造される武器を買いに求めに来たと推測できる者、端末を片手に何かを仕入れに来た者、明らかに労働者と思われる全身砂まみれの者などが、まばらに歩いていた。

 時折砂漠に似合った音楽を奏でていたり、太鼓を叩いている者も居たが、背景の一部に溶け込みすぎているのか彼らに目を向ける者はいなかった。

 街には何度か来たことがあったが、それは食料や衣類の買い出しのためで、観光などした記憶はない。

 最寄りの街である筈なのに、客人であるかの如くきょろきょろと辺りを見回しながら、ふと、ディーヴァは立ち止まった。

「出身地なのに、何も知らないなんて‥‥まずくない‥‥?」

 南方大陸で生まれ育った自分が、世間知らずだと気づいた瞬間であった。

 施設では総ての世話を焼いてくれる中年女性の次に年長であり、年下達の勉強の面倒を見たり、運動の練習を手伝っていたりした。

 年上の者達は皆十四歳になると施設を出て行く。

 十五にもなれば大人の仲間入りであるからである。

 ディーヴァより上の者は皆歳が離れていた。

 その為年長として扱われていた年月が長く、自分は施設の中で一番『何でもできる兄』であると思っていたのだが、そこを出て来た今、自分の肩書が何も無いと知り、急に体が冷えた気がして軽く首を振った。

「そうだ、街を一周してみよう」

 時間ならまだある。

 そう思って踏み出した道は、古びた本や雑誌で何度も見たことのある景色の筈なのに、まるで違う印象に変わって目前に広がっていた。

 埃っぽい空気、遠くで響く市場の喧騒、陽光に照らされた石畳の感触。

 総てが生き生きとディーヴァの五感を刺激した。

 勉強や鍛錬とは全く違う外の世界が開けている事を強く実感する。

 これからの旅の為に、自分の為に何かを買い揃える事も初めてで、少し申し訳なさを感じつつも何だかワクワクした。

 品物はどれも一点物の手作りかと思う品々が多く、細かな模様が掘られている物も多い。

 護身用の簡単な武器や、野宿用の簡易装備を一通り揃えると、買ったばかりの頑丈そうな布袋に詰めた。

 胸に小さな感動が広がるのを感じながら、いつのまにか目的地である門の前へとたどり着いていた。


「でかい‥‥!」

 思わず声が漏れる。

 入口の左右にあった巨大な二本の柱も相当大きく思ったのだが、それ以上に高くそびえ立っていたのは圧倒的な存在感の石造りの建造物だった。

 その脇に飛空船が静かに浮かんでいる。

 建造物のスケールがあまりにも大きすぎて、飛空船が小さく見えたが、それでも百人以上は軽く乗れそうな大きさである。

 予定の時間まではまだかなりあったのだが、ディーヴァは手に握りしめていた紙を広げ、案内文と何度も見比べながらゆっくりと手続きカウンターへと歩を進めた。

 予定より早い便への変更手続きが行われ、期待と緊張で獣耳が小さく揺れた。


 


 初めて乗る飛空船、初めて見る空の世界。

 離陸時の大きな音や普段より強い重力に驚きもしたが、それより何より眼下に広がる緑の大地が感動的で、ディーヴァは言葉を失った。

「外の世界はこんなにも水と植物に溢れているのか‥‥!」

 思わず出てしまった独り言に、近くの座席の客達が次々と笑顔になっていく。

 ハッとして赤面したのを隠す様に、ディーヴァはまた飛空船の窓から外を眺めた。

 目的地のはるか先の空が心なしか暗い事が気になりはしたが、海を越えた先に青々とした大地が無限に広がる中央大陸の豊かさに心奪われていた。


 飛空船から見える景色は、砂漠の街で育ったディーヴァにとって、まるで別世界だった。

 砂と石ばかりの故郷では、植物といえば乾燥に耐える低木や仙人掌位しかなく、辺り一面茶褐色の世界である。

 それが今、どこまでも続く森や草原、蛇行する川の輝きは空を反射し、船内は青や緑に彩られている。

 胸が高鳴り、知らず知らずのうちに尾が小さく揺れていた。

「初めての中央大陸か?」

 突然、隣の席から低い声が響き、ハッとして振り返るとそこには、焦げ茶の髪色の青年が座っていた。

 サングラスに、鋭くつり上がった細い眉、少し緩めのズボンにパーカーといった、雑誌でしか見た事の無い都会ファッションが、とても新鮮である。

 様々な紋様が描かれているとはいえ、落ち着いた色合いの布を組み合わせた様な服装のディーヴァとは対照的で、何の素材で作られているかも解らない不思議で鮮やかな服を着て、小綺麗な感じがどこか飛空船に慣れ過ぎているような雰囲気を漂わせている。

