第十三面 拝啓、未来の貴方へ


 服を土だらけにしながらも、無事に帰ってきた美晴を見て、父はほっと息をついていた。

 目線を合わせ、どこに行っていたのかと問いかける父に、美晴が口を開きかけた時だった。


「この子です! この子があの山に……!」


「……何てこと。ひとまず、当主様へ報告して参ります」


 真っ青な顔の女が、美晴を指して叫んでいる。

 ただならぬ雰囲気に、父が美晴を守るように抱え込んだ。

 女の隣にいた使用人は少しして戻ってくると、「当主様がお呼びです」と父に声をかけた。



 静まり返った部屋の中で、美晴は不安そうに父を見上げている。対面に座る鈴世は、そんな美晴のことをじろりと睨んでいた。


「裏山に近づくなという警告を無視し、挙げ句の果てに立ち入るなど、やはり蛙の子は蛙というわけね」


「っ、美晴はまだ子供です……! 何もそんな……っ」


「子供から目を離した貴方の落ち度でもあるわ。全く、親子揃って愚かだなんて」


 鈴世にとって美晴の父は、娘を誑かし駆け落ちした底辺の人間だ。そして娘の美晴は、父親似の容姿と、心配そうに父を窺う気弱な態度が、鈴世の気に障って仕方がなかった。


「あの山に入った人間は、呪われるの。国があの山を自然遺産として登録したのも、人を立ち入らせないようにするためよ。山の奥地に行った者は二度と帰って来ず、少し足を踏み入れた者も近いうちに亡くなった。あの山にはね、人を呪い殺す化け物が棲みついているのよ」


