第10話:ターニャと読書の時間
帝国軍の将校用宿舎の一室。ターニャ・デグレチャフ少佐は、今日も業務を終えた後の貴重な時間を、自己啓発に費やしていた。彼女の手に握られているのは、『戦時下の経済と資源配分』という、分厚い専門書である。合理的な人間にとって、読書とは、知性の向上と効率的な自己形成を目的とする、最も優れた娯楽である。
そこに、コンコンと控えめなノックが響いた。
「少佐。ヴァイス中尉です」
ヴァイス中尉が、一冊の本を手に部屋に入ってきた。その本は、ターニャが普段読むような、渋い色合いの専門書とはかけ離れた、派手な装飾の表紙をしていた。
「少佐も、たまには息抜きをなさってはどうかと……その、奥様方が流行している小説だそうで……」
ヴァイスは、気まずそうにそう言って、本を差し出した。ターニャは、一瞬、これを「ヴァイス中尉による、私への無能な嫌がらせか?」と疑った。だが、彼の目は純粋な善意に満ちていた。
ターニャは、本を受け取る。その本には、『月夜の舞踏会と恋の罠』という、吐き気を催すような表題が記されていた。
【警告】識別コード、不一致。これは『娯楽』ではない。『非合理性の塊』である。
ターニャは、渋々、本を開いた。彼女は、この非合理的な現象を、軍人としての訓練の一環だと捉えることにした。人類の行動原理を理解することは、戦略を練る上で不可欠であるからだ。
物語は、華やかな舞踏会で、侯爵令嬢と平民の魔導師が出会う場面から始まった。ターニャの脳内では、即座に分析が始まる。
【記録】登場人物、確認。侯爵令嬢:貴族階級。戦略的価値は高いが、非効率的な行動原理を持つ個体。平民魔導師:実力はあるが、社会的階層が低い個体。
ターニャは読み進めていく。二人は、身分の差を乗り越えて恋に落ちる。
「……ふむ。これは、非合理的な資源の配分である。貴族階級の女性が、何の生産性もない恋愛という活動に、自身の時間と感情という希少資源を浪費するとは……経済的には愚行に等しい」
物語は、令嬢の父親である侯爵が、二人の仲を裂こうとする場面へと進んだ。侯爵の行動は、極めて理に適っている。ターニャは、その判断を高く評価した。
「侯爵の行動は、極めて理に適っている。娘という『生産資源』を、無能な平民に奪われるのを防ごうとしている。これは、国家の経済を守るための、当然の措置である」
だが、彼女の口元には、薄ら笑みが浮かんでいた。
「……だが、現実では、必ず無能が勝つ。これだから人類は滅びるのだ」
物語の結末は、ターニャの予想を裏切った。令嬢は、父親の説得を振り切って平民の魔導師と共に駆け落ちし、二人は苦労の末、幸せに結ばれる。ターニャの脳内では、この「駆け落ち」が「補給線切断作戦」へと置き換えられる。
「たった二人の逃避行が、侯爵の強固な防御陣地を突破し、補給線を切断しただと……!?」
【警告】結果、予測と乖離。これは、論理的な結論ではない。
ターニャは、頭を抱えたくなった。なぜ、父親の合理的な判断が敗北し、感情という非合理な要素が勝利するのか?
「一体、この本は何を伝えたいのか?個人の感情は、集団の秩序よりも優先されるべきだとでも言うのか?それは、軍規に反する危険思想である!」
ターニャの思考は、完全に袋小路へと迷い込んでいた。彼女は、こめかみに指を押し当て、深くため息をついた。その息で、机上の書類がわずかに揺れる。
「……待て。この小説の作者は、意図的にこの非合理性を描いているのではないか?これは、敵の新型兵器かもしれない」
ターニャは、一つの可能性に思い至った。
「この小説は、読む者の合理的な思考を破壊する、精神的ゲリラ兵器である!これを読んだ兵士は、合理的な判断を鈍らせ、非効率な感情に流される……」
ターニャは、震える手で本を閉じた。彼女の脳内ログは、エラーを乱発していた。
【障害】思考、停止。解析不能。非合理性の塊は、私の論理的フレームワークでは処理できません。
「……ヴァイス中尉め。無能な部下からの嫌がらせは、想像以上の被害をもたらすな」
ターニャは、そう呟くと、ペンを手に取った。彼女は、この経験を業務日誌に記録することにした。
【記録】本日の成果:敵性兵器(恋愛小説)の性能評価。
ターニャは、ペンを走らせながら、新たな研究課題を書き加える。
【記録】研究課題:非合理的な感情(恋愛)が、兵士の戦闘意欲に及ぼす影響についての考察。
彼女の戦いは、今日も、知性の限界を巡って続くのであった。
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