エッセイ:神戸北野、記憶と時を繋ぐ風景
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エッセイ:神戸北野、記憶と時を繋ぐ風景
第1章:新緑の待ち合わせ — 花の坂道
五月の風が、花びらの匂いを運んでくる。
古い友との約束まで、少し時間があった──そんな午後だった。
待ち合わせ迄、神戸・北野坂で開催中の「インフィオラータ神戸」に立ち寄る事にした。
“インフィオラータ神戸”は、春の北野を彩るイベントとして、GWの3日間にわたり開催される。"色とりどりの花びらで描く鮮やかな花絵の祭典"だ。
普段は観光客やカップルがゆったりと歩く北野の坂道も、この数日間は、花びらの祭りに誘われるように多くの人で賑わっている。
神戸という都市は、他の大都市と較べても、木々も多く、街の至る所に花々が植えられている。"花と緑の街"と言えるだろう。その中でも、"神戸北野"は最も花に溢れた地域だ。
この北野エリアを縦に突き抜ける北野坂は、異人館エリアの入り口であり、瀟洒な洋館やオープンテラスのカフェ、お洒落なショップが並ぶ通りだ。
どの季節も絵になる通りだが、私にとって、北野が最も美しいと感じるのは、5月、新緑の季節だ。
整然とした北野坂の歩道には、きれいに刈り込まれたトウカエデの街路樹が並び、その鮮やかな緑が目を引く。
歩道に沿って置かれた大きな鉢植えには、白いマーガレット、黄色や薄桃色のラナンキュラスが丁寧に寄せ植えられている。
そして、北に連なる六甲山の萌えるような新緑が、この坂道の頂点とつながり、北野の街並みと溶け合う光景は、何度見ても心をつかまれる。
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インフィオラータの期間中、北野坂は歩行者天国になる。
道路には緑の芝が敷き詰められ、その上にカラフルな花絵が描かれていく。芝生の緑に、赤や黄色のチューリップの花びらを使った絵が並び、それが坂道を段々に連ねる。
そして、背景に萌える六甲山の濃い緑を借景として、「花の神戸北野」という一枚の絵が完成する。
花絵をひととおり眺めたあと、喧騒を離れ、待ち合わせ場所である「にしむら珈琲 神戸本店」へと向かう。
時間は夕刻手前だった。
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私は学生時代、神戸・北野で長くアルバイトをしていた。
年月を経ても、この場所には自然と足が向く。だが、「にしむら珈琲 神戸本店」には、実のところあまり通わなかった。バイト先から近すぎたせいだ。
むしろ、蔦に覆われた煉瓦造りの「北野坂店」や、まるで会員制クラブハウスのような「ハーバーランド店」の方が、気分が高まった。
ただ、待ち合わせとなれば話は別だ。
山手幹線沿いに建つ「本店」の建物は、グリム童話の絵本から抜け出したような佇まいをしている。
白を基調にした三角屋根、深緑で縁取られた外壁、同じ緑の鎧窓には赤いサルビアが飾られ、ひと目で分かる目印だった。
にしむら珈琲では、寒い冬を除いて、いつもアイスコーヒーを頼む。氷までコーヒーでできていて、時間とともに少しずつ溶け出す苦味が、実にいい。
店員から「シロップ、お入れしますか」と尋ねられるが、今日はブラックでいく。
この苦味が、ただの待ち時間を豊かにしてくれる。
そして今日は、懐かしい思い出が、さらにその味をまろやかにしてくれる。
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第2章 黒服と北野-皿の向こうの午後-
学生時代、私は北野異人館のガイドを皮切りに、結婚式場、フレンチレストランと、様々な場所で働いた。
仕事の後には、先輩や仲間とよく飲みに出かけた。宴会の仕事が1件でもあれば、その後の飲み会は2件、3件と重ねた。稼いだバイト代の大半は北野で消えたが、それも今では良い思い出だ。
今日会う友人も、結婚式場でのアルバイト時代からの付き合いで、もう20年以上になる。