 彼の耳は源民族と呼ばれる普通の皮膚で出来た丸みのある形状で、ディーヴァの長くてもふもふした毛に覆われた獣耳とも対照的であった。

 教科書でしか見た事の無い種族と会話するのが始めてで、ディーヴァは少し緊張をした。

「え、は、はい、初めてです‥‥」

 見ず知らずの人に話しかけられるのも慣れていない。

 失礼な言い回しになっていないか少し不安になったが、男性の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。

「そうか。なら、いい旅になるといいな。中央大陸は広いぜ。森も、街も、全部が桁違いだ」

 彼はそう言うと、窓の外を指さした。

「あの暗い空、気になってるんだろ?」

 ディーヴァは目を瞬かせた。

 目的地の方向を超えた先に広がる空は、雲とも霧ともつかない灰色の影に覆われている。

 ディーヴァは頷きながら、握っていた紙、旅の目的が書かれた書類を無意識に握りしめた。

「あそこは北方大陸だ」

 男性の言葉に、ディーヴァの耳がピクリと動いた。

「ぽっぽー大陸‥‥?」

 ディーヴァの声には果てしない疑問符が張り付いていた。

 彼が北方大陸と言ったであろう事は頭で理解はしていたが、脳裏には真っ黒く煤けた鳩が身震いをして、黒い灰を周囲に撒き散らし、自身は灰色になる光景が浮かび上がっていく。

 どんなだよ、と自己ツッコミをする心と、灰色の影に沈む大陸の不気味さがせめぎ合っていた。

 書類には、中央大陸に赴き、総督直属の護覇府という所のカウンターで警護班治安維持部隊と、調査班捜査・情報部隊の入隊試験を受ける様にと指示があるだけで、詳細は曖昧な上北方大陸については何も書かれていない。

 北方大陸は常に黒い霧を湛え、世界中にウィルスを撒き散らしていると教科書で学びはしたが、実際に見るのは始めてである。

 とはいえ島自体は全く見えず、ただ空の一角が黒い事を確認するにとどまっていた。

「ああ。中央大陸の北側に位置する謎の大陸だ。大きさ的には五大陸中最も小さいんだが、瘴気が濃すぎて誰も近付けない上、あの黒い霧に触れると植物も獣も普通じゃなくなるって噂だ。まあ、それをどうにかしようっていうのが中央大陸護覇府の役割なんだがな」

