第5話 契約結婚
真っ白なバスタブでお湯に
その余りの気持ち良さに、
洗髪の後は、淡いジャスミンの香りのする石鹸で体を洗い、清潔な下着を身に着ける。
久しぶりにさっぱりと、生まれ変わったような気持ちになれた。
「お嬢さんは色白だから、この淡い桃色とか絶対似合うよ!」
「でもでも――こっちの青いドレスも、緑の
「うーん、迷うね~っ!」
松江とすずが悩みに悩んで、涼音の意見も取り入れて、やっと選んだ――スタンドカラーにゆったりとした袖、ウェストの細いベルトからふわりとスカートが広がる。襟や身頃を白いレースで飾った――清楚な水色のドレスに着替えて。
赤みを帯びた茶色の髪の上半分を編み込み、下半分は肩に垂らし。
小粒のパールを散りばめた髪飾りを付けて……涼音の仕度は完成した。
「うーわっ、良く似合うよ! まるで、異国のお姫様みたいだ!」
「本当です、お嬢様! どこのお姫様にも、ご令嬢にも負けませんっ!」
胸の前で両手を組み合わせた松江とすずが、キラキラとした眼差しで賛辞を送っていると。
そのタイミングを見計らったかのように、
「
と伝言が届く。
二人に見送られて、白い革靴のヒールをコツコツ楽し気に鳴らしながら、涼音は階段を降りて行った。
モーニングルームとは、
そこで待っていたのは、黒髪をきちんと整え、襟の高い白いシャツに白のクラヴァット(幅広のネクタイ)。
グレーのベストに、黒いスーツ姿の朔夜だった。
背が高く肩幅も広い細身の身体に、膝までのロングジャケットが良く似合う。
『素敵だわ。まるで舞踏会でレディと踊る紳士――いえ、王子様みたい……』
うっとり見とれていると、こほんと咳払いした朔夜が、
「とっても綺麗だ、涼音さん」
右手のひらを、すっと差し出して来た。
「そのぺールブルーのドレス、あなたの
『赤茶けた汚い色』とか『レンガみたい』とか。
義母と義妹から心無い言葉で、散々けなされた髪だけど。
『鳶色』なんて、素敵な表現をして貰ったのは初めて!
その瞬間から、大嫌いだった自分の髪が、大好きに変わった。
「あっ、ありがとうございます。朔夜様も、その――とても素敵です」
小さな声で答えながら、差し出された大きな右手に、涼音はそっと自分の左手を乗せた。
床から壁いっぱいに伸びた、大きなガラスの窓から。
午後の日差しが柔らかく降る、小ぢんまりとした居間。
部屋の中央には、クロスを掛けた丸いテーブルと、椅子が2客。
テーブルの上には、サンドイッチにケーキ、スコーン等が並んでいる。
サイドに置かれたワゴンには、ティーポットとティーカップ&ソーサーに、砂糖壺やミルクピッチャーが用意されていた。
「わたしが」
涼音がティーポットを、右手に取った。
お茶会で紅茶を入れるのは、招待した家の令嬢や女主人の役割と、以前女学校で教わった作法が
ずしりと腕に響く、久しぶりのポットの重さ。
でも籠いっぱいのカボチャやジャガイモを、毎日運んでいた涼音には、さほど苦にならない。
左手に持ったティーカップに、落ち着いた顔で香りの良い紅茶を注ぎ、
「ミルクとお砂糖は?」
と尋ねる。
「……あ、いや! そのままで」
「では、どうぞ」
何故かぽうっと上気した顔の朔夜に、『日が差し込んで、暑いのかしら?』と首を傾げながら、ソーサーごとカップを手渡した。
涼音が自分の分のお茶を入れた所で、
「では、いただきます」
カップを口元に運んだ朔夜が、こくりとひと口。
「美味い……」
青みを帯びた黒い瞳を、驚いた様に見開いた。
「ほんとに美味しいですね。今日は特別に良い茶葉を、使われているんですか?」
自分のカップのお茶を、ひと口飲んで尋ねた涼音に、
「いや、茶葉はいつもと同じはずだが。今日は特別、美味しく感じます」
きっぱりと答えが返って来る。
「涼音さんが入れてくれたから、かな?」
にこりと笑顔を向けられて、ドキリと高鳴る心臓。
「そんな、気のせいです……」
小声で返し
「サンドイッチはどうですか? キュウリにハム、こっちは卵か……リンゴのケーキもおすすめですよ? それからスコーンも!」
あれこれ山のように乗せた、取り皿を差しだされて。
「えっ、こんなに!? いくら何でも取りすぎです!」
目を丸くして唇を
「そうそう、そうやって心のままに。
「拗ねたり、怒ったり……?」
「表情を大きく動かすと、笑顔も作りやすくなる。
はい、クロテッドクリームと――このジャムはイチゴかな?」
「……ありがとうございます」
笑顔を忘れた涼音に、色々問い
感謝の気持ちを言葉に込めて、涼音はジャムを受け取った。
『ここは大丈夫だから』と、朔夜がメイドを下がらせた途端、しゅるんっと左手首から出てきた使い魔。
スコーンを小さな両手で持ち上げて、
「初めて会った頃の朔夜は、こんくらい小さくてなー?」
と、
松江が意外と涙もろいことや、軍医学校時代の失敗談を聴きながら、久方ぶりに楽しい時間を過ごした後で。
くっと紅茶を飲み干した朔夜が、表情を改めて口を開いた。
「涼音さん、まずは助けに行くのが遅くなったことを、謝罪させてください」
たまたま
「なのでとり急ぎ、松江に潜入してもらったんだ。あなたの命を守ることを、最優先に」
「はい、先程伺いました」
「そこで、朝霧涼音さん――俺、いやわたしと『契約結婚』をして頂きたい」
「契約、結婚……?」
初めて聞く言葉に、涼音は首を傾げる。
結婚って、あの結婚よね? 好きあった男女が一緒になる。
いやいや、一緒って変な意味じゃなくて!
そこでボンッと頬が、燃えるように熱くなり。
「涼音ー、顔が真っ赤やで?」
周ににんまり笑われて、両手で頬を隠しながら。
「わたしには、婚約者がおります!」
慌てて声を上げた。
「だが、未だ行方不明で……」
「ご遺体はまだ、見つかっておりません! 見つかったのは――父だけです」
そのエトワール号に乗っていた、父と婚約者。
女性や子供達を優先して救命ボートに乗せ、自分たちは乗り遅れた二人。
父の遺体は数日後、港に流れ着いた。
傷だらけになった身体とは裏腹に、顔は穏やかで綺麗なままだったと。
現地で葬儀を取り仕切ってくれた、外交官から伝えられた。
「お父上の事は、本当に残念だった」
朔夜からハンカチをそっと差し出されて、自分の頬が涙で濡れている事に気が付く。
目頭にハンカチを押し当ててから、
「だからこそ、
真っ直ぐに訴えた涼音の、金色がかった茶色の瞳。
それを、青みがかった黒い瞳が受け止める。
「その希望を守るための――『契約結婚』です」
静かな声で、朔夜は答えた。
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