蜜月 リプレイ 前編

 プロショップ《Skanda》を出た二人は、真珠の家に向かって自転車を走らせていた。


 風が頬を撫でる。

《Skanda》がある田園地帯を自転車で走るのは、解放感があって素晴らしく楽しかった。

 田園地帯だから起伏も信号もなく、二人は快適にスピードを上げて帰路を駆ける。


「正臣、お店じゃ“弟”ポジなんだねー」


「あー、中学ん時からの顔見知りばっかだしな。めちゃ世話になってるし」


「んー、ホームって感じだね。でもなんかいきなりめっちゃフランクに相手してもらって、びっくりしたあ」


 ペダルを漕ぐ足のリズムに合わせて、真珠の声が弾んだ。


 ***



 そこは、田園地帯にポツンとある平屋の大きなカフェのようだった。


 不思議に自転車があまり見当たらない。自転車店なら普通、店頭に並んでいる完成車が全くない不思議な自転車屋。


 玄関にチョークボード、店名とご挨拶が達者なチョーク使いで書いてあった。


 店内もやはりカフェスタイルだった。小物、しゃれた什器、沢山の鉢植えとハンギングポットたちの間に完成車が展示してある。


 スポサイ専門店、の先入観があった真珠は呆気にとられた。


《Skanda》に足を踏み入れた途端、真珠は店内を眺める間もなくエプロン姿の女性に声を掛けられ、店内拭きぬけの下にある大きなテーブルに拉致された。


 マシンで淹れたての良い香りのコーヒーの香りが漂い、いごこちがよさそうな場所。店内の一等地だ。


「正臣はあっちいってなさい」


新見はカップを二つ渡されて、「はーい」と慣れた様子で店長の所にいってしまった。



「そう、真珠ちゃん、正臣と同じ学校なんだねー」


「はい、席も隣同士です」


 女性と真珠は熱々のコーヒーを一口飲んだ。


(あ、酸味があって柔らかくて、美味しい……)


「正臣とは、それ切っ掛け?」


「いえ、正臣が立ちコケして、ってわたしが押したんですけど、その時バックポケットに入ってた激辛サルサソースがパンクしちゃって」


 身振り手振りで説明する真珠、女性は声を出して笑う。

 テーブルの上のカップが、笑いに合わせて揺れた。


「あー、それ早朝走行会の時、ここの常連さんが配ってたやつだよぉ。そっかー、あれ、受け狙いのハバネロどちゃ盛りらしかったからねえ。あははは。正臣災難だ」


「で、家の前だったんでシャワー貸して、そっからです」


「あらあら。ふーん、そっからなんだあ~。じゃ災難でもなかったわけだ。うふふふふ」


「あ、はい。おかげさまで結果、今に至ってます」


 顔を見合わせて笑う二人―――窓辺に差し込む午後の光が、彼女たちの輪郭を優しく縁取っていた。



 ***



「あの人が店長の奥さん」


「えー、若い!なんか店長と歳の差がすごくない?」


 自転車のハンドルを軽く握り、真珠が首をかしげた。


「奥さん大概の人とあの感じで接客するからか、みんなすぐ常連みたいになっちゃうんだよな」


「わかり味深いわ~。奥さんが磁場を発生してるね、うん」


 新見は軽く笑いながら、「それなー」と肯定した。



「あ、わたし何も買わなかったけど、よかったかなー?」


「いや、買い物する暇、なかったろ」


「それなー」


笑う二人。


「でも、これ買っておいた」


ポケットからブリスターパックを取り出す新見。


「何?」


「チャリに着けるピカピカ。けっこう目立つ」


「ありがと、お金払うね」


「いや、これはやるよ。付き合わせたお礼な」


「初プレゼントだね、嬉しい」



「そいえばなんか、端からあんたの彼女扱いだったんですけどー」


「すまん。俺が初めて女の子連れてきたから、決めつけたんだろ」


「まあ、正真正銘“彼女”ですしー」


 いいながら少し頬を染める真珠。


「そうそう。真珠は俺の“彼女“です」


 へらっと笑う新見。


「いいな、“彼女”……あー、もう良さしかないわ」


「ばーか。大好き!」


「俺も、大好きー」


 ふたりでへらへら笑いながら住宅街を駆け抜けた。

 」

 次第に色づき始めた空の下、彼らの笑い声が風に乗って広がった。


 ***


 真珠のマンションに着いたのは、夕暮れが始まりかけた頃だった。


 エントランスのガラス張りには、西空のオレンジ色が映り込み、足元を照らす間接照明が柔らかな光を放っている。


 静かな空気が漂うロビー前。アプローチに、二人の影が落ちた。


「送ってくれてありがとう」


「ん。ああ。……寄ってって、いい?」


 新見は少し照れたように、視線を真珠から逸らした。


「もちろん!」




 部屋に入るとすぐ、真珠は洗面所に手を洗いにいったまま、しばらく戻ってこない。


「お待たせー、正臣も洗ってきて」


「うん」


 正臣が洗面台の前に立つと、使い捨ての歯ブラシと大ボトルのマウスウォッシュ、小さなステンレスのカップが二つ置いてあった。一個は使用済みで水滴が付いている。


「ホテルみたいだな」


 部屋に戻ると、真珠は薄いピンクのパーカーに着替えて何をするでもなく、ちょこんとソファに座っていた。


 ぽんぽん、と隣の場所を叩く真珠に促され、腰かける。が、いつもと違って、真珠は体に力が入っていた。


「どうした?」


「え、あ……うん。えっとお……」


 顔を覗き込むと、真珠は頬を真っ赤にして照れていた。

 新見は真珠の初々しさに胸がキュンと締め付けられ、どうしようもなく愛おしさが込み上げる。 


 そっと手を伸ばし、片方をうなじに、片方を頬に添えて自分の方に向かせた。

 両頬に手のひらを優しく添え直し、瞳を覗き込む。微笑む。


 真珠は顔を優しく、しかし確かに固定されて、そらすことができない。


「真珠、めちゃ可愛い」


 新見はそっと真珠の唇に自分の唇を重ねた。


「ん、んんっ…」


 最初は軽く身をこわばらせたが、すぐに力が抜け、柔らかくなった。


 静かなリビングに、二人の息遣いだけが響く。

 唇を離す。


 新見は真珠がそのまま自分に寄りかかってくるものと思っていたが、真珠はキスをする前の姿勢に戻ってしまった。


「は、恥ずかしい。前どうしてたかわかんない、どうしよう」


「そっか、うんうん」


 新見は真珠の頭をそっと自分の胸に引き寄せ、抱きしめた。

 つむじまで熱々だ。頭を優しくなでなでする。


「あ。……正臣」


「何?」


「あのさ、“なでぽ”って知ってる?」


「ああ、チョロインなやつだろ」


「ふふ。わたしもチョロかったあ」


 真珠がそのままぎゅーっと抱きしめ返してくる。


「めっちゃ正臣の匂いがするぅ。くんかくんかして、いい?」


「今日チャリ漕いだままで相当汗臭いと思うんだけど」


「だが、そこがいい……はあ。いいです。落ち着くのと、なんだかドキドキの、マリアージュ。幸せしきゃないよお……」



―――――――――――――――



ショップ《Skanda》の“スカンダ”はいわゆる《韋駄天》の事。

ヒンドゥの神様です。なんとなくヨーロッパの響きがあるけど

サンスクリット語でした(笑)


モデルになったショップは有ります。が奥さんは在店して

いません(笑)

店長がフランクなのは本当。

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