 男性は肩をすくめ、ディーヴァの反応を窺うように目を細めた。

「お前、そっち方面に行くのか?」

 突然尋ねられ、ディーヴァは一瞬言葉に詰まった。

 手紙には北方大陸についての情報は一切書かれていない。

 だが、ディーヴァの目的地が彼の口走った中央大陸護覇府である以上、その『北方大陸』と関係していることは明らかだった。

「たぶん‥‥その辺の説明を聞かされに、中央大陸の護覇府っていう所に行く予定で」

 ディーヴァは正直に答えたが、声は少し自信無げに小さくなっていた。

 治安維持部隊や操作・情報部隊と書いてあったので、都市部の治安維持の為に戦闘能力補充の為に招集されたのだろうと軽く思っていたのだ。

 酔っ払いを制したり、強盗を捕まえたり。

 何なら事件事故の解決を手伝うお巡りさん的な役割だと思っていたのだ。

 それが突然大きな話である可能性を聞かされた為、ディーヴァは突然不安になったのだ。

―― こんな世間知らずに、そんな、大陸規模の大任なんて果たせるんだろうか‥‥。

 そんな風に悩み出したディーヴァの様子を見た男性は小さく笑うと、席に凭れかかった。

「って言ってもな、いきなりあそこに行けっていうのも早々ねえだろうから、そう心配するこたぁねえけどな。それより寧ろ、他の種族の奴らに気を付けた方がいい」

「他の種族?」

「そうだ。俺は見ての通り源民族、まあ、平たく言えば自然交配で進化したままの人間だ。お前獣魂族だろ?獣魂族は労働力として大いに役立つよう大昔源民族の手によって、遺伝子操作で筋力や野性味を増強させ、動物と掛け合わせて生み出された人間と、そいつらが長い年月で交配を繰り返して定着した人間を指す種族だから、その、なんだ、言い方悪いが労働者上がりとか、人工生物とか、獣風情がとか蔑む奴が少なからずいる。一応国際法的には種族は皆平等ってルールになっているんだがな。智械族なんてもっと酷いぞ。アイツらも元々源民族が生み出した人工知能搭載ロボだった癖に、独自進化を遂げて種族認定受けたもんだから、自分達以外全員劣等種扱いしやがる。勿論全員じゃねえんだが‥‥まあ、ちょっとな」

「ええ‥‥」

 男性が言う通り、教科書には種族は何であれ平等であり、能力にこそ得意不得意差はあるが、そこに上下関係はないと記されていた記憶がある。

 歴史的には獣魂族が奴隷として扱われていた時代がある事も勿論知っていたが、何百年も昔の考え方を今も続けている人がいるという話を実際に耳にすると中々のショックであった。


 その後、飛空船は徐々に高度を下げ始めた。

 窓の外には、緑の大地の中に、小山の様に膨らんだ流線形で真っ白い超巨大建造物が見えて来る。

 ディーヴァの尾がピタリと止まった。

「な、何あれ‥‥」

 余りの大きさに理解が追いつかない。

 その建造物一個では街一個分以上の大きさがあるように見える。

 南方大陸の街が百個入っても余りがありそうな、恐ろしく広大な範囲を覆い尽くしていた。

「あれがその、中央大陸の護覇府ってやつだ」

「あれ‥‥が?」

 南方大陸の飛空船搭乗口ですら大きいと思ったのに、それとは比較にならない規模の巨大さに、何も言葉が出てこない。

「到着だな」

 男性は立ち上がるとディーヴァの顔を見て苦笑した。

「わかった、俺も一緒に行ってやる。どの道カウンターに立ち寄る用があるんでな」

「え?」

「今ここで一人にしたら迷子になる気がしたんでな。俺の名前はレイだ。護覇府調査班に所属している。っていってもまあ、巷で見掛ける冒険者っぽい奴らは大半が捜査部隊の人間なんだけどな」

「冒険者‥‥」

「戦い慣れてそうな奴らって事だ」

 ディーヴァは改めてレイの姿を見たが、戦い慣れてそうにも冒険してそうにも見えなかったので、自分の感覚は世界とずれているのではないかと不安になり始めていた。

 どうみても都会の青年がちょっと観光して来たかのようないでたちである。

 手荷物の無さからみても、ちょっと近所に散歩しに来たと言われれば信じてしまいそうである。

 どの様な任務を受けて行動していたのか、それともたまたま非番だったのか、皆目見当がつかない。

 だが、短い間であってもレイがいてくれるのであれば、少しは勉強になるかもしれない、と純粋に有難く思った。

「ディーヴァです。宜しくお願いしますレイさん」

「丁寧語は要らねえよ。十中八九近い部隊に配属になるだろうしな。先輩後輩関係より、実力が重視されがちだし、お前前衛系だろ?獣魂族の前衛と正面から戦ったら俺には勝てる気がしねえよ」

「わかりま‥‥わ、わかった」

 ディーヴァが少し照れ臭そうに言い直したのを見て、レイはニカっと笑った。

 胸の奥で膨らんでいた小さな不安はその笑顔でかき消され、未知の世界への好奇心が広がっていく。

 飛空船が着陸し、ディーヴァは手紙を握りしめ、初めての中央大陸の地に足を踏み入れた。

 南方大陸の離発着場とは比較にならない程スタイリッシュで、真っ白で、どこまでも塵一つなさそうに思う程清潔感に溢れた空間に圧倒されながら、レイの後に続いていく。

 獣魂族のディーヴァの冒険が始まった瞬間であった。

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