第4話 ハインリヒ・ミュラー

 愛するのも愛されるのもつらい。そう思った。


 日が落ちるのが短くなった。影が街を飲み込む頃、カサカサと音をたててマロニエの葉が舞う。そんな通りを目下に、一人の青年が立っていた。高いビルの上から地上を眺めていた彼は、暗い瞳に決心を湛え、そして飛び降りた。

 その数瞬後、二人の男が現れる。


「つまり、どういうことでしょう」


 白い外套を身に纏った月長石色の男、アルベルトは顎に手を当て呟いた。


「ああ、前にも見たことがある」


 真夜中の影のような色をした男、ヴォイチェフはなんてことない風に答えてみせる。


「こんばんは、アルベルト」

「こんばんは、ヴォイチェフ。前にも見たことがあるとは?」

「彼は地面に落ちる前に死ぬ。そういうことだ」


 落下していく形で宙にとどまった青年の両隣で、二人の男は淡々と会話を続ける。


「おそらく死への恐怖に耐えきれず、ショックを起こしたのだろう」

「なるほど、僕は初めて見ました。そのようなこともあるのですね」

「飛び降りの場面ではままあることだ」


 ヴォイチェフはブックマッチを擦って煙草に火をつけた。ふうっと息をつくとその香りがアルベルトのもとへと届く。心地よい面持ちで両手を組み合わせると、アルベルトは目を瞑った。


「いい顔をするものだ。他の奴らには見せるなよ」

「見せませんよ。他の誰かの匂いであれば、こんな気持ちにはならないでしょうから」

「ならいいんだ」


 もう一度、深く息をつく。そんなヴォイチェフを見ながら、アルベルトは口を開く。


「以前から、思っていたのですけれど」

「なんだ?」

「僕は貴方の香りを楽しんでいる。懐かしむこともできる。でも僕は、貴方のために何か残せるのでしょうか」


 アルベルトはそっと目を伏せた。物憂げなその表情を楽しむように、ヴォイチェフは喉奥で笑った。


「お前がそんなことを気にする必要はない。私は、お前がどこかで私のことを想ってくれているだけで、それを想うだけで幸福だ」

「……僕も幸福です。でも残せるだけの何かが欲しかった」


 尚も笑いながら、ヴォイチェフは胸に仕舞われた銀のシガレットケースを叩く。


「私はお前といるときだけこれを吸う。これが私のもとにあるのを意識するたびに、お前のことを想う。それでは駄目か?」

「いいえ、……いいえ」


 アルベルトはヴォイチェフの燃えあがるような瞳を見つめる。ヴォイチェフも静かにアルベルトの夜露を湛える勿忘草のように潤む瞳を見つめる。


「ヴォイチェフ」

「なんだ」

「……何でもありません」

「そうか」

「聞かないのですね」

「言わなくともわかる。私もだアルベルト。お前だけが私の唯一だ」


 ふたり蕩けるような時間を過ごす。ヴォイチェフは少しだけ、この一瞬の逢瀬を待ち望むのは、悪なのだろうかと考えた。自分たちが出会う所には、必ず人の死がある。それを今日か明日かと夢見る日々は、人の死を望むことだと。アルベルトも少しだけ考える。この幸福は人の不幸と共にあると。アルベルトもヴォイチェフも人を愛し、慈しみ、その悲しみや苦しみをわずかでも除きたいと願っている。それでも誰かが死ぬたびに、また会えるだろうかと希望を抱いてしまう。あまりにもつらかった。

 けれどどうしても、互いのことを想うのをやめられないので、いつもそれを口にすることはなかった。愛するのも愛されるのもつらい。そう思った。

 少し黙っていると、青年の呼吸が止まった。絞るような、最後の一息が漏れ出て、そして終わった。

 アルベルトは月桂樹の刻まれた金の懐中時計を取り出して、時間を確認する。


「時間通りです」

「ああ」


 宙に浮かぶ青年に近づき、アルベルトは静かに息を吹きかける。青年の固く閉じられた瞼がぴくりと動き、開いた。途端青年は顔をくしゃくしゃに歪め、両腕で顔を覆う。


「ああ……。ああっ……」

「大丈夫です。もう、大丈夫です。僕たちは貴方を迎えに来ました」

「ぼ、ぼ、ぼ、僕は……。ううう」


 ぼろぼろと涙を流す青年の肩を、アルベルトはそっと抱く。オレンジの表紙に濃紫色で“Heinrich Müller”と書かれた手帳を開き、ヴォイチェフは口を開く。


「ハインリヒ・ミュラーだな」

「そ、そ、そうです……」

「ここにサインを貰いたいのだが……」


 ヴォイチェフは泣き続けるハインリヒを見て「少し待とう」と呟いた。


「僕は、……ぼ、僕は」

「はい」

「よ、よ、弱くて、ご、ごめんなさい……。ごめんなさい……っ」

「ええ、大丈夫ですよ」


 ハインリヒの肩をそっと撫でながら、静かに静かに声を掛ける。


「ハインリヒ・ミュラー。たとえ貴方がどんなに弱くても、自分を蔑んでも、僕たちは貴方を愛していますよ」

「ううっ、あああ……」

「愛してます」


 アルベルトはハインリヒの涙が落ち着くまで、ずっとその肩を抱いていた。ヴォイチェフは何も言わず、ただ待っていた。それも愛だった。

 しばらくして喉奥でしゃくり上げるだけになったハインリヒは、少し恥ずかしそうにヴォイチェフに向き合った。


「改めて、ハインリヒ・ミュラー。ここにサインを貰おう」

「はい……」


 サインを確認すると、ヴォイチェフはひとつ頷き手帳を仕舞う。


「すまないな。これも仕事だ」

「いえ、大丈夫です……。ごめんなさい」

「いいんだ。私たちは慣れている。……つらかったな」

「いいえ、僕が、弱かっただけで……。……はい、つらかった……」

「次の場所へ、私たちがそばにいる」

「……はい」


 ぐっと涙をこらえて、ハインリヒはヴォイチェフを見た。その目には小さくとも光が見えた。


「行きましょう」


 ハインリヒの足は土を踏んでいた。三人並んで歩きだす。

 アルベルトは愛するのも愛されるのもつらいと、そう思っていた。けど。


「それでも愛さずにはいられない」

「何か言ったか?」

「いいえ、何も」

「そうか」


 日は沈み、そしてまた昇る。



  終

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死者の隣で待ち合わせ 猫塚 喜弥斗 @kiyato

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