優しく見守る上弦の月

 金曜の夜。駅前ビルのフィットネスジムは、週末前の解放感と微かな熱気に満ちていた。


 心地よい疲労感に包まれながら、真珠はトレッドミルの速度を少し上げる。

 窓の外で滲む街の明かりが、まるで涙の膜越しに見ているかのように揺らめいた。


 ふとガラス張りのフリーウェイトゾーンに目をやると、彼の姿が映る。

 新見が、ショルダープレスのマシンで滑らかな筋肉の動きを見せていた。


 彼の周りには、いつも自然と人が集まる。案の定、今日もトレーニングウェア姿の女の子が、少し困ったような、でも嬉しそうな顔で彼に話しかけていた。


(―― ああ、まただ)


 新見はきっと、恋人を作って叶えたい“夢”があるんだろうな。

 ついこの間、ベッドでまったりしている時に聞いたばかりだ。


「ねえ、新見は何のためにそんなに体を鍛えてるの?」


「ん? ああ、俺、夢があってさ」


「え、なになに、教えてよ」


「彼女ができたらさ……、いややめとく。叶わなくなりそうだから、言わない」


「えー、そこまで言ってナシはひどい~」


「まあ、まずは相手を探すところからだけどな」


―― 新見はいいやつだし、このジムでも人気者だから、きっとすぐ見つかる、よ


 真珠がぼんやり考えていると、フリーウェイトゾーンで声が上がった。


 さっきの女の子が、ラットプルダウンのマシンでうまくフォームが取れずにいるらしい。それに気づいた新見が、ごく自然な動作で彼女の隣に歩み寄った。


 彼はマシンのピンを差し替えて重さを調整すると、「もう少し肩甲骨を寄せる感じで」と優しい声をかける。そして、ほんの少しだけ彼女の背中に手を添えた。それだけで、ぎこちなかった彼女の動きが、嘘のようにスムーズになる。

 女の子が


「すごい!ありがとうございます!」


 と花が咲くような笑顔を向けた。


 新見は


「いーえ。よくなったね」


と軽く手を振って、自分のトレーニングに戻っていく。


その、新見のチャームである優しさが、今は見たくなかった。




 ―― 新見の 彼女 かあ……


  ちぇっ いいなあ


  うらやましい なあ


  私じゃ だめかなあ



 彼の隣に居られる、たった一人の特別席。


 真珠にはそれがひどく遠くて手が届かないものに思えた。


 ―― セフレ じゃあ……だめ かあ……


  みじめだなあ……



 額の汗とは違う、熱い雫がこめかみを伝う。まずい、もう限界。今日はもう、帰ろう。




 新見がフロアから居なくなった真珠を探していると、着替え終わった彼女が一人帰ろうとしているのを見つけた。


 慌てて駆け寄る。


「筬島! なんだよ、帰るのか?」

「……うん、ゴメン。今日は、ナシで」


 いつもと違う硬い声に赤くなった目に新見の笑顔が消える。


「おい、何があった?お前、なんか変だぞ」


「なんでもない。……新見は、あの子たちと仲良くしてればいいじゃん」


 棘のある言い方だった。自分でも嫌になる。


「は? なんだよ、それ」


「ほんと、ごめん! 帰るね!」


 これ以上ここにいたら、全部ぶちまけてしまいそうだった。

 真珠は新見の腕を振り払うようにして、玄関へと駆け出した。


 トレーニングシューズのままの彼は、呆然とそれを見送ることしかできなかった。


 ***


 駐輪場から引っ張り出したミニベロに跨り、ペダルを強く踏み込んだ。


 わざと、この辺りで一番きつい坂のある道を選ぶ。


 心臓が張り裂けそうなくらい、脚が悲鳴を上げるくらいに走りたかった。

 この胸の痛みも、息苦しさも、全部体のせいにしてごまかしたかったから。





 坂のてっぺん。

 自販機の明かりだけが煌々と灯る休憩スペースでぜえぜえと肩で息をしながら、冷たいペットボトルのアイスティーを喉に流し込む。火照った体に、甘い液体が染み渡っていく。


 ぼんやりと、自分の愛車に視線を落とした。


 そこに光るのは、先週の日曜、新見が付け替えてくれたばかりのチェーンリング。

 油で少し汚れた指先で、彼は楽しそうに説明してくれた。


「ほら、ギヤが二枚になっただろ? アウターにビニールパイプを被せて、チェーンカバー代わりな。実際に使うのは、インナーだけ」


 そう言って、私の脚力に合わせて調整してくれた。ペダルは、驚くほど軽くなった。


「これで坂道も全然ラクになるから」


 そう笑った彼の顔。付け替えてすぐ、二人で走った。

 風を切って走る楽しさと、隣で笑う彼の横顔が、今も鮮やかに思い出せる。


 楽しかった 本当に 楽しかった


 新見 優しすぎるよ



 どうにかならないかな……


 自販機の明かりが、アイスティーの雫に反射してきらりと光る。


 ずっと 一緒にいたいなあ……



 どうしようもなく新見が恋しい。


 でも、でもまだ、終わりがきたわけじゃない



 後でRINEして、そんで月曜に思いっきり謝ろう。そうしよう。


 ペットボトルを捨てて、ミニベロに跨って登ってきた坂を下る。


 新見が教えてくれたダウンヒル姿勢で、慎重に。




 上弦の月が、真珠の進む方向に優しく光っていた。


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