第3話 軍医と使い魔
※冒頭に暴力表現があります。ご注意ください。
◆◆◆
軍人の左手首から飛び出たケモノは、目にも留まらない速さで、
「つっ……!」
反射的にのけぞり、払い除けようと上げた、男の右手。
「行っくでぇーっ!」
壁をトンっと蹴って戻って来たケモノが、そこに牙を
ペリペリッと二度、何かが
人差し指と親指の先から、ぶしゅっと勢いよく血が噴き出す。
「痛っ! いてぇっ!」
右手首を左手で押さえて、のたうち舞う男。
「お嬢様、あのひと爪が剥がれて……」
すずの震える声を聞いて、思わず目を見張った涼音の前に、すっと影が落ちた。
「見るな」
低く、思いがけず優しく響く声。
「若い令嬢が見て、気持ちのいいものではない」
同時に白い手袋をはめた軍人の左手が、まるで目隠しをするように目の前を
久方ぶりに、すず以外の他人から向けられた、温かな心使い。
「はい。ありがとうございます」
嬉しくて有難くて。
少し涙ぐんで答えると、ふっと頭上で笑ったような気配がした。
◇◇◇
「何ですって! すずめ――いえ、涼音を引き取る!?」
「はい。彼女の婚約者、
『もし自分に何かあった時は、彼女を頼む』と、常々言っておりました。
これが委任状です」
女衒を医者に担ぎ込んだり、掃除をしたりで騒がしい玄関先から、場を移した客間。
目をむいて驚く義母に、書類を突き付けているのは、先程の軍人だった。
「わたしは
短めに整えた黒髪から、額にはらりと落ちる前髪。
180㎝近い長身に、きりっと引き締まった凛々しい顔立ち。
立ち襟と袖口とベルトが黒い、白の軍服姿が良く映える。
先ほど赤く光って見えた瞳は、今は青みを帯びた漆黒の、落ちついた光を放っていた。
「春喜さんが、そんなお心遣いを……」
幼なじみで兄のようだった、優しい婚約者。
父の仕事に同行した欧州で、客船の事故に合い。
以来半年もの間、行方知れずに。
恋愛小説に出て来る、『身をこがすような恋』とかでは、決して無かったけど。
わたしの事をずっと、気遣ってくださってたんだ。
じわりと胸の奥から沸き起こる、温かな想い。
それをそっと、涼音が抱きしてめていると、
「まぁっ、軍医部長といえば少将クラス! ご立派ですわぁ!」
整った朔夜の顔をうっとりと見上げて、義妹の瑠璃が甲高い声を上げた。
「あらあら、少将様!? 失礼ですけど剣持様は、おいくつでいらっしゃいますの?」
きらーんと目を輝かせた義母の問いかけに、
「23です」
そっけなく、軍医は答えた。
「まぁまぁ、そんなにご立派なのに、お若くてらっしゃる! でしたら! もう18歳の涼音より17の瑠璃の方が、ずっとお似合いですわ!」
「お母様ったら! そんなホントのことをーっ!」
すかさず返した義母と、嬉しそうに身をくねらせる義妹。
「なにが、『でしたら』なんだ?」
軽く握った左手を、口元に当てて漏らした、不機嫌そうな朔夜の呟きに
『ぐふっ……』
手首の内側から、甲高い笑い声が漏れた。
「あらっ、今のは――」
涼音が首を傾げたとき、
「お待たせしてすみません! 剣持様、お嬢様……!」
風呂敷包みを抱えたすずが、客間の入口から弾んだ声をかけて来た。
朝霧家の玄関先に留められていた、運転手付きの高級外車。
背の高い軍医にエスコートされて、まるでお姫様にでもなったような気持ちで、涼音とすずは乗り込んだ。
フカフカの座席は赤いビロードで覆われ、ピカピカの窓ガラスからは帝都の街並みが、飛ぶように流れて行く。
「あのっ、この子までお連れくださって、本当にありがとうございました、剣持様」
改めて頭を下げる涼音。
「ありがとうございますっ!」
横ですずも、ぴょこんとお辞儀をした。
「いや。俺は涼音さんに聞いた通り、あの壊れた壺の紋が将軍家の『三つ葉葵』ではなく、『かたばみ』だと説明しただけだ」
三つ葉葵もかたばみも、どちらも三つに分かれた葉を型どっていて、シルエットがよく似ている。
割れた壺の欠片を見て、その事に涼音は気付いたのだ。
でも自分がいくら説明しても、義母は聞く耳持たないだろう。
それを察した剣持が、『あの子が割ったのは家宝ではないと、俺から説明しよう』と請け負ってくれた。
ついでに『すずも一緒に引き取る』と伝えてくれたのは、嬉しいサプライズだったけど。
「そもそも、あんな女衒が出入りするような家に、こんな小さな子を置いておけるか! あと、『朔夜』でいい」
少し照れたように、目を逸らして答えた軍医に。
「「はい、朔夜さま!」」
嬉しそうに顔を見合わせてから、声を揃えて涼音とすずが答えた。
「それより涼音さん、荷物はいいのか? 確かに着替えや身の回りの品は、用意してあると言ったが」
何も持たずにあの家を後にした事を、気遣うように朔夜が尋ねる。
「はい。大事なもの――両親の形見は、肌身離さず持っておりましたから」
色褪せた着物の、衿の間から取り出したハンカチを、涼音は広げてみせた。
そこに乗っていたのは、父の形見のネクタイピンと母の形見のブローチ。
「わたしが小さい頃、両親がお互いに、プレゼントした品なんです」
いつも互いを思いやっていた父と母の事を思い出して、つい涙ぐんだ涼音に、
「へぇっ……仲良しだったんやね?」
窓枠にかけた軍医の左腕から、弾むような声が響いた。
「その声、さっきの?」
首をかしげた涼音の目の前に。
「ったくアマネ、少しは黙ってられないのか?」
ぶつぶつと小言を言いながら、すっと朔夜の左手が差し出された。
手の甲側の袖を少したくしあげると、引き締まった手首の上に。
細い竹筒のような物が、太いベルトでしっかり留められている。
じっと見つめていると、筒の中からひょっこり、小さな顔がのぞいた。
ぴんっと立った大きな耳に黒いつぶらな瞳、ちょんと揃えた両手に、ふさりと添えたふかふかの尻尾。
「キツネさん……?」|
思わず両手を差し出して、問いかけると
「ぉん!「『
ぴょんと勢いよく飛び出して来た、白い小さな狐が、ふさりと涼音のてのひらに飛び乗って。
嬉しそうに、にぃっと笑った。
「あまね? よろしく」
つられたように、目元だけ細めて、唇を歪めた涼音。
その顔をじっと見上げた周が、ポツリとつぶやく。
「涼音は笑い方、忘れてもたんやな?」
「笑い方を――?」
痛まし気に、眉をひそめる朔夜。
「大丈夫や。きっと思い出せるで!」
柔らかな尻尾でふさりと、慰めるように涼音の頬を撫でてから。
しゅんっと左手首に戻っていく、小さな使い魔。
「涼音さん……こいつは、予言が得意なんだ」
『だから、大丈夫』と言うように。
目を合わせて
夜空を照らす月のような、優しい笑顔だった。
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