第2話 すずの苦境
まだ12歳のすずは、ほんの幼い頃に両親を流行り病で亡くして。
子守りや使い走りなどで小銭を稼ぎながら、兄と弟の3人でなんとか暮らして来たらしい。
「ここは
にっかり笑って、教えてくれた。
差配人は大家とも呼ばれ、長屋などを管理して、家賃の徴収や住人の世話を焼く人のこと。
「いつか、その時が来たら……良かったら、お嬢様も一緒に来ませんか?
兄ちゃんのお嫁さんに――いや兄ちゃんは優しいけど、そんな男前じゃないし! もったいないか!
えっとじゃあ、お姉さんになってください。ほら、涼音様とすずで名前も似てるし!」
『家族になろう』と誘ってくれて、2人きりの時は『お嬢様』と呼んでくれた。
「お許しくださいっ……!」
そんな優しい少女の悲痛な声が今、表玄関の方から確かに聴こえた。
「すずっ……?」
ぱっと立ち上がった涼音は、夢中で廊下を走った。
以前の広い屋敷とは違い、台所からほんの二部屋分を抜けるだけ。
普段
その後ろから覗き込んだ、涼音の目に飛び込んで来たのは、
「お願いします――お許しください、奥様! 今までの何倍も、何十倍も働きます! お給金無しで構いませんっ!」
正座した頭を床に
その前で、
「はぁっ? お前がたとえ、百年ただ働きしたって。弁償なんて出来やしないよ!」
紫の絹地に金箔や刺繍を
真っ赤に紅を塗った口を、忌々しそうに歪ませているのは、父の後妻――義母の香夜子だ。
「そうよ、そうよ! あんたが壊したこの壺はねぇ、葵のご紋が付いた、大事なウチの家宝よ!
それを落として割っちゃうなんて、呆れて物も言えないわぁ!」
横から義理の妹、瑠璃も口を挟んで来る。
義母によく似たその顔は、一見整ってはいるが、ぽっちゃり横幅が広く。
意地悪そうに吊上がった目と、あざけ笑いを浮かべた唇から、ねじ曲がった性根が透けて見える。
レースやフリルで飾り立てたドレスは流行遅れだし、和風な顔立ちともまるで似合っていない。
そのドレスと着物の裾に、追いやられた風情で。
床の隅に無造作に置かれているのは、割れた壺の
「あれを、すずが……?」
思わずつぶやいた涼音の声を捕らえ、ちらっと振り向いたのは女中頭の松江。
ぱっと、慌てて口を押さえると、
「ホコリを払ってる最中に、手を滑らしたんだと」
むっつりと答えが返って来た。
あの壺が、家宝……?
そんな事、あり得ない!
きゅっと涼音が、唇を引き結んだとき。
玄関に置かれた
「だからよ、お嬢ちゃん。この証文に、名前書くだけでいいんだよ?
そしたら壺の弁償は済むし、あんただって末は太夫様。万々歳で、八方丸く納まるってもんだ!」
にやりと身を乗り出したのは、この辺りでは見かけない、目つきの鋭い
縞の着物を腕まくりした、太い腕には彫り物。
そのごつい指先で、1枚の紙きれをぺらりと広げた。
「証文って、まさか……?」
目を見開いた涼音に、
「吉原だよ。あいつは『
苦々しい顔で、吐き捨てるように松江が告げた。
吉原。
幕府に公認されていた遊郭。
遊女たちが魂を削るように、その身を売る場所だ。
女衒は女性達を、遊郭に売る仲介業者。
維新後に『吉原廃止令』が施行されたはずだが、その旧態依然とした状況は、今も変わってないという。
そんな場所に、すずが……?
「だめっ――だめです! そんなこと、わたしが許しませんっ!」
気が付いた時には走り寄り、すずを
「お嬢様っ……!」
腕の中のすずが、涙声で呼ぶ。
虚を突かれた男は、一瞬身構えたが、
「これはこれは……小娘より、ずっと上玉だ」
そろりと伸ばした右手で、涼音のあごを捕らえた。
ぐいっと無理やり上げられた顔を、至近距離からにやにや値踏みされて、おぞましさに鳥肌が立つ。
「放しなさいっ――!」
ぱっと顔を背けた涼音の耳元に、男がささやいた。
「あんたが身代わりになるってんなら、この子は無罪放免だ」
「身代わり……?」
「そうさ。この小娘の代わりにお嬢さん、あんたが吉原に行くんだよ」
男に告げられた言葉の衝撃で、身体が固まる。
声も出ない。
しんっと張り詰めた空気の中、
「そんなの、理屈に合わないだろっ!」
意外にも真っ先に、松江が声を上げた。
「そうです! いけません、お嬢様!」
涼音の腕に取り付きながら、すずも叫ぶ。
それを合図に、
「確かに、いくら何でも――おかしいよな?」
「仮にも伯爵令嬢を、売り飛ばすなんて!」
「他の華族様にだって、顔向け出来ないだろ!?」
ざわざわと、他の使用人たちも騒ぎ出した。
その奥で、ちっと
「そうだよねぇ。でも家宝を壊したすずの身代わりに、『すずめ』本人が行きたいって言ってるのを、無理に引き止める訳にもねぇ」
口先だけ、さも残念そうにつぶやいて。
「そうよ! それにほら吉原に行ったら、そんなボロじゃなくて、キレイな着物が着れるもの。
行きたいわよねぇ、『すずめ』お姉様?」
瑠璃も楽しそうに、口裏を合わせる。
二人して『貧乏くさい所も、髪の色までそっくり』と。
日頃から涼音を『すずめ』と呼んで、あざ笑っているのだ。
「行きたいわけ――そもそもあの壺は、将軍家から賜った家宝なんかじゃありません!」
カッとなって思わず、声を張った涼音に。
「うっせぇな! 優しくしてあげりゃ、つけ上がりやがって!」
苛立った男が、右手を振り上げた。
その時、
ぴたりと戸を、閉じていたはずの表玄関。
その
長身の軍服姿が、ゆらりと立つ。
長い前髪の間から、女衒の男を射る赤い瞳。
「その手を下ろせ、外道」
吐き捨てるように告げると同時に、突き出した左手首。
そこからしゅるんっと、小さなケモノが飛び出した。
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