第11話

 寝るのが怖いと思ったのは、幼い頃以来のことだろう。


 あの頃は、話が上手くて面白い侍女がいた。

 傘下貴族の何番目かの娘で、行儀見習いとして伯爵家で預かっていたのだが、彼女はなかなかのストーリーテラーで、なんでもないことを物語にするのが上手かった。


 それで、外には出られないローレンに、どこからそんな話が飛び出すのだと思うような奇想天外な物語を作っては、面白可笑しく話して聞かせてくれたのである。


「彼女、確か幼なじみの男爵令息と結婚したんじゃなかったかしら」


 ヒルデガルドが十歳になる頃に、嫁入りすると言って職を辞した。


「あら?確か彼女、家計の足しになるからと司書になったのではないかしら?」


 今頃は、何処かの図書館にでもいるのではないかと、お仕着せを着た記憶の彼女を懐かしく思い出した。


 懐かしい回想に浸るあまり、本題を見失うところだった。


 ヒルデガルドは今日は眠れないと思った。決して、眠ってはならない。怖くて目を瞑ることができないのだ。


 こんなこと、例のお話上手の侍女が、「伯爵家の七不思議」とか言って聞かせてくれた、夜な夜な子供部屋に現れる幽魔の話にビビり散らかした夜以来である。


 侍女の言った幽魔とは、ちっとも怖いものではなかった。なんでもその幽魔に会えたなら、生涯ささやかな幸福に恵まれるという。

 東国では『ハウスチャイルド』と呼ばれて、幸福のシンボルにもなっているとかなんとか。

 あの独創的な話が上手い侍女の言ったことだから、きっとローレンを楽しませるための作り話だったのだろう。


 だが、ローレンが喜んで聞いていたその横で、ヒルデガルドは震え上がっていたのだ。


 夜中に部屋に現れるってなに?

 恐ろしい以外に何があるの?

 百歩譲って防犯云々を脇に置いて、ソイツ、幽魔でしょう?人じゃあないわよね!


 あの晩は、結局朝まで眠ることができなかった。それで一晩中、小さな物音がするだけで怯えて震えて、いっそ寝落ちしたほうが百倍マシだと思ったのである。


 あの夜以来、数十年ぶりに、ヒルデガルドは眠れぬ夜を迎えていた。


「目が覚めた時に、全部夢だったなんてことになったら⋯⋯」


 折角、再会できたローレンが、夢だなんてそんなこと⋯⋯。

 そんなことは、彼の死を二度経験するくらい辛いことに思われた。


 若々しい両親も、元気な使用人たちも懐かしい生家も全て。アトレイも友人たちも、ありがたい学び舎も学食も。


 全部目の前に鮮やかに現れて、ヒルデガルドの心に喜びをもたらして、それで全て夢だったなんて、そんなこと。


「絶望で二度死ねる」


 朝がきたら戻ってしまう。もうローレンの最期に彼の手を握ってあげられない。


 なによりあそこに帰ったとして、もう夫はこの世にいないのだ。


「寝なければどうにかなる?」


 灯りを落とした部屋の中に、窓から月明かりが差し込んでいる。遠くから小夜啼鳥さよなきどりの声が聞こえて、もうこのまま時が止まってくれないかと思った瞬間、ヒルデガルドは寝落ちした。



「素晴らしい朝だわね」


 登る朝日に照らされて、ヒルデガルドは胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。

 早朝の朝露を含んだ空気は湿っていたが、耳元で囁く小鳥の声は、


『ヒルデガルド、朝だよ、新しい朝だよ、おめでとう』


 そう言っているとしか聞こえない。


 ヒルデガルドは、ちゃんと死んでいた。死んで死に戻って過去にいた。


「生きてるって、もうそれだけで素晴らしいわ」


 死に戻ってきたのだが、本人は痛くも痒くもないから、それを恐ろしいこととも思っていない。


 不平も不満もないはずだった。

 屋敷の使用人たちもオースティンもいてくれて、ヒルデガルドはもうしばらくは侯爵家の女主人として忙しい日々を過ごす筈だった。


 オースティンが結婚したなら、郊外に小さな家を買って、そこで読書三昧の生活をしよう。帳簿とも契約書とも無縁な日々には、恋物語でも読んで余生を過ごそうと思っていた。


 だが、いざ元の暮らしに戻るかもと、そう思った時に脳裏に浮かんだのは、この暮らしから戻りたくはないということだった。


「一日一日が有限で、人生とは、その有限を繋ぎ合わせた実に脆く儚い夢舞台なのだわ」


 そう言って、ヒルデガルドは朝日を見上げた。


 朝日を見つめすぎたのだろう。

 目が痛くなったヒルデガルドは、折角だから、もうひと寝しようと思った。


 回帰二日目は、学園は休みの日だった。

 初日から「頷き令嬢」なんて失敬なあだ名を付けられてしまったが、なんだかそれも気に入っている。


 休みを終えて学園に行ったなら、皆様のご期待に添えられるよう、ブンブン首を振って頷いて差し上げよう。


 ヒルデガルドは与えることに慣れている。

 求められるなら、それが笑いであってもお応えしたいと思う。

 そのうち、一人くらいはヒルデガルドに釣られて、教師の言葉に頷く生徒が現れるかもしれない。

 人生とは可能性に満ち満ちているのだから。


 残念ながら学園には行けないから、そうだ父と大事な話をしようと思った。


 どんなに時間があったとしても、ヒルデガルドは脳内タスク管理を怠らない。

 今すべきこと、今できること、今しなくてもよいこと。

 その三つを軸に、本日の行動計画を立てている。


 その結果、本日は父に話しておかねばならないことが思い浮かんだ。そうなると、寧ろ今日が休みであることに感謝した。


「可及的速やかに、お父様にはお認めいただかねばならないわ」


 部屋の中にはヒルデガルド一人であるのに、相変わらず独り言全開のヒルデガルドは、元気に一人語るのだった。





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