第12話:ターニャ、平穏を夢見る
凍てつく冬の夜、第二〇三航空魔導大隊の兵舎の食堂には、暖かな空気が満ちていた。テーブルには、ヴィーシャ伍長が創意工夫を凝らした、数々のジャガイモ料理が並んでいる。香ばしい油の匂い、温かいシチューの湯気。食器が触れ合う軽快な音。兵士たちは皆、笑顔で食事を囲んでいた。
「おい、明日は訓練だってのに、こんなに食ったら走れないぞ!」
「いいじゃねぇか、誰が一番多くおかわりするか賭けようぜ!」
そんな小さなやり取りが、食堂の雰囲気をさらに和やかにしている。ターニャ・デグレチャフ少佐は、その光景を静かに眺めていた。彼女の脳内では、この和やかな食卓が、軍事的に極めて合理的な状況として解析されている。
【記録】現在、士気、最高潮。資源の効率的運用、確認。部隊の統制、安定。
彼女は、この「完璧な兵站」の光景が、これまでの様々な非効率な出来事の上に成り立っていることに気づく。彼女の思考は、過去を遡り始める。
「……あのパン争奪戦は、今思えば、単なる物資の分配問題ではない。兵站の概念を学ぶための、基礎的な訓練であった」
彼女の思考の中では、すべての日常が、軍事的な意味を持っていた。
「ヴィーシャ伍長の超高カロリー料理は、士気向上という非効率な兵器の性能評価。子守という不確定要素は、感情という未知の変数を解析する端緒であった」
彼女は、過去の出来事を一つずつ思い出す。
雪合戦で雪玉に魔力を込めた時、頬を刺すような冷気の中で感じた、純粋な闘争の喜び。温泉で「お子様料金」と言われた時、アイデンティティを否定されたことへの、理不尽な怒り。
「……あれらの非効率な感情が、結果として、この安寧を築き上げたというのか?」
ターニャの合理主義は、この矛盾を前にして迷走を始める。彼女の脳内では、「効率」「非効率」という判定ログが、激しく点滅していた。
【記録】パン争奪戦:非効率。結果、秩序回復。判定:有効。
【記録】子守任務:非効率。結果、感情変数の検出。判定:未定義。
その時、ヴィーシャがターニャの前に、湯気の立つジャガイモのシチューを差し出した。
「少佐。おかわり、いかがですか?」
ヴィーシャの笑顔は、この矛盾した理論を象徴するようであった。ターニャは、その湯気の向こうに、前世の記憶をちらりと見た。
――深夜の残業で冷めたカップ麺をすすった時の、あの虚無感。過労死寸前のオフィスで鳴り響くコピー機の騒音と、この食堂で響く食器の音。
ターニャは、スプーンを手に取った。熱い湯気。香ばしい匂い。舌に広がる優しい甘み。それは、非効率で、非論理的で、そして……彼女の理屈では説明できないほどに、安らかな味であった。
その瞬間、彼女の脳内ログが、一瞬だけ錯乱する。
【障害】コピー機の音が、笑い声に変換されました。
【警告】未知の価値観、再検出。コード名:安寧。
ターニャは、静かにスプーンを置き、窓の外に広がる星空を見上げた。前世で、合理主義を追求する中で、決して手に入れることができなかったもの。彼女が望んでいたものは、常に「安全な生活」だったはずだ。
「これは安寧ではない。兵站管理の副作用と呼ぶべきだろう。誰が、こんな非効率な感情の積み重ねを美談と呼ぶのか」
ターニャは、そう呟くことで、自分自身に言い聞かせた。
そして、彼女は、静かに自問する。
「……兵站管理者としての私は、この結果を歓迎すべきか?」
「……平穏を求める一人の人間としての私は、この光景に何を思うべきか?」
その問いに、彼女自身、答えを出すことはできなかった。そして、物語は、その問いを読者に投げかけたまま、静かに幕を閉じる。
幼女戦記・日常戦線 ― ヴィーシャとターニャの十二日間 ― 五平 @FiveFlat
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