Chapter 5:Godfather

『ゴッドファーザー』


アマレットとスコッチを合わせた酒、ゴッドファーザー。 甘く、苦く、少し重い。


名前ほどには厳しくなく、けれど優しさだけでもない。


男が何かを去るとき、この酒を選ぶことがある。

それが「始まり」ではなく、「ちゃんと終えた」と思える夜になるように


——————————


第3金曜日の夜。


少し遅れて、斎藤直樹が現れた。

スーツのジャケットを脱ぎ、いつもの席に腰を下ろす。


「今夜は、マスターのおすすめでお願いします。……少し、しんみりしてるやつで」


「了解」


俺はグラスを手に取り、アマレットとスコッチを静かに注ぎ始めた。

琥珀色の液体が、ゆっくりと満ちていく。


斎藤はそれをじっと見つめ、一口だけ含んで、ようやく言った。


「……異動が決まった。来月から、また名古屋」


IT男と沢渡が顔を上げる。


「しばらく、東京を離れる。たぶん、戻るのは当分先だ」


—————————


IT男と沢渡が顔を上げる。


「しばらく、東京を離れる。たぶん、戻るのは当分先だ」


IT男がふっと笑った。


「斎藤さん、あんまり“去る”って感じじゃないよね。名古屋だし、たぶんここにも、また顔出すよね?」


「そりゃあ、仕事次第だな。……でも、たぶん、もう“毎月の第3金曜”には戻ってこれない」


斎藤は静かに言った。


「だから、今日はちゃんと2人に挨拶しておきたかったんだ」


沢渡がグラスを傾けながら言う。


「……まじめですね、やっぱり」


「悪かったな、誠実なもんで」


「おい、それより乾杯だ。

斎藤──いや、この場合は“斎藤直樹”だな。

斎藤直樹の輝ける前途を祝して。 皆さん、ご唱和ください、乾杯!」


IT男が、おどけて言った。


「乾杯!」


「フルネームで呼ぶな、恥ずかしい。 でも、ありがとうな」


3人で笑った。

そのあと、ふっと静寂が戻る。


斎藤はグラスの縁を親指でなぞりながら、ぽつりとこぼした。


「……俺、東京に来て、最初の2年、正直うまく馴染めなかったんだ。 職場は冷たいし、家でも会話は減っていくし……」


「この店に初めて来たのが、たぶん3年前の春」


「雨、降ってた日ですね」


マスターが言った。


斎藤は驚いたように顔を上げる。


「珍しかったからね。びしょ濡れで来たスーツ姿の人は、そんなにいない」


斎藤は笑って、首を振った。


「……助けられましたよ、この店に。

何がって言われると、うまく言えないんですけど。

ここに来ると、“元に戻れる”感じがしたんです。ちゃんとした自分に」


誰も口を挟まなかった。

その言葉が、この夜にふさわしいと、皆が感じていた。


——————————


斎藤は残ったゴッドファーザーを一気に飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。


「名古屋、案外、悪くない街なんですよ。飯も意外とうまいし」


「海老フライ、味噌カツ、今は台湾ラーメンだっけ。 美味そうな土産、期待してるよ」


IT男がからかう。


「わかった。お前には、激辛のやつ用意しとく」


「誠、お前は、飲みすぎんなよ」


「そっちは、真面目すぎんなよ」


2人は軽く笑い合った。


斎藤はカウンターの内側へ、少しだけ身を傾け、マスターに言った。


「ありがとうございました、マスター。 ……この店があって、ほんとによかった」


マスターは、ただ静かに頷いた。 それが、最大の言葉だった。


—————————


Godfather。


甘さと苦みの間で、言葉にならなかったことを、そっと見送る酒。


—————————


斎藤直樹が去ったあと、カウンターには少しの余白と、 微かに残るアマレットの香りだけが漂っていた。

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