「……そんな、どうしたら……」


 妻を失ったばかりの父は、娘まで失うことになるのかと、絶望した表情で声を震わせている。重々しい雰囲気の中、鈴世は「方法があるわ」と口にした。


「どんな方法ですか……!?」


「この子が呪い殺される前に、あの化け物を殺してしまえばいいのよ」


 衝撃のあまり、父は言葉を失っている。

 不穏な空気に、美晴は父の服を強く握りしめた。


「守護神などと馬鹿げたことを言う者もいるけれど、あの化け物の正体なら私が誰より知ってるわ。なぜなら、私の夫は──あの化け物に殺されたのだもの」


 すうっと冷えた目には、仄暗い恨みの感情が宿っている。


を守るためだもの。仕方がないことよ。……そうでしょう?」


 黙って拳を握った父を、美晴は涙が零れ落ちそうな瞳で見つめていた。




 ◆ ◆ ◆ ◆




 屋敷の外が騒がしい。

 父は美晴に部屋で待つよう言い聞かせ、鈴世と共に何処かへ向かっていった。

 膝に顔を埋めて泣いていた美晴は、涙で濡れた目を袖で拭うと、部屋の障子をそっと開いた。


 裏山の麓から、火の手が上がっている。

 轟々と燃え盛る炎が山の方へ広がっていくのを目にした瞬間、美晴は裸足のまま屋敷を飛び出していた。


 あの山には、神夜がいる。

 ほんの少しの時間だったが、美晴はすでに神夜のことが大好きになっていた。

 触れる手の優しさも、お面越しに響く声も。明るいようで、どこか寂しげな雰囲気も。全てが夜空で輝く一等星のように、美晴の目には煌めいて見えた。


 美晴の目に、もう涙は浮かんでいない。

 神夜の元へ行かなければ。美晴はただ、そればかり考えていた。




 祟りだ。

 村の誰かが、そうこぼした。


 山へと広がっていた炎は、なぜか突然変わった風向きにより、今や村を呑み込む勢いで迫ってきている。

 神を怒らせたのだと嘆く人々の後ろで、鈴世は忌々しげに山の方を睨んでいた。




 裏山に入った美晴は、恐ろしいほどの静けさの中、神夜を探してひたすら歩き回っていた。

 足の裏は傷だらけで、地面に触れるたび鋭い痛みが走る。

 何処にいるかなんて分からない。それでも、美晴は何度転んでも立ち上がり、懸命に神夜を探し続けた。


「かぐやくん、どこ……」


 美晴の体力は、もはや底をつきそうだった。

 ふらふらと揺れる身体は限界を超え、神夜に会いたい一心だけで動いている。

 段々と霞んでいく視界の端で、ふわりと何かが揺れた。


「しっぽ……?」


 昼間に見た、狐の尻尾にも似た柔らかな光。

 誘うように揺れる光を追いかけ、美晴は山の中を導かれるように進んでいった。


 突如、開けた場所に出た。


 切り抜いたような空には、美しい月が浮かんでいる。

 中央には池があり、月明かりに照らされた水辺の近くに、誰かが立っているのが見えた。


 お面の色こそ変わっているが、探していた人の姿に美晴は顔を輝かせ、駆け寄りながら神夜の名前を呼んだ。

 しかし、神夜はぼうっと空を見上げたまま、微動だにせずその場に佇んでいる。


「かぐやくん?」


 服の裾を引くも、神夜に反応はない。


「ねえ、かぐやくん。かぐやくんってば……」


 何度名前を呼ぼうと反応を示さない神夜に、とうとう美晴の目が潤んだ。

 神夜からは激しい怒りの感情と、それを凌駕するほどの虚無感が伝わってくる。怒っているのか、それとも泣いているのか。お面を外してみたくとも、美晴の背では微塵も届かない。

 近くにちょうどいい大きさの岩を見つけ、美晴はふらつきながらも岩によじ登った。そして、そのまま神夜に向かって思い切り体当たりをした。


 ばしゃんと鳴った水音と、徐々に湿っていく着物。

 水辺に倒れ込んだ神夜の目に、鮮やかな山吹が映った。


「……美晴?」


 何度か瞬いた神夜は、どこか夢現な様子で美晴の名前を口にした。

 背中を濡らす水の冷たさと、お腹に感じる温かさが、神夜の意識を急速に浮上させていく。


 きらきらと目を輝かせた美晴が、神夜の頬にぺたりと手を当てた。近くに浮かんだ狐面が、水面に波紋を広げる。


「なんでここに美晴が──」


「かぐやくん、おかおきれいだねぇ」


 世界が、表情を変えた。


 神夜を襲った衝撃は、言葉では到底表せないのかもしれない。

 それでも、お面のように無機質だった世界が、美しく晴れ渡っていく様は──まるで夜しか知らない鳥が、朝を越えたような衝撃だった。


「やっと見つけた……僕の、運命」


 神夜の手が、まろい頬に触れる。

 見た目よりも柔らかい髪が、日差しのように垂れた。


 眩しそうに目を細める紫夜に、太陽の光がくすぐったそうに笑んだ。




 ◆ ◆ ◇ ◇




 炎が鎮まったことで、村では忙しなく人が動いていた。

 そんな村を凍った目で見下ろしつつも、神夜は腕に抱えた美晴の視線を感じた途端、ぱっと華やいだ笑みを浮かべている。


「どうしたの?」


「かぐやくんのことみてたよ」


「え〜、嬉しい。美晴は僕の顔が好きなんだね」


「うん、すき!」


 純粋な好意は、時に凶器だ。

 取り繕うのが上手い神夜でも、一瞬固まるほどの威力だった。


「おかおもー、こえもー、なでてくれるのもすき!」


「わぁ、僕たち両思いだね〜」


「ねー」


 指を曲げながら好きなところを挙げていく美晴に、神夜が砂糖菓子のような声を出した。


「じゃあさ、美晴が大きくなったら──僕と結婚してくれる?」


「けっこん?」


 不思議そうに繰り返す美晴の顔に、神夜はいつの間にか手に持っていたお面を被せている。

 ぶわりと吹いた風が、美晴の髪を靡かせた。


「ずっと一緒にいることだよ。本当は素顔を見せた時点で結婚する決まりなんだけど、美晴はまだ小さいからね〜」


 花弁のように消えていくお面の先に、見覚えのある光景が映った。


「かぐやくん、ここ……」


 屋敷の庭園まで送ってくれたことに気づき、美晴が驚いた表情で神夜を見つめる。


「ね、約束してくれる?」


「うん。みはるがおおきくなったら、かぐやくんとけっこんする!」


 結婚についてよく知らない美晴だが、神夜とはずっと一緒にいたいと思った。

 迷うことなく答えた美晴に、神夜が溶けるような笑みを浮かべる。


 美晴をそっと地面に下ろした神夜が、狐のお面を被った。

 別れの気配を感じ、美晴が不安そうに神夜を見上げる。


「大丈夫。縛り約束があれば、必ずまた会えるから」


 時が来れば、たとえどれだけ離れていようと、美晴は神夜の元へ導かれるはずだ。

 面妖の領域は、“人間”を“人間から乖離”させてしまう。

 連れて行きたくとも、今の美晴には早すぎる場所だった。


「次に僕の素顔を見た時は、もう帰してあげられないからね」


 狐面の鼻が、美晴の額に当てられる。

 くすぐったそうに笑う美晴の姿を、神夜はお面越しに焼き付けておいた。


 

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