私たちが勤めていた結婚式場は、三宮・生田神社の西門すぐ前に位置しており、「セレモニー・リヨン」といった。
リヨンの経営者は、神戸に住む華僑一家だった。彼らのデザインや雰囲気に対するこだわりもあり、式場はとてもシックで、重厚感のある佇まいをしていた。
私はこの結婚式場に飾られる、季節ごとの美しい花々がとても好きだった。純白の薔薇やカサブランカを中心に、春はチューリップ、夏はミニひまわり、秋は赤薔薇、冬はアネモネ。
ウェディング装花はいつも鮮やかだった。
当時はフランス料理を売りにしたレストランウェディングで人気を博しており、生田神社で挙式した後、披露宴をこの「セレモニー・リヨン」で行うのが定番となっていた。
そこでは、私はウェイター、彼は音響担当として、同じ現場に立っていた。
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アルバイト歴が長くなると、色々と仕事を任されるようになる。
学生バイトながら、厨房とホールをつなぐデシャップや、二次会の進行・披露を担うキャプテンも経験した。そのため厨房とも関わりが深く、料理長をはじめ年上のスタッフとも随分と親しくなった。
ここは、こだわりの式場だけあって、オードブル用の飾り皿も一際華やかだった。朱色に金の縁取り、中央にはリヨンの金色刻印が入った美しい絵皿。食洗機の使用は禁止されており、宴会後はアルコールで1枚ずつ丁寧に手拭きしていた。
「シルバー」と呼ばれるナイフやフォークのカトラリーもすべて純銀であり、式場オリジナルの刻印入りだった。
だがこの銀食器、実は非常に手がかかる代物だった。
銀の性質上、放っておくとすぐに黒ずみ、しかもその汚れはまるで伝染病のように増殖する。そのため、宴会の合間には他のスタッフと一緒に、専用のシルバーパンチを使って黙々と磨いた。
この黒ずみは手強く、磨くたびに手は真っ黒になった。特にフォークは歯の間やリヨンのロゴの凹凸部分に汚れが溜まりやすく、地味ながら非常に手間のかかる作業だった。
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そんなある日、"シルバー磨きの終わりが見えるかもしれない日"がやって来た。
料理長が満面の笑みで言ったのだ。
「化学の力で、このシルバーの汚れが解決するぞ!」
アルミホイルを敷いたバットに熱湯と塩を入れ、そこに銀食器を浸す——。それが彼の言う“化学反応”だった。
「やっぱり化学、勉強は大事だよ!」と、強面の料理長が少年のような顔で語る。その姿は今でも印象深い。
さっそく私たちも実験を試した。
バットにお湯と塩、そして黒ずんだ銀食器を投入する。数十分後、確かに黒ずみは落ちた。頑固なものは残ったが、全体的には見違えるほど綺麗になった。
「流石、料理長、やはり化学ですね!」
と褒めたところ、「もっと褒めてくれよ」と言わんばかりの得意げな笑顔を返してきた。
しかし――その後、蛍光灯の下で改めて見て、私たちは凍りついた。
黒ずみは落ちた。しかし、"銀色だったカトラリーが、まるで金食器のように変色"していたのだ。
単体で見ていたときは気づかなかったが、元の銀色の食器と並べると、違いは歴然だった。
塩の濃度を変えたりして何度か試したが、結果は同じ。夢のような化学実験は、儚くも終わりを告げた。
そして私たちは、金色になってしまった銀食器を、再びひとつひとつ手磨きで元の輝きに戻していった。
あの時の労力も、料理長の笑顔も、今ではすべて良き思い出であり、リヨンの日々を彩る一篇のエピソードだ。
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第3章 TOR GARDEN-彩と香の庭-
勤務が終わると、大抵は生田神社の東門を抜けて、北野へと足を運んだ。
北野には自然と馴染みのカフェやジャズバーができ、それらが私の居場所になった。何より、北野を、私にとっての特別な場所にしてくれたのだと思う。
