Chapter 8:Old Pal
『オールド・パル』
ライ・ウイスキー、ドライ・ベルモット、カンパリで構成される、少しクセのある大人のカクテル。
名前の意味は「旧友」。
一度は離れていたとしても、また戻ってきてくれる──そんな願いが込められている。
—————————
カウンターには、有村がいた。
マスターは体調不良で休みだと、彼女から聞いていた。
代わりに、今夜は彼女が一人で店を切り盛りしている。
「今夜は……少し静かだね」
沢渡が腰掛けると、有村は笑って答えた。
「はい。月の第3金曜日だけが騒がしくなるんです」
それが自分のことだと気づき、沢渡は小さく笑った。
「うん、でも悪くないよ。この静けさ」
「そう言ってもらえると、救われます」
「それに俺も最近、第3金曜日以外にも顔を出してるし」
「そうですね。 私、沢渡さんのおかげで、随分と早く馴染めました。ありがとうございます」
グラスに注がれたOld Palは、琥珀にも朱にも見えた。
「でも……マスターがいないと、やっぱり少し心細いです」
「けど、君がいれば、もう十分じゃないか?」
沢渡の言葉に、有村は小さく首を振った。
「私、まだ何も成し遂げてないんです」
「成し遂げるって……もう充分、店を守ってるだろ」
「守ってるだけじゃ足りません。最初はカクテルの技術だけを学べばいいと思ってたんです。でも、この店に来る人たちは、それ以上の何かを求めてる。
マスターが応えていた“何か”を、私はまだ分かっていなくて……」
言葉に詰まった彼女を、沢渡は黙って見つめていた。
有村は手元のグラスを見つめながら、ぽつりとこぼす。
「……実は、マスター、最近ずっと体調が悪くて。
病院には行ってるみたいなんですが、体力的に限界が近いのかもしれません」
沢渡が顔を上げる。
「そんなに悪いのか?」
「はっきりとは聞いてません。でも、先日ぽつりと『そろそろ店を畳もうかと思ってる』って……」
「……そうか」
しばし、沈黙が落ちる。
「私、この店が本当に好きなんです。空気も、音も、照明の柔らかさも、全部。
もっとここで学びたい。でも──」
「でも?」
「私一人じゃ、足りないんです。お客様との距離の取り方や、言葉の選び方……カクテルを作るだけじゃ足りないって、最近やっと気づきました。
この店で本当にお客さんと向き合うには、もう少し人生を知らなきゃいけない気がして」
沢渡はグラスを持ち直し、静かに訊ねた。
「誰か、継ぐ人はいないのか?」
「いません。マスターにも、その気はないみたいです」
そして、有村はまっすぐに沢渡を見た。
「……沢渡さん、お願いがあります。
マスターにはまだ話してません。
でも、もし一緒にやってくれるなら、私、ここを続けていきたいんです」
「俺に、か?」
「はい。私じゃ力不足です。でも、沢渡さんがいれば──この店を、守れる気がするんです」
沢渡は目を伏せ、琥珀色の液体を見つめた。
「俺も、若くはない。不器用だし、感情表現も苦手だ」
「それがいいんです。誰よりも、相手を気遣ってくれるところが」
有村は、はっきりと告げた。
「沢渡さんなら、一緒にやれる気がします」
その言葉に、沢渡はしばらく黙っていた。
「……考えさせてくれ」
「もちろんです」
カウンター越しの距離が、今夜は少しだけ近く感じた。
その奥では、マスターがいつも通りに整えたであろうカウンターが、まるで店の矜持を保つように、静かに光っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます