スリッピンアウト ― スパークル ―

ナカムラ マコ

サルサソースが良い仕事

 土曜の早朝。眠らない街がようやく白み始めた頃、筬島真珠は一人暮らしのマンションに帰り着いた。


 派手なメイクの下には、ぐったりとした疲労と、満たされないままの欲求不満が澱のようにたまっている。週一の金曜日。年上のセフレとの逢瀬は、泥酔して帰ってきたセフレの介抱に終わり、期待は苛立ちに変わっていた。


「……最悪」


 吐き捨てて、マンション前の交差点で信号待ちする。その時、ふと隣に気配を感じた。視線を向けると、体にぴったりとフィットした派手なウェアを着て、ロードレーサーにまたがった男の子がいた。ひょろりとした体躯に、スカスカのヘルメット。


(うわ、ガチなやつじゃん)


 興味なさげに視線を戻しかけて、真珠はその横顔に見覚えがあることに気づく。


「……え、うそ」


 最近、席替えで隣になった、クラスでも地味な方の男子。確か、名前は。


「新見、おはよ。なにやってるん」


 声をかけると、ヘルメットの下の細い目が驚きに見開かれた。派手なへそ出しルックに、ばっちりメイクのギャル。まさか知り合いだとは思わなかったのだろう。


「わたしわたし、隣の席の筬島だよ」


「お、筬島さん!?びっくりした。俺の知り合いにこんな美人いたっけと思ったわ」


「やだ!」


 思ったよりストレートな言葉に、思わず頬が緩む。照れ隠しに新見の肩を軽くどづくと、その瞬間、予期せぬ事態が起きた。


「うわっ」


 新見の手が滑り、車体がぐらりと傾く。咄嗟に足をつこうとするが、片方のペダルからシューズが外れないらしい。まるでスローモーションのように、新見はロードレーサーごとアスファルトに倒れ込んだ。


「痛ってえ」


「ゴメーン、でもなんで足つかないの?」


「ペダルとシューズが繋がってるんだよ。いてて……」


 うずくまる新見の背中に、真珠はどろりとした赤い液体が滲み出しているのを見つけた。


「新見、血が出てる、大変!」


「へ? 血い?」


 新見が背中に手をやり、指先についた液体を顔の前に持ってくる。ぺろり、と舐めて、呆れたような顔をした。


「あ、これ違う。背中のポケットに入れてたジップロックの中身だわ。友達に分けてもらった激辛サルサソース……って、いてててて! 沁みる!」


 傷口にソースが染みたのか、新見が猛烈に痛がり出した。その姿がなんだかおかしくて、同時に放っておけなくて、真珠は叫んでいた。


「大変、うち来て!シャワー使いなよ!」


「わりい、このまま家帰れんし、頼むわ。くう、沁みるぅ」


 真珠に先導され、新見は「カタ、カタ」と奇妙な音を立てるシューズでロードレーサーを引いて歩く。


「チャリンコなんて置いてきなよ」


「これ、ン十万するんだぜ。そこらに置いといたら即持ってかれるわ」


「ふうん、そんな高いんだ」


「玄関まで持っていっていいか?」


「いいよ。新見ン宅でも玄関に置いてるん?」


「いや、部屋のラックに吊ってあるけど」


「あんた、自転車を部屋に入れてるん?怖!」


「ちぇっ…」


 呆れる真珠をよそに、新見は大事そうにロードレーサーを引いてエレベーターに乗った。


 ***


 バスルームに新見を案内し、真珠はドアの外から声をかける。


「新見、着てた服、洗濯してもいい?」


「あ、わりい。よろしく頼みます。あ、熱風乾燥はしないでね。ウェア縮むから」


「りょーかい!……って、パンツがないんだけど?」


「パンツ? あるだろそこに……あ、下着の事か。ないない、レーパンは直穿きなんだわ」


「いやん! 不潔ぅ! 変態ぃ!」


「そういうもんなの! そこらで見るローディは男も女もみんな直穿きだっつーの!」


 やだ、信じられない。カルチャーショックを受けつつも、真珠はバスタオルをドアノブに掛ける。


「タオル置いとくからね。あんた背ぇ高すぎだから貸してあげられる服ないし」


「サンキュー」


 しばらくして、新見が腰にバスタオル一枚を巻いた姿で出てきた。気まずそうに頬を赤らめている。


「そんなに照れなくても。男の裸なんて見慣れて……」


 言いかけた真珠の言葉が、途中で凍り付いた。

 新見の、上半身。

 ひょろりとしていたはずの、その体が。


(ちょ、待って……エグぅ……)


 絶句した真珠のリアクションに、新見が不思議そうに振り向く。


(背中の筋肉もヤバいけど、大胸筋と腹筋! キレすぎでしょ。てか、線の入り方、彫刻みたくバチバチじゃん。あたし、男の裸なんか見慣れてんのに、クルわあ~! アガるぅ!)


 普段の制服姿からは想像もつかない、研ぎ澄まされた肉体。それは、真珠が今まで見てきたどんな男の体とも違っていた。無駄がなく、機能的で、ひたすらに美しい。


「え、なにそれ」


 思わず、声が漏れた。


「え、なにが?」


「ちょ、マジ見惚れるんだけど…」


 真珠は吸い寄せられるように新見に近づく。


「に、新見、ち、ちょっと筋肉、触らせてくれない?」


「え、ええっ? 筬島さん、ちょっと近い近いって」


 期待した花金ナイトはバカセフレの泥酔でおじゃん、お預けをくらった欲求不満の火種が、目の前の美しい肉体によって再び燃え上がる。完全に我を忘れた真珠は、後ずさる新見の体に手を伸ばした。

 もみ合うようになった拍子に、するり、と腰のバスタオルが床に落ちる。


 真珠の視線は、露わになった下半身に釘付けになった。

(すっご……! 新見の“新見君”、見た目も背の高さも体のまんま!)


 次の瞬間、真珠は新見の体に抱きついていた。驚く彼の耳元で、甘く囁く。


「あのさ、新見って、童貞?」


「ち、ちがわい。…一年の時付き合ってた子と、数回…」


「数回?」


「体の相性があわなくて、フラれた…」


「ふーん」


「ちょ、ちょっと! 手! ダメだって筬島さん!」


「あのさ、わたし夕べ、セフレが泥酔状態でお預けくらってて、かなり欲求不満で、さ。あの、その、もし新見がよかったら、その不満を解消するの、手伝ってくれないかな。だめ?」


 熱に浮かされたような瞳で見上げられる。


「だめって…その」


「だ・め?」


 二人が床に沈んだのはそれからすぐ後の事だった。

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