中でも印象に残っているのが、「TOR GARDEN」というカフェだ。
「TOR GARDEN」は、山手幹線とトーアロードの交差点、現在のNHK神戸支局の場所にあった。
大きな庭を持ち、ハーブの緑に囲まれた空間には、赤、青、黄の原色で'カラフルに塗られたワーゲンバス'が店舗入口に鎮座し、庭園のアクセントになっていた。
店内やテーブルには、庭で育ったラベンダーやローズマリーが、少し歪な形をした手作りのガラスの器で飾られていた。
店もスタッフも、とても自然体で、お洒落なセンスがあり、そこで過ごす時間はとても心地よかった。
春から夏にかけて、柔らかな灯でライトアップされた庭園でライトビールをよく飲んだ。また、神戸では珍しく「illy」の珈琲豆を使用しており、深みのあるエスプレッソが楽しめた。
特に気に入っていたドリンクは二つある。
ひとつは、"1/4サイズのモエ・シャンドン"。価格は1,400円とほぼ原価。
オーナーに「ストローで飲むのがオススメ」と言われ、試してみたが、この時は昼間からかなり酔った記憶がある。
「ネッ、本当によく酔うでしょ!」とオーナーの笑い声が響きながら。
「でも美味しい!後でおかわり」と言い、庭の芝に寝そべり、夏草の香りを嗅いだことを覚えている。
もうひとつは"パッションフルーツのソーダ割"。
琉球ガラスのグラスに注がれたシロップをペリエで割ったものだ。私は、この異国情緒を感じる優しい手作りのグラスが気に入っていた。
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その後、再開発のために店が閉業する際、オーナーからいくつか譲り受けた。今でも大切に保管しており、自宅では季節の花を生けるのに使っている。
TOR GARDEN、本当に素敵な場所だった。
あの店はもうないけれど──私の部屋には、あの庭の匂いを吸い込んだガラス器が今もある。
朝、花を活けるたび、遠い夏の日がふと立ち上がってくる。
こうして、“記憶のかけら”は、形を変えて生き続けているのだ。
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第4章 北野の夜-静かなる継承-
時は流れ、かつての勤務先や馴染みの店の多くは今、姿を消した。
私自身も、以前のように頻繁に北野を訪れることは少なくなった。
それでも、今日のように友人と北野を歩き、過去を語り合いながら新しい店を開拓するのもまた楽しい。
最近のお気に入りは、ハンター坂に入ってすぐの場所にある「ANTIDOTE」──解毒剤という名のついた、洒落たバーだ。
ニューヨークスタイルの洗練された内装に、マスターが手がけるカクテルはどれも絶品だ。
初めて訪れた夜に頼んだ“エスプレッソマティーニ”は、食後酒として軽く考えていたが、その深みに驚かされた。
そして、オリジナルカクテルには、季節の花が添えられるのも嬉しい演出だ。
以前、紫蘇とジンをベースにした一杯を頼んだところ、艶やかな朱色の紫蘇の花が小枝ごと添えられていた。
美しさと遊び心に、思わず顔がほころんだ。
フードも本格的だ。
特にナチョスは、チェダーとカッテージの2種のチーズに粗挽きミートが惜しげもなく載せられ、満足感がある。
鉄板の様子を見れば、ハンバーガーが看板商品であるのも納得だ。
ここへ訪れるたび、カウンターには旬のウィスキーが並ぶのも楽しい。
以前は“聖闘士星矢”シリーズ、今は“OLD PULTENEY”。ウィスキー好きの友人は、そうした出会いを毎回楽しみにしている。
今回訪れた際は、'PULTENEY'の協賛品らしい、ナイトブルーに神戸の風景を白抜きで描いたコースターでウィスキーを提供してくれた。
その美しいデザインに、かつて郵便局で買ったご当地葉書(神戸版)よりもセンスがあるね、と、友とグラスを傾けながら話した。
ただ一つ、難点があるとすれば音楽だ。
ニューヨークの雰囲気を意識してか、やや賑やかすぎる。しっとりと酒を楽しみたい夜には、どうしても音が気になってしまう。
