第17話

 最後に会ったアトレイは、長い金の髪を背中で纏め、青いリボンで結っていた。伸ばした前髪を撫でつけて額を露わする彼は、どこから見ても清廉な、立派な伯爵家当主の姿だった。


 泣けないどころか、抜かりなく喪主を務めるヒルデガルドに、彼は薄っすら笑みを浮かべて見せた。


 それはまるで「なんだ、また無理をしてるのか。仕方のない従姉妹殿だ」とでも言うように見えて、葬儀の場であるというのに、ヒルデガルドはその眼差しに慰められた。


 今、目の前にいる彼は、瞳に掛かる前髪をそのままさらりと遊ばせて、後ろは襟足まで短い。

 背丈も記憶の彼より幾分低い。厚みのあった胸元はまだ薄く、今は背丈に成長が奪われているように見える。


 制服の白い襟。

真っ直ぐ伸びる背筋ばかりは、ヒルデガルドがよく知る彼だと思う。


「アトレイ」


 ヒルデガルドの呼ぶ声に、アトレイが振り返った。


 アトレイ・ハノーヴァ・フィッツロイ。

 フィッツロイ子爵家の次男坊。

 父の弟である叔父は、ヒルデガルドの生家の傘下貴族に婿入りしていた。なのでヒルデガルドとアトレイは、家名が違う。


 嫡男の兄は、この春、ヒルデガルドたちと入れ替わるように学園を卒業している。既に婚約者との婚礼の日取りも定まって、子爵家当主を目指している。


 スペアのアトレイには、まだ婚約者は定められておらず、ヒルデガルドの記憶の限り、それは最後に会ったアトレイもそうであった。


 彼は、誰とも一度も婚約せず、誰とも一度も婚姻を結ばず、ヒルデガルドの生家のために人生を捧げてくれた。


 今生では、自由に恋をするべきだし、誰かと寄り添う人生を送れる。筈だった。

 ヒルデガルドの浅はかな考えでは、彼は自由になる筈だった。


 生家からも伯爵家からも離れたところで、彼らしい人生を選択することができたのだ。


「ごめんなさい」

「ん、なにが?」


 思わず溢れたのは謝罪だった。


「ああ、いえ、これを」


 しどろもどろになりながら、ヒルデガルドは鞄から薄い包みを取り出した。


「昨日はありがとう。汚してしまったから、これを」


 借りたハンカチは、確かに涙を拭ってはいたが、それほど汚れたわけではない。洗ってアイロンを掛けて返して差し障りはないのだが、ヒルデガルドはそうしなかった。


 白いハンカチに小さな刺繍を刺して、御礼として贈ることにした。

 一晩で刺せる絵柄であるから、紋章だなんて大層なものではない。ただ、真っ白なハンカチに心を込めて刺繍した。


「君の花だね」


 朝の学園の廊下であるのに、アトレイは構うことなく包みを開いた。本来、慎重な彼なのだが、馴染んだ従姉妹を前にすると気が緩むのだろう。こんな気さくな様子を見せる。


 ハンカチには青い桔梗の花を刺繍した。伯爵家では、桔梗はヒルデガルドを表す花である。

「誠実」「気品」「変わらぬ愛」。桔梗の花言葉には色々あるが、もう一つ「薄幸」というものもある。


「これ、君の瞳の色だ」


 桔梗は紫色が主流だが、ヒルデガルドは自分の瞳に寄せて、濃い藍色にビリジアンの糸を混ぜている。翠がかった青い瞳は、花というより海に思える。


「即席だから、粗は探さないでね」

「そんなことしないよ」


 アトレイは、早速ハンカチを使うつもりなのか、包みに戻すことはせずに、そのまま制服のポケットに入れた。

 何故か、彼がハンカチを使っているところを見たいような見るのは照れくさいような、不思議な気持ちになった。


 侯爵夫人として、目を瞑っても針を刺せるくらいには刺繍は刺したし得意であった。

 だが、絵柄は大抵家紋だった。自分の花が桔梗であることも、実のところ昨日まで忘れていたくらいだ。


 夫にも季節が変わる度にハンカチやクラヴァットや様々なものに刺繍してきたが、それらは彼の意匠ばかりだった。


 ヘレンはあんなに可憐な姿で、おっとりと誰よりも刺繍する姿が似合うのに、恐ろしいほど不器用だった。

 そんな彼女に頼み込まれて、一度だけ刺繍を教えたことがある。


 なんでそんな付き合い方をしたのだろう。徹底的に線引きをして、互いに交わることなく生きれば良いものを、どうしてか、お互い嫌いにはなれなかった。


 泣き虫ヘレン。

 夫の棺の前で、おいおいとむせび泣いた彼女の背中もまた、同じ時を過ごした分の老いが見えていた。


「何か御礼がしたいな」

「ええ?御礼のハンカチに御礼をされたら、今度は私が御礼しなくちゃいけないじゃない。それって御礼のメビウスの輪よ」

「それ、いいね。ずっと君と御礼し合うの」


 朝からたわけたことを言うアトレイに、呆れながらも気持ちが明るくなった。

 考えてしまえば切なくなる種は幾つも心に仕舞っている。切ない種に水をあげて、切なさの花を愛でることもできるだろう。


 けれども目の前には、何も始まる前のアトレイがいて、下らない冗談を言っている。


 この彼を、また自分は犠牲にするのだろうか。

 昨夜、父と話したことを思い起こして、ヒルデガルドの心に影が差した。


 人の扱いも差配も慣れている。だがそれは、侯爵家当主夫人の肩書きがあってのことで、非力で無位のヒルデガルドが、今なにを言っても何一つ動かすことはできないだろう。


 伯爵家を存続させるのに、独身を通すことを一族に認めさせる力は、今のヒルデガルドにはない。オースティンを迎えるときに、苦言を呈した一族を納得させたクリスフォードは、それほどの力を持っていた。


 前世も今世も非力な為に、アトレイを巻き込むことを、ヒルデガルドは苦しく思った。

 お日様が燦めくような琥珀色の瞳は、望む未来を見てほしいと、そう思いながらアトレイを見つめた。





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