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だから私は、二軒目に必ず音の良い店を選ぶ。そうして足を運ぶのが、もう少し坂を登った先にある「神戸ロバアタ商會」だ。
この店との出会いは20年前、今夜の友と共通の先輩に連れられて入ったのが最初だった。
それ以来、特別な夜には、決まってここを訪れている。
コロナ禍を経て、店は昔より小さくなった。それでも、初めて訪れたときの記憶は、今も鮮明だ。
入り口の大壺にはライトアップされた桜。カウンターには純白のカサブランカ、テーブルには白いトルコキキョウが活けられていた。仄暗い店内では、花と磨き抜かれたグラスが静かに輝いていた。
そして、白シャツにライトグレーのジレを纏ったバーテンダーが、見事な手さばきでカクテルを作っていた。
口当たりのいい薄いグラスで供される酒は、"すべてが美しく、心地よかった"。
当時は映画『カクテル』(トム・クルーズ主演)の影響もあり、カミカゼ、モスコミュール、ダイキリと、あれこれ試した。
そのうち友人と“テキーラサンライズで始まり、サンセットで締める”という少し遊び心のある飲み方をしていたのも懐かしい。
今の季節、この店で私が気に入っていたのは、美しい緑のミントが香る"モヒート"だ。
だが最近は、上質なミントの入手が難しいらしく、春夏の定番モヒートはしばらくお休みだという。それでも、季節ごとのカクテルの味わいは、この店ならではの楽しみだ。
そして何より、この店の魅力は音楽にある。マスターの選曲は常に的確で、流れも見事だ。音響にうるさい友人も、ここではただ唸るばかりである。
ある晩、カウンターで「原曲を超えるカバー曲」について語っていた時のこと。話題はエルヴィス・コステロの「She」に及んだ。
「確かに、あれはシャルル・アズナブールの原曲を超えてるかもな」と言い合っていると…
それまでの曲がふっと終わり、続いて店内に流れ始めたのは、まさにその「She」だった。
この絶妙なタイミング──マスターの選曲センスと傾聴力には、いつもながら驚かされる。そして、そんな彼の選曲に惹かれて集まる客も少なくない。
時には、「次はこう来たか!」と歓声が上がり、隣客と目配せして笑い合うこともある。
音楽をきっかけに、自然と会話が生まれるのだ。
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先日も音楽談義で盛り上がる中、とても美しい女性と隣り合った。
花に喩えるなら、間違いなく“カサブランカ”だ。たまたま、副業の話になり、彼女はこう言った。
「私、根っからの潔癖症なんだけど──副業、風俗嬢よ。」
「料理嫌いのコック」、「人間嫌いの営業マン」は知っている。
彼女の「潔癖症の風俗嬢」という自己紹介には、場が一気に華やいだ。
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想像の斜め上をいく出会い。
北野という街の愉しさは、こうした予測不能な時間にも宿っている。
もちろん、神戸北野の華やかだった昔の面影は、いまや随分と薄れてしまった。
けれど、あの頃の記憶は単なる過去ではなく、今も私の中に鮮やかに息づいている。
季節ごとに移ろう街の景色、その風景に重なるように、自分の人生の輪郭が少しずつ形をとっていく。
今日もまた、花に彩られた北野の風景と夜の灯りが、私の背中を静かに支えてくれている。
そして、夜が深まるほど、照らされる花は静かに浮かび上がる。
今も、あの街には──名もなき花と、灯りが咲いている。時が経とうとも、今も昔も、私にとって神戸北野は変わらず素敵な街だ。
別れがあれば出会いもある。
そうして、今夜もまた、神戸北野の夜は静かに更けていく。
エッセイ:神戸北野、記憶と時を繋ぐ風景 Spica|言葉を編む @Spica_Written
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